比定社:小田井縣神社
式内社コード:276-170
神名帳社名 :県神社(縣神社)、アカタノ
社 格:小
所 在 地 :668-0022 兵庫県豊岡市小田井町15-6
Plus Code :HR2F+5F 豊岡市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
「おだいあがたじんじゃ」と読む、地名の小田井町は「おだいちょう」と読む。
豊岡市街地の東端の小田井町の平坦地に鎮座。
円山川にかかる堀川橋の西のたもとあたり。
兵庫県道3号豊岡瀬戸線(円山川リバーサイドライン)の堀川橋西詰から西へ入りすぐの小田井交差点を北へ曲がると正面にある。
駐車場は無いので注意。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境1】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
鳥居の前の道路が一直線なところ。
写真
感想
由緒書はないので詳細不明。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、国作大己貴命。
また次の説もあるようだ。
宇麻志摩遅命『神名帳考証』。
崇神天皇11年(前87年、諸説あり)3月14日一社を創立(修正)。
神功皇后摂政3年(203年、諸説あり)大海童神を下座に配祀。
白鳳3年(674年)6月大旱に物部韓国連久々比祈雨。
承和9年(842年)10月官社。
仁寿元年(851年)7月27日正六位。
貞観10年(868年)12月27日従五位上。
元弘3年(1333年)夏正一位。
天正3年(1575年)10月野田合戦の際焼失。
天正年中(1573~1592年)秀吉当社に陣営をおき神領を没収(修正)。
貞享年中(1684~1688年)社殿再興(修正)。
元文年中(1736~1741年)造営(修正)。
明治6年(1873年)10月県社。
昭和6年(1931年)円山川治水工事のため現位置に移転。
江戸時代までは「小田井大明神」と呼ばれていた。
丹波道主命勅を奉じて崇神天皇11年(前87年、修正諸説あり)3月14日一社を創立して大己貴命及び天火明命を祭祀せらる。神功皇后摂政3年(203年、諸説あり)新羅征伐の際、小田井県主勅を奉じて大海童神を當社の下座に配祀という。
中世社領13町3反あまり、神供田25町1反あまりと見え、社家4家、供僧4ケ寺(金剛、妙樂、正法、三坂)と共に祭事を執行(神仏習合)、祠域宏壮、祠宇雄麗にして社運隆盛を極めたと伝承されている。
昭和3年円山川治水工事のため老木欝蒼とした境内地をあとに小田井町東南部に移転。
とある。
兵庫県神社庁によると
主祭神:国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト)
祭記事:
小田縣神社の末社に「柳ノ宮神社」があり、毎年8月1日~2日に「豊岡柳祭り」が行われる。豊岡市市街地域の最大のお祭りである。
豊岡市の現在の地場産業は「鞄」であるが、昔は「柳行李」であった。昭和11年(1936)、柳行李産業の発展・恩恵に感謝し、当時、柳行李の材料「こり柳」産地に在った「藤森神社」の社殿を新築、「柳ノ宮神社」と改称した。これを機に「豊岡柳祭り」が創始された。
「豊岡柳祭り」は8月1日、午後4時から柳ノ宮神社で神事の後、神輿は幼稚園児たちに引かれ豊岡駅まで巡行する。午後7時、神輿は約百名の担手により、大通りを練り歩き、本社に還幸する。2日、大花火大会あり。
由緒:
小田井縣神社は、延喜式神名帳に記されている。いわゆる式内神社であって、ご祭神は国作大己貴命であります。大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であって、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。第10代崇神天皇の御代(前86)の11年甲午春の3月10日、四道将軍谿羽道主命が大神の偉徳を聞き、深くその功績をたたえられ、天皇に奏上し、勅許を得てご神霊を鎮祭したと伝えられ、この地方開拓の祖神であります。その後、代々の縣主が、この地方の開発と拓殖につとめ、祭祀を営んだと伝えられ、四方の崇敬篤く国中屈指の古社であります。
昭和6年(1931)円山川治水工事のため現位置に移転し、約40年後の昭和44年(1969)堀川橋改築、堤防増強工事のため、境内の模様替え、えびす神社、川下神社、社務所の改築を行ないました。
昭和25年(1950)河内神事、矛立神事の式年大祭を行ないました。
とある。
小田井縣神社のある当地は、円山川のすぐ横の西岸あたり。
近くには豊岡の行政機関が集まっており豊岡の中心地、その東端の円山川に一番近いところ。
横には円山川の堤防があり、堤防の上を兵庫県道3号豊岡瀬戸線(円山川リバーサイドライン)が走っている。
当地の標高は4メートルほどだから、かつては円山川とすごく近かったのではないだろうか。
小田井縣神社のご祭神は、國作大己貴命(大己貴命のこと)。
この神さまは、かつて豊岡周辺に水が入っていたのを開拓した方とある。
崇神天皇11年(前87年)に、丹波道主命が、國作大己貴命を、祀ったのが始まりのようだ。
この豊岡開拓のお話は、この但馬地域では様々な神さまが行ったというお話が伝わっている(斎明神・天日槍命等)。
その後が少しややこしい。
神功皇后摂政3年(203年)新羅征伐の際、小田井県主が大海童神を当社の下座に配祀した。
大海童神というのは綿津見神(わたつみのかみ)のこと、配祀したとあるがご祭神としては出て来ない。
中世には盛んだったようで、社領・神供田・社家・神護寺を持っていたと記録が残る。
さらに『山名宗全巻数請取状』という、小田井神社が山名氏に祈祷をおこなったことに対し山名宗全が謝意を伝えた文書が残っている(豊岡市竹野町・円通寺蔵)。
時の権力者の山名宗全からご祈祷を依頼されるほどの力のある神社だったことが想像できる。
天正年間には兵火や秀吉により社領が没収され凋落した、その後の貞享年間になってやっと再興したようだ。
江戸時代(年代不明)の小田井神社周辺の地図が残っており、これを見ると街道が集まり水運が盛んで、この地域の中心地だったことが分かる(豊岡市立歴史博物館 但馬国府・国分寺館 ニュース第41号 「小田井神社」周辺図)。
個人的に気になるのは、いつ・どういう経緯で小田井神社から小田井縣神社に変わったのかが不明なこと、記録には出て来ない。
小田井縣神社へのアプローチは分かりやすい。
円山川にかかる堀川橋の西のたもとの堤防下あたりにある。
兵庫県道3号豊岡瀬戸線(円山川リバーサイドライン)の堀川橋西詰から西へ入り、すぐの小田井交差点を北へ曲がると正面にある。
駐車場は無いので鳥居前に駐車させていただいた。
小田井縣神社の鳥居はなんとも窮屈な印象がある、堤防によって社域が削られ本来の配置ではないのだろう。
南を向いた鳥居をくぐると白砂の参道が続き左手に社務所と山門が見えてくる、周辺にはベンチや公園がある。
山門と社殿は東を向いている。
山門をくぐるときれいに保たれた社域が広がる。
真っ直ぐ正面に優美な屋根を持つ拝殿と本殿がある。
参道横には、川下社・柳の宮・恵比須社・稲荷社が並んでいる。
柳の宮はかばんの神さまとして「柳まつり」が開催されて大いに賑わうようだ。
拝殿は間口は狭いが重厚な造りで本殿と回廊で接続されている。
本殿は組物が多く質実剛健な印象、元文年間(1736~1741年)の建築とあるが状態は非常に良い。
社域は非常にきれいに保たれており気持ちよく参拝できる。
城崎郡の経済・交通の中心となった神社。
注意点
駐車場は無いので注意。
訪問ノート
訪問日 :2021/9/25
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。