314-010_佐用都比売神社

比定社:佐用都比売神社

式内社コード:314-010
神名帳社名 :佐用都比売神社(佐用都比賣神社)、サヨツヒメノ
社    格:小
所 在 地 :679-5306 兵庫県佐用郡佐用町本位田甲261
Plus Code  :2988+Q6 佐用町、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「さよつひめじんじゃ」と読む、地名の佐用町本位田甲は「さようちょうほんいでんかぶと」と読む。
本位田甲の集落の南端の平地に鎮座。
国道179号線と国道373号線の分岐より西へ佐用川を渡り200メートルほどの実栗(みくり)交差点を北へ入り兵庫県道240号下庄佐用線を750メートルほどで案内看板を東へ450メートルほどで到着。
神社西側に駐車場完備。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

佐用郡の開拓を行い名前の元になった狭依毘賣命(市杵島姫命)。

写真

佐用都比売神社を正面より臨む。道路が2手に分かれて島のようになっている。
佐用都比売神社を正面より臨む。道路が2手に分かれて島のようになっている。
右側(東)を臨む。この先は佐用川の方向。
右側(東)を臨む。この先は佐用川の方向。
正面(南)を臨む。この先に江川川を渡る橋があり、かつての参道だったと思われる。
正面(南)を臨む。この先に江川川を渡る橋があり、かつての参道だったと思われる。
左側(西)を臨む。神社の西側には駐車場完備、奥に見えるのは社務所。
左側(西)を臨む。神社の西側には駐車場完備、奥に見えるのは社務所。
一の鳥居脇にある佐用町謹製の由緒書。ご祭神の市杵島比売命は多彩な名前を持っており、狭依毘売命・玉津日女命・賛用都比売命とあり、佐用郡開拓の祖とされている。
一の鳥居脇にある佐用町謹製の由緒書。ご祭神の市杵島比売命は多彩な名前を持っており、狭依毘売命・玉津日女命・賛用都比売命とあり、佐用郡開拓の祖とされている。
一の鳥居をくぐったところにある社標には縣社とある。
一の鳥居をくぐったところにある社標には縣社とある。
一の鳥居をくぐるとすぐに二の鳥居や手水舎がある。
一の鳥居をくぐるとすぐに二の鳥居や手水舎がある。
手水舎。
手水舎。
神社謹製の由緒書。ご祭神は、狭依毘賣命(市杵島姫命)、(相殿)素盞鳴大神・大國主大神・春日大神・八幡大神とある。
神社謹製の由緒書。ご祭神は、狭依毘賣命(市杵島姫命)、(相殿)素盞鳴大神・大國主大神・春日大神・八幡大神とある。
建物の配置図。右奥には片宮神社(ご祭神は天照大神)が鎮座する。
建物の配置図。右奥には片宮神社(ご祭神は天照大神)が鎮座する。
二の鳥居を臨む。正面に拝殿。
二の鳥居を臨む。正面に拝殿。
二の鳥居脇にある石灯籠には「佐用姫大明神」の銘があり元禄期のようだ。
二の鳥居脇にある石灯籠には「佐用姫大明神」の銘があり元禄期のようだ。
二の鳥居をくぐると明るい拝殿前の広場。
二の鳥居をくぐると明るい拝殿前の広場。
広場の右手には絵馬殿。
広場の右手には絵馬殿。
左手には播磨風土記・続日本後記 記載神社標が建っている。
左手には播磨風土記・続日本後記 記載神社標が建っている。
その奥には神札授与所。
その奥には神札授与所。
拝殿を正面より臨む。立派で大きい、大正期に改築の記録がある。
拝殿を正面より臨む。立派で大きい、大正期に改築の記録がある。
拝殿右手には倉庫がある。古木が歴史を感じさせる。
拝殿右手には倉庫がある。古木が歴史を感じさせる。
拝殿左手には道路の向こうに社務所がある。
拝殿左手には道路の向こうに社務所がある。
拝殿の扁額には「佐用姫大明神宮」とある。
拝殿の扁額には「佐用姫大明神宮」とある。
拝殿と園後方の幣殿を右側より臨む。
拝殿と園後方の幣殿を右側より臨む。
本殿はカチッとした作りで状態は良い。記録によれば享保5年(1720年)の建築のようだ。
本殿はカチッとした作りで状態は良い。記録によれば享保5年(1720年)の建築のようだ。
本殿を右側より垣の隙間より臨む。
本殿を右側より垣の隙間より臨む。
本殿右手には天照大神を祀る片宮神社が鎮座する。詳しい由緒は不明。
本殿右手には天照大神を祀る片宮神社が鎮座する。詳しい由緒は不明。
本殿左奥より幣殿と拝殿を臨む。
本殿左奥より幣殿と拝殿を臨む。
本殿を左側より臨む。
本殿を左側より臨む。
拝殿後方の幣殿を左側より臨む。立派な幣殿。
拝殿後方の幣殿を左側より臨む。立派な幣殿。
拝殿左側より二の鳥居を臨む。
拝殿左側より二の鳥居を臨む。
拝殿前より二の鳥居を臨む。
拝殿前より二の鳥居を臨む。

感想


神社謹製の由緒書によると

佐用都比賣神社御由緒

御祭神、 狭依毘賣命(さよりひめのみこと)、又の御名市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、相殿、 素盞鳴大神、
大國主大神、 春日大神、 八幡大神を合わせ祀る、 創立は往古にして
続日本後記に「第五十四代仁明天皇嘉祥二年(紀元一五〇九年、
西紀八四九年)十一月官社に預る」と記されている。更に延喜
式神明帳(紀元一五八七年、西暦九二七年)に「第六十代醍醐天
皇の御代延喜式内社に預る」と記されている。播磨風土記(元明
天皇紀元一三七三年、西暦七一三年)に讃容郡と言う所以は大神
妹妋各二柱。各競いて國を占めたまう時、妹の玉津日女命(たまつひめのみこと)臥せ
る生鹿を捕え其の腹を割きて、其の血を種とうえ仍ち一夜の間に
苗生いぬ。
 即ち取り殖えしめきこゝに大神、汝妹は五月夜殖るかもと勅り
たまい他処に去りましき。故に五月夜(さよ)郷と号ふ。
神の名、賛用都比賣命、今讃容の町田に有也と記されている。
古来当地方の開祖佐用姫大明神として昔は御神領地が七町七反
もあり宮祭されていたものであるが豊臣の兵火にてことごとく
焼失し、すいびしたが農業、商業、武術、安産、縁結・鎮火の
神として広く信仰されて来た。国司領主が代々崇敬した神社で、
赤松円心、及び兄の孫別所五郎左衛門敦範(利神城主)、
池田三左衛門輝政(白鷲城主)、池田出羽守(利神城主)等が
崇社とした。その他山中鹿之助が当地に来た時、尼子家再興を
祈念して石燈篭を奉建した事、宮本武蔵が諸国修行に出かける時、
當社に木刀二振りを捧げ十七日間参籠してその武運を祈願して
出立した事等が伝書にみとめられる。万治三年(紀元二三二〇年、
西紀一六六〇年)松平石見守が拝殿を再築、元禄十四年九月
(紀元二三六一年、西暦一七〇一年)領主松平久之烝が金子百両
米十五石を献じ現在の本殿を再建した。大正十三年県社に昇格し、
大正十五年現在の拝殿幣殿を氏子並びに一般崇敬者の寄進金
約二万五千円と氏子の出人夫約五百人をもって改築し更に神域も
拡張された。戦後は頓に霊験あらたかとなり、病難、交通安全、
安産、厄除等御加護を蒙るもの数多く崇敬者は遠く大阪、広島
方面に及んでいる。

 北条時頼奉納歌
  何所とも知らで道にぞやみぬべき
   はれまも見えぬ佐用の朝霧

とある。


佐用町謹製の由緒書によると

佐用都比売神社(さよつひめじんじゃ)

鎮座地 佐用郡佐用町本位田甲261
祭 神 市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)またの名を狭依毘売命(さよりひめのみこと)
■播磨国風土記(はりまのくにふどき)によると、出雲(いずも)の国から来た大神と妹神が佐用の領有を
競ったとき、妹玉津日女命(たまつひめのみこと)は、生きた鹿の腹をさいてその血に稲をまいた
ところ、一夜で苗が生えたのでそれを植え付けた。大神は「汝妹(なにも)は五
月(さよ)に植えつるかも」と言い、去って行った。讃容(さよ)の地名は、これから
つけられたと説明しており、女神を賛用都比売命(さよつひめのみこと)と名付けたと伝えてい
る。
 一千余年の昔、佐用都比売神社は、官社となるほどの大社であった。
現在も、佐用郡内はもとより、大阪、広島など遠方からの参拝者がたえ
ない。

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、市杵島姫命、(配祀)素盞嗚尊・大国主命。

創立年代は不詳
嘉祥2年(849)預官社(修正)。
永享年間(1429~1441年)別所敦範の尊崇を受ける。
天正5年(1577年)兵火で焼失(修正)。
万治2年(1659年)松下石見守拝殿再建。
元禄14年(1701年)松平久之丞本殿再興。
宝永2年(1705年)本殿を建立(追加)。
享保5年(1720年)本殿を建立(追加)。
明治7年(1874年)7月郷社、神饌所を新築。
明治30年(1897年)本殿の屋根替(追加)。
明治44年(1911年)社務所を新築(追加)。
大正3年(1914年)幣殿を建替(追加)。
大正13年(1924年)2月県社。
大正15年(1926年)幣殿拝殿を改築(追加)。

