273-240_(論)更杵神社

比定社:(論)更杵神社

式内社コード:273-240
神名帳社名:更杵村大兵主神社、サラキ-
社格:小
所在地:669-5232 兵庫県朝来市和田山町寺内154
plus code:9R7V+C9 朝来市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

さらきねじんじゃと読む。
寺内集落の中の山裾に鎮座。
糸井陣屋・朝来市和田山郷土歴史館のすぐ裏手(北)にある。
兵庫県道10号朝来出石線沿いに丸い社標が建っている。
朝来市和田山郷土歴史館の駐車場に駐車可能。
十六柱神社からは500メートルくらい北西にあたる。

ハイライト

様々な背景が絡んだ神社の歴史。

写真

更杵神社の入り口を望む。祠がひとつと鳥居だけなのでなかなか見つからなかった、やっと3度目の正直で見つけた。
更杵神社の入り口を望む。祠がひとつと鳥居だけなのでなかなか見つからなかった、やっと3度目の正直で見つけた。
右側(北)を望む。周辺は人家と糸井陣屋・朝来市和田山郷土歴史館、奥には何もない。
右側(北)を望む。周辺は人家と糸井陣屋・朝来市和田山郷土歴史館、奥には何もない。
左側(南)を望む。白壁のあたりの横に走る道路が兵庫県道10号朝来出石線で丸い社標がある。
左側(南)を望む。白壁のあたりの横に走る道路が兵庫県道10号朝来出石線で丸い社標がある。
鳥居を正面より望む。神社自体は南向き。確かに更杵神社と十六柱神社が比較されてしまうと辛いかも。
鳥居を正面より望む。神社自体は南向き。確かに更杵神社と十六柱神社が比較されてしまうと辛いかも。
木々は小さいが雰囲気は良い。
木々は小さいが雰囲気は良い。
覆屋に入った本殿を正面より望む。石灯籠は一つだ。
覆屋に入った本殿を正面より望む。石灯籠は一つだ。
覆屋に入った本殿より鳥居を望む。右に見える屋根が朝来市和田山郷土歴史館。
覆屋に入った本殿より鳥居を望む。右に見える屋根が朝来市和田山郷土歴史館。
朝来市和田山郷土歴史館。貴重な展示があるので時間があれば寄ってみるのが良いと思う。後ろにあるポンプ車が良い感じ。
朝来市和田山郷土歴史館。貴重な展示があるので時間があれば寄ってみるのが良いと思う。後ろにあるポンプ車が良い感じ。
朝来市和田山郷土歴史館。意外と知らないことが多いので勉強になる。
朝来市和田山郷土歴史館。意外と知らないことが多いので勉強になる。
糸井京極陣屋跡。現在は門が残るのみだが、土地自体が残っていることが驚異的。陣屋のあとは学校だったらしい。
糸井京極陣屋跡。現在は門が残るのみだが、土地自体が残っていることが驚異的。陣屋のあとは学校だったらしい。
糸井京極陣屋跡の門より朝来市和田山郷土歴史館を望む。
糸井京極陣屋跡の門より朝来市和田山郷土歴史館を望む。

感想

延喜式神名帳の但馬国・養父郡の「更杵村大兵主神社」の論社2社のうちのひとつ。

由緒書はないので詳細不明。
以下のデータがある。
ご祭神は、素盞嗚尊。
持統天皇4年(690年)養父兵団の置かれていた更杵に兵主神を祀った。
明治6年(1873年)村社。
江戸時代は「更杵明神」と呼ばれていた。
とある。

元の鎮座場所に関わるお話として次の内容が残る。
近世に至って更杵の集落が衰え当社は取り残され荒廃したまま放置されていた(更杵は現在の室尾集落の地)。
元は更杵のフコサ(布告座?)にあり、後に遷座されたものという。
幕末、当社の再建と移宮をめぐつて、寺内と林垣の封立がみられたが、結局、今の地に移建された。

また「更杵村大兵主神社」の論社に関わるお話として次の内容が残る。
明治の神社改めの際、和田山町寺内の更杵神社は社殿や境内の貧弱さから式外社とされ、代つて林垣の十六柱神社が式内更杵村大兵主神社として報告され、以後諸書はこれに倣うようになった。
とある。

ここで出てくる「更杵は現在の室尾集落」というくだりだが、室尾集落にはこれまたいわく付きで式内社の「桐原神社」が現在鎮座する。
かつて、法宝寺(室尾廃寺)と一心同体の「桐原神社」は、街道筋ということもあり、中世まで興隆を誇っていた。
ただし、この当時の「桐原神社」は法宝寺(室尾廃寺)と共に男山にあったが、その麓である室尾集落も賑わっていたことだろう。
その後、江戸期に新たに街道が開発され中世までの交通の要衝という機能は衰え、それに伴い衰退していったようだ。
また、明治6年(1873年)の「桐原神社」の遷座の際に室尾集落が維持できないため岡田に譲った。
というお話と合致する。

ここまでのお話をまとめると次のようになるのだろうか。
・持統天皇4年(690年)養父兵団の置かれていた更杵に兵主神を祀った
・中世までは更杵(現在の室尾集落)は興隆を誇っていた
・江戸期に入り更杵(現在の室尾集落)は衰え更杵神社は荒廃した
・幕末、更杵神社の再建と移宮を巡って寺内と林垣の対立があったが今の地に移建された
・明治の神社改めの際、寺内の更杵神社は社殿や境内の貧弱さから式外社とされ、代わって林垣の十六柱神社が式内更杵村大兵主神社とされた

更杵神社は、本来室尾集落だが寺内集落が代わりに再建し遷座したのだろうか。
ここまでの経緯を見ると、更杵神社が「更杵村大兵主神社」で決まりではないのか(個人的見解です)。
でも現実は文献の精査も必要だし決着していないようだ。
謎は深い…。

で、更杵神社だが。
個人的には、なかなか発見できなかった神社で、3度めの正直でやっと見つけた。
糸井陣屋・朝来市和田山郷土歴史館のすぐ裏にある。
兵庫県道10号朝来出石線沿いに式内・更杵神社とある丸い社標、少し入って小さな祠と鳥居のみなので見逃していた。

ところで、寺内集落というのは力のある地域だったに違いない。
式内社「佐伎都比古阿流知命神社」、京極氏の「糸井陣屋」、そして「更杵神社」だ。
延喜式神名帳は延長5年(927年)、京極氏の「糸井陣屋」は寛文8年(1668年)に開かれたので随分と時代が違うが興味深いところだ。
やはり、和田山と出石との間を結ぶ街道筋だったことが大きいのだと思う。

前を流れる糸井川の流域は、東床尾山を中心に多数の鉱山が存在し、江戸時代の慶長(1596~1615年)~寛永(1624~1645年)年間に大いに栄えた。
それらの開発は戦国時代と伝えられているが、古くから様々な鉱物が採取されていたのだろう(個人的見解です)。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日:2020/6/20
交通手段:クルマで訪問
カメラ:α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM