比定社:(論)伊弉册神社
式内社コード:308-090
神名帳社名 :伊和都比売神社 イワツヒメノ
社 格:小
所 在 地 :673-0895 兵庫県明石市岬町19‐8
Plus Code :JXVM+97 明石市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
「いざなみじんじゃ」と読む、地名の明石市岬町は「あかししみさきちょう」と読む。
国道2号線を西に向かって走り明石川を渡る明石大橋の手前を南に入り500メートルほど進むとたどり着く。
神社の前にある駐車場は月極のようで参拝者用の駐車場は無いので注意されたし。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
かつては海より直接参道が続いていたと思われる立地。
写真



















感想
神社謹製の伊弉册神社のご祭神及び由緒によると
ご祭神 伊弉册大神
相殿神 須佐之男大神
当社は延喜式神名帳に云う明石郡九座の一
つ伊和都比売神社にて人皇十代崇神天皇御宇
六年九月十日勧請せられた式内社であり人皇
四十九代光仁天皇御宇宝亀二年境内地四町四
方赦免地となり降りて別所氏三木城主たる時
崇敬厚く社領五十石を寄進祭典営繕に当ったと
云われ其後天正年間減地となるも東域に小祠
を建て御旅所と名づく(元の祇園さん)西域
にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界
の遺跡とする。この頃の境内地域は東西に連
る松林にて「さなぎの森」と呼ばれた。
嘉吉年間赤松氏の和阪ノ戦天文年中町野入道
の放火天文年間羽柴氏三木城攻め等しばしば
兵火に罹り社伝、旧記をことごとく焼失すると
云う。明治十二年七月二日県社に列せられる。
昭和二十年六月太平洋戦争の戦災にて社殿
社務所一切の建物を焼失昭和三十七年社殿再
建、平成七年一月十七日の大震災で一部被害を
受け、三宝荒神社の新改築本社殿の改修工事が
行われた。
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、伊弉册尊・(配祀)素盞嗚尊・(合祀)宇迦御魂大神・金山彦大神・大山祇命・磐長比売命・木花咲耶姫命。
崇神天皇6年(BC92年、諸説あり)9月10日鎭座。
宝亀2年(771年)境内地四丁四方赦免地となり。
天正年間(1573~1593年)羽柴秀吉の三木攻撃に社殿悉く焼失。
明治12年(1879年)7月2日県社。
昭和20年(1945年)6月太平洋戦争の戦災にて焼失。
江戸時代は「佐奈岐神社」と呼ばれていた。
中世東城に小祠を建て御旅所と名づく(元の祇園さん)西城にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界の遺跡とする。
この頃の境内地域は東西に連る松林にて「さなぎの森」と呼ばれた。
とある。
兵庫県神社庁によると。
主祭神:伊弉册大神(イザナミノオオカミ)
配祀神:素盞嗚大神(スサノオノオオカミ)・屋船豊受大神(ヤフネトヨウケノオオカミ)・猿田彦大神(サルタヒコオオカミ)・福福三宝荒神(火結大神、ホムスビノオオカミ)
祭記事
左義長(とんど祭)
1月15日に近い日曜日午前8時頃
明石浦漁協の組合員の奉仕による近在にない大規模な行事である
年の始め勇壮な「勢」を得る。見学者多し
例大祭
10月第2土曜日・日曜日
神幸式
神輿海上渡御
由緒:
延喜式神名帳に云う明石郡九座の一つ伊和都比売神社にて、人皇10代崇神天皇御宇6年勧請せられた式内社である。
人皇49代光仁天皇御宇宝亀2年(771)、境内地四丁四方赦免地となる。
別所氏三木城主たる時崇敬厚く、社領五十石を寄進し、祭典営繕に当ったと云われる。
天正年間(1573~1591)減地となるも、東城に小祠を建て御旅所と名づく(元の祇園さん)西城にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界の遺跡とする。
嘉吉年間(1441~1443)赤松氏の和阪ノ戦、天文年中(1532~1554)町野入道の放火、天文年間羽柴氏三木城攻め等のしばしの兵火に罹り、社殿・旧記をことごとく焼失する。
松の巨木(名残の初代の三本松)の生い茂るサナギの森と云われた。
明治12年(1879)、県社に列せられる。
昭和20年(1945)、太平洋戦争の戦災にて社殿、社務所一切の建物を焼失。
昭和37年(1962)、社殿再建。
当社は物を生産する神、特に女神の信仰篤く、古くより根強い信仰を集めている。
とある。
播磨国、明石郡、伊和都比売神社の論社のひとつ。
(論)伊弉册神社のある当地は、古代山陽道が近くを通っており近隣に明石駅家があったと思われる(まだ解明されていない)。
また西国街道は当社の350メートルほど北を東西に通っており陸路の交通の要衝であったことが分かる。
かつて当社の南は100メートルほどで砂浜となっていて参道が続いていたと思われる。
(論)伊弉册神社のご祭神は、伊弉册大神、配祀神として須佐之男大神となっているが諸説あるようだ。
記録に残る創建は、崇神天皇6年(BC92年、諸説あり)9月10日鎭座となっている。
他の論社と同様に伊和都比売神社との関係が全く分からない。
(論)伊弉册神社へのアプローチは比較的わかりやすい。
国道2号線の西に向かって明石川を渡る明石大橋の手前を南に入り500メートルほど進むと神社の塀が見えてくる。
神社の前にある駐車場は月極のようで参拝者用の駐車場は無いので注意されたし。
(論)伊弉册神社には鳥居はなく入口には立派な注連柱が建っている。
現在の社域は広くはないが、注連柱から拝殿まで石畳が続いている。
石畳の右手には真新しい集会所と古い社務所、左手には手水舎があり、広くない社域に多数の建物がある。
正面にある拝殿は記録によると昭和37年(1962年)に建築されたようだ。
拝殿の左手には「式内社 伊弉册神社」の石標があり、その奥には福徳三宝荒神社が東向きに鎮座している。
拝殿の奥の本殿も比較的新しいようで銅板葺の屋根を持っている。
社域には安政六年(1860年)と入った石灯籠があり、古社を感じるものは無くすべてが比較的新しい。
(論)伊弉册神社が南面している先には淡路島があるのでその関係が強そうだ(個人的観測です)。
淡路島との関係性を感じる神社。
注意点
参拝者用駐車場は無いので注意されたし。
訪問ノート
訪問日 :2024/9/15
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7S3 + FE 20-70mm F4 G
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。