江戸時代までは「佐用姫大明神」と呼ばれていた。

風土記に賛用都比売命を祀る社の存在が示唆されており、現社地の北側の塚から彌生式土器が出土して、その歴史は極めて古いと思われる。

とある。


兵庫県神社庁によると

主祭神:素盞嗚尊(スサノオノミコト)
配祀神:天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・大国主命(オホクニヌシノミコト)・誉田別命(ホンダワケノミコト)

由 緒:
 播磨風土記に見ゆる此地方開拓の祖神。
 仁明天皇嘉祥2年(849)、官社に列せられ延喜式の制小社となり、永享年間(1429~1440)、別所敦範、本郡佐用庄・豊福庄を領し、利神山に築城。
 天正5年(1577)、羽柴秀吉中国征伐の際上月城を攻めて火を当社に放つ。降って池田輝政播備淡の三国を領し姫路に居城するや、其崇敬社となり、一族池田出羽守利神城を再築。同氏の崇敬を受け慶長15年(1610)、領主良照院之を崇敬。
 徳川幕府の旗本松下左近大輔平福に居り一萬石を領す。松下石見守万治2年(1659)、拝殿を再建。
 寛永17年(1640)、松平主馬頭長谷村に居りて当社を崇め、孫松平久之丞に至り、元禄14年(1701)上米十五石金子百両を捧げて現今の社殿を再建。
 宝永2年(1705)、享保5年(1720)に本殿を建立。
 明治7年(1874)、神饌所を新築し、同年郷社に列し、同年神饌所を新建す。同30年(1897)本殿の屋根替を行ひ、44年(1911)社務所を新築し、大正3年(1914)幣殿を建替へ、同13年(1924)縣社に昇格す。同15年(1926)幣殿拝殿を改築。

とある。


佐用都比売神社のある当地は、東の佐用川、西の江川川に挟まれた地域にある。
かつては神社のすぐ脇を佐用川が流れていたのではないだろうか。
南へ1kmほどに古代「美作道」「因幡道」の分岐があったと推定されており交通の要衝であることに間違いない。
街道筋と水運に恵まれこの地域の中心的な存在だったと思われる。
やはり古くより開けた場所のようで周囲には、本位田遺跡・塩田古墳・本位田古墳群1号墳~4号墳・池の堤製鉄遺跡・本位田高田製鉄A遺跡などがある(兵庫県考古博物館資料による)。

ちなみに由緒に出てくる利神城(りかんじょう)は佐用川の東岸、北へ3.4kmほどの場所にあり、元は南北朝時代に築城された山城である。
播磨52万石の領主池田輝政の甥、池田出羽守由之が平福領2万3千3百石の領主となった際に元々あった山城を改修した(国の史跡名勝天然記念物)。

佐用都比売神社のご祭神は、狭依毘賣命(市杵島姫命)、(相殿)素盞鳴大神・大國主大神・春日大神・八幡大神。
多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・タキリビメ(多紀理姫命(たぎりひめのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)は宗像三女神と呼ばれている。
狭依毘賣命(市杵島姫命)は、佐用郡の開祖であり名前の元となった神だ。
また神社謹製・佐用町謹製の由緒書に出てくる玉津日女命は佐用都比売命のことで伊和大神の妹に当たる。
伊和大神は大国主命のことで313-010_伊和神社が本拠地となる。
整理すると、玉津日女命・狭依毘賣命・市杵島姫命・賛用都比売命・佐用姫大明神と実に多くの名前を持っている。
多くの名前を持つという特徴は大国主命と同様で、多彩な顔を持っていたのではないだろうか。

佐用都比売神社へのアプローチは比較的分かりやすい。
国道179号線と国道373号線の分岐より西へ佐用川を渡り200メートルほどの実栗(みくり)交差点を北へ入り兵庫県道240号下庄佐用線を750メートルほどで案内看板を東へ450メートルほどで到着。
案内看板を東へ曲がると江川川を渡る橋に擬宝珠が施されているのでこの道が参道だったと思われる。
ありがたいことに神社西側に駐車場完備である。

江川川よりアプローチすると正面に一の鳥居が南面し建っている、左右に道路が分岐し島のような形状だ。
鳥居をくぐるとちょうどよい感じの社叢が広がり明るい社域を形作っている。
二の鳥居近くには「佐用姫大明神」と銘がある元禄期の石灯籠があり江戸期の尊崇の厚さを感じさせる。
二の鳥居をくぐると拝殿前の広場となり右手に絵馬殿がある。
拝殿は大きく立派でカチッとした雰囲気を持ち扁額には「佐用姫大明神宮」の扁額が掛かっている。
やはりここでの主役は佐用姫(狭依毘賣命(市杵島姫命))であることは間違いない。
立派な拝殿の後方にはこれまた立派な幣殿、その奥に垣に囲まれた本殿がある。
本殿は記録によると享保5年(1720年)の建築のようだが状態は非常に良くて立派。
地域に大切にされている様子が伝わってくる。

佐用郡の基礎を作り名前の元となった女神を祀る神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2021/11/26
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM、RX100M3