261-050_三宅神社(亀岡市三宅町)

比定社:三宅神社(亀岡市三宅町)

式内社コード:261-050
神名帳社名 :三宅神社、ミヤケノ
社    格:小
所 在 地 :621-0814 京都府亀岡市三宅町121
Plus Code  :2H5Q+CM 亀岡市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「みやけじんじゃ」と読む、地名の三宅は「みやけ」と読む。
JR亀岡駅の南東1kmほど年谷川西岸の町中の平地に鎮座。
周囲は入り組んでおり江戸時代以前の雰囲気をよく残している地域。
周囲の道路は狭いので徒歩でのアプローチが必要。
駐車場は無いので注意。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通1】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩2】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索3】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

古代山陰道が近くを通り川筋近くで屯倉の管理にはうってつけの立地。

写真

三宅神社を正面より望む。小さな石橋・石灯籠・鳥居がある。
三宅神社を正面より望む。小さな石橋・石灯籠・鳥居がある。
三宅神社の正面より左側より望む。鳥居の左側には真新しい神庫、「翁山鉾」が収められているようだ。
三宅神社の正面より左側より望む。鳥居の左側には真新しい神庫、「翁山鉾」が収められているようだ。
三宅神社の正面より右側より望む。周囲の道路は狭く住宅が建て込んでいる地域にある。
三宅神社の正面より右側より望む。周囲の道路は狭く住宅が建て込んでいる地域にある。
鳥居の右から奥を望む。かつては一町四方の社域だったということだが、いつの時代のことなのだろうか。
鳥居の右から奥を望む。かつては一町四方の社域だったということだが、いつの時代のことなのだろうか。
三宅神社の正面右側(北)を望む。周囲は道路がクルマでのアプローチは停める場所がないので注意。
三宅神社の正面右側(北)を望む。周囲は道路がクルマでのアプローチは停める場所がないので注意。
三宅神社の正面左側(南)を望む。
亀岡市謹製の説明書き。屯倉(みやけ)に由来する神社とある。
亀岡市謹製の説明書き。屯倉(みやけ)に由来する神社とある。
神社謹製の「郡家と三宅」。日本書紀に蘇斯岐(そしき)の屯倉の記述があり、この地がそれにあたるという説があるという。
神社謹製の「郡家と三宅」。日本書紀に蘇斯岐(そしき)の屯倉の記述があり、この地がそれにあたるという説があるという。
鳥居をくぐると広場になっている。正面に覆屋に入った本殿、右手に稲荷社、その奥に豊受大神が鎮座する。左の神庫にスペースをかなり取られている。
鳥居をくぐると広場になっている。正面に覆屋に入った本殿、右手に稲荷社、その奥に豊受大神が鎮座する。左の神庫にスペースをかなり取られている。
広場右手には何もない。稲荷社だけが南を向いている。
広場右手には何もない。稲荷社だけが南を向いている。
広場の右寄りから鳥居を望む。鳥居の左に神庫、その奥に舞殿があるのが分かる。
広場の右寄りから鳥居を望む。鳥居の左に神庫、その奥に舞殿があるのが分かる。
稲荷社を正面より望む。この社殿だけ南向き。
稲荷社を正面より望む。この社殿だけ南向き。
本殿に向かって右側にある豊受大神。
本殿に向かって右側にある豊受大神。
覆屋に入った本殿を正面より望む。覆屋は壁のないタイプ、本殿とともに非常にシンプルな作りだ。
覆屋に入った本殿を正面より望む。覆屋は壁のないタイプ、本殿とともに非常にシンプルな作りだ。
覆屋に入った本殿を右側より望む。
覆屋に入った本殿を右側より望む。
覆屋に入った本殿を左側より望む。
覆屋に入った本殿を左側より望む。
覆屋に入った本殿の左奥より本殿を望む。
覆屋に入った本殿の左奥より本殿を望む。
覆屋に入った本殿の左奥より鳥居を望む。右手に舞殿が見えている。
覆屋に入った本殿の左奥より鳥居を望む。右手に舞殿が見えている。
神庫が作られたことで窮屈なレイアウトになっている。
神庫が作られたことで窮屈なレイアウトになっている。
本殿前より一の鳥居を望む。
本殿前より一の鳥居を望む。
石灯籠には天保九年(1838年)とある。
石灯籠には天保九年(1838年)とある。

感想


亀岡市謹製の説明書きによると

三宅神社(みやけじんじゃ)

