317-020_兵主神社(西脇市黒田庄町)

比定社:兵主神社(西脇市黒田庄町)

式内社コード:317-020
神名帳社名 :兵主神社
社    格:小
所 在 地 :679-0313 兵庫県西脇市黒田庄町岡372-2
Plus Code  :2XGV+2J 西脇市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「ひょうすじんじゃ」と読む、地名の黒田庄町岡は「くろだしょうちょうおか」と読む。
国道175号線の畑瀬橋を東へ入り加古川を渡る。
県道559号線門柳大門線を600メートルほど東へ突き当りを北へ350メートルほど走り大門交差点を東へ入ると門柳川を渡りJRの踏切を超えてすぐに大鳥居。
大鳥居をくぐって左手に大きな駐車場がある。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通1】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

茅葺のなんだかホッとする拝殿。

写真

県道559号線門柳大門線の大門交差点を東へ入り門柳川を渡るとJRの踏切。踏切の向こうに大きく立派な一の鳥居がある。
県道559号線門柳大門線の大門交差点を東へ入り門柳川を渡るとJRの踏切。踏切の向こうに大きく立派な一の鳥居がある。
一の鳥居をくぐると左手に見えてくる。ありがたいことに手前に大きな駐車場が完備されている。
一の鳥居をくぐると左手に見えてくる。ありがたいことに手前に大きな駐車場が完備されている。
県道559号線門柳大門線に面して南向けの社域が広がる。二の鳥居の向こうに山門、山門の向こうに茅葺の拝殿。
県道559号線門柳大門線に面して南向けの社域が広がる。二の鳥居の向こうに山門、山門の向こうに茅葺の拝殿。
右側(東)を望む。この方向は行き止まりになる。
右側(東)を望む。この方向は行き止まりになる。
正面(南)を望む。こちらに参道は無いようだ。鐘楼があるのが印象的、右手が一の鳥居方向。
正面(南)を望む。こちらに参道は無いようだ。鐘楼があるのが印象的、右手が一の鳥居方向。
二の鳥居の左手に社標、式内兵主神社とある。
二の鳥居の左手に社標、式内兵主神社とある。
山門の左手にある神社謹製の神社謹製の社記。播磨掾を拝した岡本修理太夫が当地に赴任し延暦三年に兵主神社を勧請したとある。やはり兵器庫としての成り立ちなのだろうと思う。
手水舎。
手水舎。
山門より茅葺の拝殿を望む。
山門より茅葺の拝殿を望む。
山門をくぐると拝殿前の広場。茅葺の拝殿は壁はないが大きな建物、素晴らしい雰囲気だ。
山門をくぐると拝殿前の広場。茅葺の拝殿は壁はないが大きな建物、素晴らしい雰囲気だ。
山門をくぐった場所より右側を望む。
山門をくぐった場所より右側を望む。
山門をくぐった場所より左側を望む。
山門をくぐった場所より左側を望む。
拝殿を右側より望む。
拝殿を右側より望む。
拝殿内部を望む。なかなかに野趣溢れる作りとなっていて壁は一部しか無い。記録によると棟札が残っており天正19年(1591年)8月27日に作られたようだ。
拝殿内部を望む。なかなかに野趣溢れる作りとなっていて壁は一部しか無い。記録によると棟札が残っており天正19年(1591年)8月27日に作られたようだ。
拝殿の後方には幣殿があり、その後方に本殿がある。
拝殿の後方には幣殿があり、その後方に本殿がある。
拝殿後方の幣殿と本殿を望む。
拝殿後方の幣殿と本殿を望む。
拝殿と幣殿は回廊で繋がっている。
拝殿と幣殿は回廊で繋がっている。
本殿を右側より望む。記録によると本殿は正徳4年(1714年)に建てられたようだ。拝殿・本殿共に非常に状態が良いのにビックリする。
本殿を右側より望む。記録によると本殿は正徳4年(1714年)に建てられたようだ。拝殿・本殿共に非常に状態が良いのにビックリする。
本殿左側奥より拝殿を望む。
本殿左側奥より拝殿を望む。
本殿を左側より望む。本殿の屋根には五三の桐のご神紋が付いている、これは豊臣秀吉と関係があるのだろうか。
本殿を左側より望む。本殿の屋根には五三の桐のご神紋が付いている、これは豊臣秀吉と関係があるのだろうか。
拝殿後方より山門を望む。素朴な作りでなんだかホッコリする。
拝殿後方より山門を望む。素朴な作りでなんだかホッコリする。
拝殿を左側より望む。社域は非常にきれいに保たれているのがよく分かる。
兵庫県教育委員会謹製の説明書き。拝殿は長床式(ながゆかしき)とある。
兵庫県教育委員会謹製の説明書き。拝殿は長床式(ながゆかしき)とある。
北播磨黒田官兵衛生誕の地の会・西脇市観光協会謹製の説明書き。秀吉は黒田官兵衛に代参させたとある。
北播磨黒田官兵衛生誕の地の会・西脇市観光協会謹製の説明書き。秀吉は黒田官兵衛に代参させたとある。
拝殿前の広場より山門を望む。
拝殿前の広場より山門を望む。

