318-120_木梨神社

比定社:木梨神社

式内社コード:318-120
神名帳社名 :木梨神社、コナシノ/キナシ
社    格:小
所 在 地 :673-1462 兵庫県加東市藤田473
Plus Code  :WXFR+F7 加東市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「こなしじんじゃ」と読む、地名の加東市藤田は「かとうしふじた」と読む。
国道372号線の藤田交差点を東に入り兵庫県道17号西脇三田線を750メートルほど走ると藤田東の交差点、そのすぐ東に鳥居が見えるので分かりやすい。鳥居をくぐり中国自動車道下のトンネルを抜けると正面にある。ここから左に行くとすぐに駐車場がある。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

舞台があって芸能が伝承されているところ。

写真

小梨神社の一の鳥居を望む。兵庫県道17号西脇三田線側から見ると一の鳥居の向こうに中国自動車道が横切りその下のトンネルを抜けて行くことになる。
小梨神社の一の鳥居を望む。兵庫県道17号西脇三田線側から見ると一の鳥居の向こうに中国自動車道が横切りその下のトンネルを抜けて行くことになる。
神社謹製の由緒書き。ご祭神は大直日神(おおなおびのかみ)・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)・神直日神(かみなおひのかみ)と綿津見三神・住吉三神となっている。
神社謹製の由緒書き。ご祭神は大直日神(おおなおびのかみ)・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)・神直日神(かみなおひのかみ)と綿津見三神・住吉三神となっている。
一の鳥居をくぐり参道を進むと高速道路をくぐるトンネル。トンネル入口には祭のライトがあるのが興味深い。
一の鳥居をくぐり参道を進むと高速道路をくぐるトンネル。トンネル入口には祭のライトがあるのが興味深い。
高速道路下のトンネルを抜けると石段。
高速道路下のトンネルを抜けると石段。
石段を登ると広場に到着。正面には割拝殿のような参集殿のような建物があり、その奥に拝殿がある。
石段を登ると広場に到着。正面には割拝殿のような参集殿のような建物があり、その奥に拝殿がある。
広場の右手には社務所。
広場の右手には社務所。
広場の左手には茅葺きの舞台がある。
広場の左手には茅葺きの舞台がある。
割拝殿のような参集殿のような建物を抜けると一段上に拝殿。
割拝殿のような参集殿のような建物を抜けると一段上に拝殿。
拝殿への石段脇に手水鉢。
拝殿への石段脇に手水鉢。
拝殿を左側より望む。
拝殿を左側より望む。
拝殿には説明書きがある。沿革はやや分かりにくい表現となっている。
拝殿には説明書きがある。沿革はやや分かりにくい表現となっている。
拝殿後方に幣殿、その後方に本殿がある。記録によると寛政10年(1798年)の建築のようだが状態は良いように見える。久須善兵衛政清・中井丈五郎正忠による彫り物が施されているのだがよく見えないのが残念。
拝殿後方に幣殿、その後方に本殿がある。記録によると寛政10年(1798年)の建築のようだが状態は良いように見える。久須善兵衛政清・中井丈五郎正忠による彫り物が施されているのだがよく見えないのが残念。
本殿を右側より望む、久須善兵衛政清・中井丈五郎正忠による彫り物。
本殿を右側より望む、久須善兵衛政清・中井丈五郎正忠による彫り物。
訪ねた時には秋祭りの準備中。舞台も準備が進んでいた。
訪ねた時には秋祭りの準備中。舞台も準備が進んでいた。
舞台の楽屋に鎮座する獅子。
舞台の楽屋に鎮座する獅子。
神社石段より一の鳥居を望む。少々窮屈な感じ。
神社石段より一の鳥居を望む。少々窮屈な感じ。

感想


神社謹製の由緒書きによると

◆所在地 兵庫県加東市藤田四七三番地
◆祭 神 大直日神(おおなおびのかみ)・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)・神直日神(かみなおひのかみ)・表津少童神(うわつわたつみのかみ)・中津少童神(なかつわたつみのかみ)・底津少童神(そこつわたつみのかみ)・表筒之男命(うわつつのおのみこと)・中筒之男命(なかつつのおのみこと)・底筒之男命(そこつつのおのみこと)
◆由 緒
 十代崇神天皇の時、物部八十手がこの地に、八十枉津日神を祀りのち
将軍彦坐命が丹波の賊を征伐した時、当地において神託があり神社を創建
されたといわれている。
 また、小梨軽太子が神前に幣帛をささげられた因縁から、社号を小梨
神社と呼ぶようになったといわれている。六十代醍醐天皇(平安時代)
の時、将軍多田満仲公がこの里に大池(多田池)を築造され、同時に
光仲公によって再建された由緒ある神社で、延喜式の神名帳に記載さ
れた式内社であり、天皇の勅使参向の官社であった。のち、この大池
に大蛇が住むようになり、藤田三郎太夫行安が当社に祈願して、これを
退治した伝説は有名である。その後、藤田明神とも聖九社明神とも呼ばれ
たことがあり、明治六年(一八七三)十一月郷社格に加列され、大正八年
(一九一六)二月神饌幣帛料供進神社に指定される。