 当社の創祀は不明ですが、古代大
和朝廷の直轄地として経済的基盤
となった屯倉(みやけ)に由来する神社で、平
安時代の書物、「延喜式神名帳」にも
丹波国桑田郡十九社の内の三番社
として記載された古社です。叢稲荷(くさむらいなり)、
草分稲荷、三宅稲荷とも呼ばれ、往
古(おうこ)は一町四方の広大な社地を有し
ていましたが、天正の兵乱や寛文三
年(一六六三)等度重なる火災によ
り徐々に社域も小さくなっていき
ました。かつての社域の一部は、稲
荷垣内との地名も残されています。
 社は延宝元年(一六七三)に建て
られ、その後元禄十一年(一六九八)
に上屋が再建されました。また旧領
主代々の祈願所でもありました。
 祭神には穀物の神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、
稚産霊命(わくむすびのみこと)、豊保食命(とようけもちのみこと)の三柱が祀られ
ています。

とある。


神社謹製の「郡家と三宅」によると

屯倉(みやけ)というのは大化改新以前に存在した
天皇の直轄地をさしており「日本書紀」安閑天皇二年の条
をみると、丹波国蘇斯岐(そしき)の屯倉がおかれたことが記され
この(みやけ)がここに置かれたかについては諸説がある。
郡家(ぐんけ)を古くは「こおりのみやけ」と読み郡衛ともいった。
郡家は今日の郡の役所と考えられ、その役所には郡庁、
官舎、厨家、廐のほか十数宇の正倉が建ち郡の政治、経
済の中心となった。三宅郡家説を主張する理由
としては、旧山陰道の要地を占め、郡家面積
としても河岸段上、方二町の平坦面がらく
らくとその中におさまり、式内社三宅神社
(俗に三宅稲荷)は屯倉の存在を物語るものと
して古くから注目されてきた。
最近郡家の発掘報告が次々となされ、
次第にそのアウトラインが浮び上ってきたので、
ここ三宅の地にもやがて科学的な調査の
日が近づくことも時間の問題といえよう。

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、倉稻魂命・稚産靈命・保食命

安閑天皇2年(535年)5月屯倉に併設(西暦諸説あり)。
寛文10年(1670年)頃焼失。
明治6年(1873年)村社。

江戸時代までは「三宅稻荷」・「稻荷明神」と呼ばれていた。

安閑天皇2年5月屯倉に併設されたとしている。
「日本書紀」安閑天皇2年の条をみると、丹波国蘇斯岐(そしき)の屯倉がおかれたことが記され
この(みやけ)がここに置かれたかについては諸説がある。

とある。


三宅神社の鎮座する当地は文字通り蘇斯岐屯倉(そしきみやけ)が置かれたのではないかとされている地域。
古代山陰道は大堰川の北側の保津あたりを通っていたと思われ少し離れている。
だが古代山陰道に隣接した非常に重要な地域であったことは想像できる。
周囲を見渡すと東南に村山神社、南西に鍬山神社、北東に請田神社・桑田神社、西に伊達神社(論社2社)と適度な距離感で式内社が配置されているのが分かる。
こういう観点から見ると三宅神社はやはり屯倉と関連して鎮座したのではないかと思われる(個人的見解です)。
ご祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)・稚産霊命(わくむすびのみこと)・豊保食命(とようけもちのみこと)とあり、いかにも屯倉と関連がありそうだ。

三宅神社へのアプローチは周囲の道路が狭くクルマの乗り入れが難しいので徒歩でのアプローチが良いだろう。
周囲の道路は少々入り組んでおり発見しにくいかもしれないが徒歩なら難しくはない。

三宅神社の社域は東を向いており小さな石橋・石灯籠・鳥居がある。
この石灯籠には天保九年(1838年)とある。
小さな石橋の左には立派な神庫があり「翁山」と銘があり亀岡祭11鉾のひとつ「翁山鉾」が収められているようだ。
現在の社域はかなり小さく感じるが、かつての社域は一町四方の社域だったとあるがいつの時代のことなのだろうか。
時代とともに周囲が建て込んで変化し現在の社域となっているようだ。

鳥居をくぐるとすぐ正面に二の鳥居、その奥に覆屋に入った本殿が鎮座している。
社域としては少々いびつで、左側の神庫にスペースを取られているような印象がある。
右側には南を向いている稲荷社、本殿と同様に東を向いている豊受大神の社殿がある。
本殿の覆屋は壁のないタイプ、本殿は非常に質素な印象だ。
神庫は新しく近年に建築されたものと思われ、その際に社域も補修整理されたように見受けられる。
いずれの建物も手入れがなされ状態は非常に良く近隣の崇敬の厚さが感じられる。

重要な屯倉を管理するために置かれた神社。

注意点

神社周囲は非常に道幅が狭いので徒歩でのアプローチが必要。

訪問ノート

訪問日 :2022/5/26
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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式内社一覧表はこちらから

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