270-110_(論)志布比神社(網野町浜詰)

比定社:(論)志布比神社(網野町浜詰)

式内社コード:270-110
神名帳社名:志布比神社、シフヒノ
社格:小
所在地:629-3245 京都府京丹後市網野町浜詰
plus code:MXC7+MV 京丹後市、京都府
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

しぶひじんじゃと読む。
浜詰集落の北の外れ海岸沿いの小高い丘に鎮座。
浜詰集落には縄文時代後期の浜詰遺跡がある。
京都府道665号浜詰網野線より半島への分岐点に社標があり浜詰漁港方面へ進むと右手に鳥居が見えてくる。
神社を通り過ぎて浜詰漁港の入口に公衆トイレと駐車場がある。
クルマで鳥居をくぐり社域内にも駐車可能。

ハイライト

天日槍命に思いを馳せる。

写真

志布比神社を正面より望む。海沿いの波打ち際に入口がある。鳥居をくぐり坂を登ると駐車場あり。この道をそのまま行くと浜詰漁港、漁港の手前も駐車場と公衆トイレあり。
志布比神社を正面より望む。海沿いの波打ち際に入口がある。鳥居をくぐり坂を登ると駐車場あり。この道をそのまま行くと浜詰漁港、漁港の手前も駐車場と公衆トイレあり。
すぐそこは海になっている。
すぐそこは海になっている。
一の鳥居をくぐり参道を登ると広場があり駐車可能。神社はもう1段高い場所にある。
一の鳥居をくぐり参道を登ると広場があり駐車可能。神社はもう1段高い場所にある。
二の鳥居は両部鳥居となっている。
二の鳥居は両部鳥居となっている。
二の鳥居の扁額には式内とある。
二の鳥居の扁額には式内とある。
二の鳥居をくぐると拝殿が見えてくる。
拝殿の左側には社務所、右側には稲荷神社がある。
拝殿の左側には社務所、右側には稲荷神社がある。
二の鳥居の脇には手水舎。
二の鳥居の脇には手水舎。
拝殿内部を望む。拝殿へは引き戸を開けて入る。土間になっていてそのまま参拝ができる。正月明けに訪ねたので正月行事の片付け中のようだ。
拝殿内部を望む。拝殿へは引き戸を開けて入る。土間になっていてそのまま参拝ができる。正月明けに訪ねたので正月行事の片付け中のようだ。
拝殿に掲げられた例祭の手順書。
拝殿に掲げられた例祭の手順書。
拝殿に掲げられた昔の写真。大正時代か昭和の初め頃だろうか。こういう昔の写真ってかつての雰囲気がよく伝わってきてイメージしやすい。
拝殿に掲げられた昔の写真。大正時代か昭和の初め頃だろうか。こういう昔の写真ってかつての雰囲気がよく伝わってきてイメージしやすい。
拝殿前からさらに階段を上がると愛宕神社がある。
拝殿前からさらに階段を上がると愛宕神社がある。
拝殿より二の鳥居を望む。海の見える丘の上にあることがよく分かる。
拝殿より二の鳥居を望む。海の見える丘の上にあることがよく分かる。
二の鳥居より参道を望む。
二の鳥居より参道を望む。
参道と一の鳥居を望む。ここに天日槍命がやってきたのか、と感慨深い(個人的な感想です)。
参道と一の鳥居を望む。ここに天日槍命がやってきたのか、と感慨深い(個人的な感想です)。

感想

由緒書は無いので詳細は不明。

延喜式神名帳の志布比神社の論社のひとつ。
創建は不詳、ご祭神は櫛八玉比女命・塩椎神。
第11代垂仁天皇の時代、天日槍命が来朝した時、その船は塩土翁に導かれ当地に上陸したらしい。
当初、塩土翁は但馬国出石郡に祀られたが、社地が人家でけがれたので来朝の折着船した当地志布比浜に移し祀ったという。
明治39年(1906年)御来屋(みくりや)神社と合祭し志布比神社に改称とある。

古代の但馬地域と関係の深い新羅の王子である天日槍命が最初に到着したのが当地というのが大変興味深い。
日本海側の地域は古代の大陸との玄関口とよく言われるが、まさにそれを表しているような出来事だと思う。
大陸からやってくるのは人物だけではなく、あらゆる技術、文化等々計り知れないものがあったのだろう。

神社のすぐ横が波打ち際となっていて波が荒い時には波しぶきが飛んできそうな場所にある。
参道を小高い丘に登っていくと丘の頂上あたりが平らになっており社殿がある。
社殿は拝殿と本殿のみの構成でシンプル。
拝殿は内部に土間があるタイプ、引き戸を開けて中に入る。
お神酒や供え物が多く地域の尊崇が厚いことがよく分かる。

注意点

道が狭いので神社前には駐車しないように(神社内か少し先の漁港前の駐車スペース)。

訪問ノート

訪問日:2019/1/20
交通手段:クルマで訪問
カメラ:RX100M3

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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