 多田池の伝説
 摂津の昆陽池のそばを通りかかった巡礼が、若い女から小さな文箱を託されました。
女の頼み通り多田池までやってきて、めあての家を探しましたが見あたりません。
しかたなく箱を開けますと手紙はなくて小さなヘビがすべり落ち、草むらに隠れました。
 それから数十年の後、池のほとりの氏神様へお参りする人々を、大蛇があらわれて
呑んでしまうようになりました。これがあの小さな蛇の成長した姿だったのです。
その頃藤田村に三郎大夫という若者がいて、村人の難儀を救おうと決心しました。
火薬を大きな瓢箪に詰め、それを藁に包んで人形を作りました。それを社前に置き
鈴を鳴らしました。まもなく大蛇が現れ人形をひと呑みにしました。やがて腹の中で
火薬が爆発し、大蛇は苦しさにのたうちまわりました。苦しんではねまわったため
多田池の堤防が切れ、水が流れ出した為たくさんの家が流されずっと下流で止まった
のが、今の家原なのだそうです。
 又、その時、氏神の神主祈って御幣を振りますと水が逆さまに流れて多くの人が
助かりました。そこを今でも「逆川」と呼んでいます。
 大蛇が苦しんではねまわった所は「蛇ころび」といい、今だに草木は生えていません。
又、少し離れた所の岩は「蛇枕」の名があります。こうして水のすっかり無くなった
池の底は豊かな水田となり、人々が住むようになりました。 「民話より」
◆祭 儀
 例祭 十月、祈年祭 三月、新嘗祭 十二月

小梨神社社務所

とある。


拝殿の説明書きによると

鎮座地
 加東郡社町藤田北山田七三番地
神社名
 小梨神社
創 立
 延喜二十二年 壬、午、年
本殿祭神
 大直日神・八十枉津日神・神直日神・底津少童神・中津少童神・表津少童神・底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命
祭 儀
 例 祭 十月十一日
 祈年祭 三月二十一日
 新嘗祭 十二月二十一日
沿 革
 第六十代 醍醐天皇
 延喜式内 二十二年創建
 元郷社

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、八十枉津日神、(配祀)大直日神・神直日神・表筒之男命・中筒之男命・底筒之男命・表津少童神・中津少童神・底津少童神。

崇神天皇の代(BC97~BC30)物部八十手が「八十枉津日神」を祀。
延喜22年(922年)多田満仲大池を築造社殿造営。
建久4年(1193年)賀茂国造鎌を奉納。
応永32年(1425年)社殿再建。
承応2年(1653年)造営。
寛政10年(1798年)造営。
明治6年(1873年)11月郷社。

江戸時代までは「藤田大明神」「聖九社大明神」と呼ばれていた。

10代崇神天皇の時、物部八十手がこの地に、八十枉津日神を祀りのち将軍彦座命が丹波の賊を征伐した時、当地において神託があり神社を創建されたと云われている。
また木梨軽太子が神前に幣帛をささげられた因縁から社号を木梨神社と呼ぶようになったと云われている。
推古天皇の時、将軍多田満仲公がこの里に大池(多田池)を築造され、同時に再建された。

とある。


兵庫県神社庁によると。

主祭神:八十枉津日神(ヤソマガツヒノカミ)
配祀神:大直日神(オホナホビノカミ)・神直日神(カムナホビノカミ)・底津少童神(ソコツワタツミノカミ)・中津少童神(ナカツワタツミノカミ)・表津少童神(ウハツワタツミノカミ)・底筒之男神(ソコツツノオノカミ)・中筒之男神(ナカツツノオノカミ)・表筒之男神(ウワツツノオノカミ)

