比定社:諸杉神社
式内社コード:274-040
神名帳社名:諸杉神社、モロスキノ
社格:小
所在地:668-0214 兵庫県豊岡市出石町内町28
plus code:FV6G+62 豊岡市、兵庫県
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アプローチ&ロケーション
もろすぎじんじゃと読む。
出石城跡のすぐ東側の山裾に鎮座。
大変わかりにくい場所にある。
前を谷山川が流れ神社入り口は出石城跡の東側にあり専用の橋がかかっている。
出石城跡側からは裏口にあたる。
駐車場は観光用の有料駐車場を利用。
ハイライト
本殿の中井権次橘正胤による彫り物。
写真
感想
神社謹製の由緒書によると
諸杉神社由緒
□鎮座地 兵庫県豊岡市出石町内町
□御祭神 多遅摩母呂須玖神(たじまもろすくのかみ、但馬諸助神)
多遅摩母呂須玖神は、新羅国王子天日槍命の嫡子で、母は多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の女前津見(むすめのまえつみ)である。古事記・日本書紀に記される清彦(きよひこ)、田道間守(たじまもり)の祖で、神功皇后(じんぐうこうごう)の母、葛城高額比売命(かつらぎのたなぬかひめ)の祖である。
創立年月は不詳であるが、延喜式内の古社で、始め出石川側の出石町水上(むながい)に鎮座していたが、当国の守護山名氏が居城を出石町宮内の此隅山より出石有子山に移すに及び、当社を城下の現在地に移転されたという。累代の出石城主の尊崇厚く、江戸時代小出大和守は長刀を奉献し、松平忠徳は社殿を改造し、宝駕を具え華表を建て、治下瑞泉寺主釋大梅に諸杉大明神記を撰ばしめた。寛保二年仙石政辰は社殿を改築し、神供料五石八斗を寄進し、宝暦二年神霊を勧請し且つ同僚諸侯及び有名な宗匠に俳句を求め、扁額として拝殿に奉納された。仙石氏が出石城主のとき、在城の年は年首必ず自ら参拝し、参勤交代の時は帰城の年早々必ず自ら参拝された。明治六年十月郷社に列せられたが、明治九年三月二十六日夜、民家より失火し、社殿は悉く類焼した。これにより明治十五年新に工事を起し、明治十七年十月十四日に現在の本殿、拝殿が竣工した。大正十三年四月二十一日縣社に列せられる。
□本殿建物 正面三間、背面二間、側面二間、入母屋造、
正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風付、鋼板葺
□祭 礼 例祭(秋祭)[十月中旬]
□境内神社 川下神社 天神社 厳島神社 社日神社 新田神社
三柱神社 八幡神社 稲荷神社 大國神社 稲荷神社
※補足:有子山城(出石城)の築城は天正2年(1574年)
※補足:寛保二年は1742年
※補足:宝暦二年は1752年
※補足:明治六年は1873年
※補足:明治九年は1876年
※補足:明治十五年は1882年
※補足:明治十七年は1884年
※補足:大正十三年は1924年
とある
出石らしいご祭神、天日槍命の子の多遅摩母呂須玖神(但馬諸助神)を祀る。
諸杉神社はご祭神の「もろすく」から転訛したと言われている。
当初は、出石町水上(むながい)に鎮座、現在地よりも2kmほど北になる(出石神社のすぐ南)。
有子山城(出石城)の築城は天正2年(1574年)なので現在地への遷座もこのタイミングだろう。
時の権力者により遷座された例だ。
それまでの由緒は無いので、全く新しい神社になってしまったような感じだ。
実は何回も訪問したのだが見つけられずにいた神社のひとつ。
ここらあたりにあるのは分かっていたのだが、どうにも見つけられなかった。
そこでクルマを観光駐車場に停めて歩いて探索したのだった。
すると本当に出石城のすぐ横あたりにあるではないか。
入り口は出石城跡の登り口よりも、もっと東側が正式な入口になっている。
出石支所の前に出石城跡への橋があるのだが、これではなくもう1本東側だ。
ちょうど道がカーブしているあたり。
橋を渡るとすぐに石でできた一の鳥居がある、出石城跡とは違い人が少ない。
そのまま行くと右手に木製の両部鳥居、社殿は東を向いている。
拝殿はあまり拝殿らしくなく社務所のような感じ。
裏へ回り込むと2段高くなった位置に本殿がある。
明治17年(1884年)に建築されたもので、中井権次橘正胤の彫り物が施されている。
全体的に雪で色が褪せてしまっているが状態はまずまずだ。
祭事としては、諸杉神社・石部神社・伊福部神社の氏子による「出石だんじり祭り」が有名。
社域は全体的に落ち着いた感じで静か。
落ち着いて参拝できる。
注意点
少々見つけにくいので注意。
訪問ノート
訪問日:2021/4/24
交通手段:クルマで訪問
カメラ:α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。