由緒:
 10代崇神天皇の時、物部八十手(もののべのやそで)がこの地に、八十枉津日神を祀りのち、将軍彦坐命が丹波の賊を征伐した時、当地において神託があり神社を創建されたといわれている。
 また、木梨軽太子(こなしかるのみこ)が神前に幣帛を捧げられた因縁から、社号を木梨神社と呼ぶようになったといわれている。
 60代醍醐天皇(平安時代)の時、将軍多田満仲公がこの里に大池(多田池)を築造され、同時に満仲公によって再建された由緒ある神社で、延喜式(えんぎしき)の神名帳(じんみょうちょう)に記載された式内社であり、天皇の勅使参向の官社であった。
 のち、この大池に大蛇が住むようになり、藤田三郎太夫行安(だゆうゆきやす)が当社に祈願して、これを退治した伝説は有名である。
 その後、藤田明神とも聖九社明神とも呼ばれたことがあり、明治6年(1873)11月郷社格に加列され、大正8年(1916)2月神饌幣帛料供進神社に指定される。

とある。


木梨神社のある地域は南に千鳥川、北に三草川が流れ、西4kmほどに加古川が流れる地域。
北東4.5kmほどに義経の三草山合戦の舞台である三草山がある。
この地域は舟運が盛んだったことが容易に想像でき古くより開けた場所だったと思われる。
周囲には名草古墳A・藤田古墳群1号墳~6号墳・藤田・一ノ谷口遺跡・藤田・薮下遺跡・藤田・宮ノ下遺跡・藤田・門ノ坪遺跡・藤田・名草口遺跡・藤田・カイチ遺跡・藤田・南山古墳群・名草古墳B(兵庫県考古博物館資料)がある。

木梨神社のご祭神は、大直日神(おおなおびのかみ)・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)・神直日神(かみなおひのかみ)・表津少童神(うわつわたつみのかみ)・中津少童神(なかつわたつみのかみ)・底津少童神(そこつわたつみのかみ)・表筒之男命(うわつつのおのみこと)・中筒之男命(なかつつのおのみこと)・底筒之男命(そこつつのおのみこと)となっている。
大直日神は八十枉津日神の枉(まが)を直す神、神直日神とともに禍を直し秩序を回復する神とされているようだ。
表津少童神・中津少童神・底津少童神は、ワタツミの神(海の神)。
表筒之男命・中筒之男命・底筒之男命は、住吉三神となっている(こちらも海の神だ)。

由緒書によると、十代崇神天皇の時(BC97~BC30)物部八十手がこの地に八十枉津日神を祀ったのが始まりとされる。
将軍彦坐命(第9代開化天皇(BC157~BC98)の第三皇子、四道将軍の一人かも?諸説あり)が丹波の賊を征伐した時、当地において神託があり神社を創建とある。
小梨軽太子(允恭天皇(412~453年)の第一皇子)が神前に幣帛をささげられた因縁から、社号を小梨神社と呼ぶようになったといわれている。
ここまでのお話では海の神様は登場しない、きっとその後にワタツミの神や住吉三神が勧請されたのだろうと想像する(個人的見解です)。
播磨東部は海はないが住吉神が祀られる神社が非常に多いがどうしてなのだろうか、賀茂氏との関係だろうか(個人的見解です)。

木梨神社へのアプローチは比較的分かりやすい。
国道372号線の藤田交差点を東に入り兵庫県道17号西脇三田線を750メートルほど走ると藤田東の交差点、そのすぐ東に鳥居が見えるので分かりやすい。
鳥居をくぐり中国自動車道下のトンネルを抜けると正面にある。
ここから左に行くとすぐにありがたいことに駐車場がある。

木梨神社へ兵庫県道17号西脇三田線の側からアプローチすると少々戸惑うかもしれない。
というのは一の鳥居をくぐるとすぐに中国自動車道が横切り、神社に到達するにはその下のトンネルを通らなければならない。
このトンネルの入口には祭の電光掲示板があって祭の時は点灯するようだ、どのように使用するのかが気になる。
トンネルを抜けると神社正面にたどり着く、左手に少し行くとありがたいことに駐車場がある。
石段を登ると拝殿下の広場、正面には参集殿のような建物、右手には社務所、左手には茅葺きの舞台がある。
参集殿のような建物の中央を進みさらに石段を登れば拝殿となる。
拝殿後方には幣殿、その後ろに本殿となっている。
本殿は記録によると寛政10年(1798年)の建築のようだが状態は良いように見える。
本殿には、久須善兵衛政清・中井丈五郎正忠による彫り物が施されているのだが近づいて見ることが難しいのが残念。
秋祭りの準備中だったようで舞台には獅子舞の獅子が鎮座していたのが印象的。
社域はそれほど広くはないがきれいに保たれており気持ちよく参拝できる。
高速道路で神社の前が塞がれてしまっているのが少し残念だ。

少し珍しい神様を祀る神社。

注意点

高速道路をくぐるトンネルは狭いので運転注意されたし。

訪問ノート

訪問日 :2018/10/7
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100