感想


神社謹製の社記によると

 社記
社名
 兵主神社
祭神
 大己貴命
 八千戈命
 葦原醜男
 大物主命
 清之湯山主三名狹漏彦八島篠命
創建
 宝亀五年(七七四)一月播磨掾を拝した岡本
 修理太夫は大和國岡本邑より当地に赴任し延
 暦元年(七八二)正月当社附近の森地四町余
 を開き神社の造営に着手し同三年甲子六月十
 四日兵主神社を勧請す
氏子
 多可郡黒田庄の内大字岡、喜多、大門、津万井、福
 地、大伏及西脇市浦江の七大字を氏子地区とす
其他
 延喜式神名帳により延喜五年(九〇五)式内
 社に指定。明治六年(一八七三)十一月郷社。
 大正八年十二月縣社指定され昭和二十年終戦
 と共に社格配祀 昭和五十八年(一九八三)
 三月勧請千二百年祭執行

とある。


兵庫県教育委員会謹製の説明書きによると

県指定文化財  兵主神社拝殿
指定年月日   昭和52年3月29日
所有者・管理者 兵主神社

 創立は、社伝によると、延暦3年(784)6
月14日、ときの播磨掾(はりまのじょう)岡本修理太夫藤原知恒の
創始になるという。建物は長床式(ながゆかしき)の平面で、
市外桁(しがいけた)で軒を支えている。建物の囲りは一部
(西北隅室)を除き開放吹放ちで、内部は正
面中央部三間を広間床(ひろまとこ)とし、両脇間境を円柱
々列とした得意な意匠になっている。
 天正19年(1591)8月27日造立の棟札があり、
桃山時代における長床式拝殿として、また、
その時代の茅葺入母屋(かやぶきいりもや)造りの様式を伝える建
築として、全国的にも稀に見る遺構である。
主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)である。

 平成3年11月
  兵庫県教育委員会

とある。


北播磨黒田官兵衛生誕の地の会・西脇市観光協会謹製の説明書きによると

兵主神社拝殿と黒田官兵衛
 北播磨黒田官兵衛生誕の地の会
 西脇市観光協会

 兵主神社拝殿(兵庫県有形文化財)は黒田官兵衛寄進の
お金で建造されたと伝わります。
 織田信長の命を受けた羽柴秀吉は中国征伐に向けてこの地に来
て播磨一の勢力を誇る三木城主の別所長治を攻めますが、容易
に落とすことができず、その攻防は二年近くに及びます。
 当地の土豪で福地蟲生城の村上政治は尼子勢の襲撃に破れ戦
死しますが、その遺児村上広直と村上直行は再起を図ろうと秀
吉軍に参戦、当地を兵站地として協力をしました。
 兵主神社の祭神は大己貴命ですが兵主は中国『史記』に出てく
る軍神、武神でもあることから秀吉は黒田官兵衛に代参させ奉納
金と共に灯明田七反を添えて戦勝祈願を行ったと伝わります。
 奉納金は拝殿の建築に当てられ、
地元材を調達、山出し、乾燥刻み
を行い天正十九年(一五九一)八
月に柱立、安土桃山時代の建築様
式を残す貴重な建築と評価されます。
 当時、官兵衛は四十六歳、すでに
隠居をしており、如水と名乗っており
ましたが、秀吉は官兵衛の隠居を許さず、朝鮮出兵の拠点城と
なる肥後名護屋城(現唐津市)の縄張りの指揮を取ります。

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、大己貴命・八千戈命・葦原醜男・大物主命・清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命。

延暦3年(784年)6月14日創立。
天正8年(1580年)豊臣秀吉燈明田を献上。
天正19年(1591年)8月27日造立(追加)。
正徳4年(1714年)本殿再建。
明治7年(1874年)2月郷社。
大正3年(1914年)4月6日神餞幣帛料供進神社指定。
大正8年(1919年)12月27日県社。

江戸時代までは「兵主五社大明神」と呼ばれていた。

社伝によれば、大和から播磨の国衙に赴任した岡本修理大夫が延暦元年(782年)に森林を拓いて社をつくり、 延暦3年、大和穴師の兵主神を勧請したものと言う。
別当寺の明鏡山神通寺は明治初年に、廃寺となつたが、現在の社務所の位置に社坊があつたという。

とある。


兵庫県神社庁によると

主祭神:大己貴神(オオナムチノカミ)
配祀神:八千矛神(ヤチホコノカミ)・葦原醜男(アシハラシコオ)・大物主神(オオモノヌシノカミ)・清之湯山主三名狭漏彦八島篠神(スガノユヤマヌシミナサモルヒコヤシマシノノカミ)

由 緒:
「従五位下大和掾恒岡は、大和国の南都の岡本に住す。臣知恒は恒岡の次男にして、ここに宝亀五年(774)正月十日始めて播磨掾を拝す。同年三月播磨国多可郡大志野の岡城に赴く。延暦元年(782)正月、城の南に森四町余を開く。同三年甲子六月十四日兵主五社大明神を勧請せり延暦三年十月岡本修理大夫藤原知恒誌す」
 岡本修理太夫の子孫とみられる末流は本町、氷上郡氷上町、氷上郡山南町及柏原町に住居せられているようである。
 岡本修理太夫藤原知恒
 弘仁8年(817)酉7月17日卒ス
 茅葺き拝殿(安土桃山時代建立)豊臣秀吉が三木城(別所長治)攻略後、黒田官兵衛に命じ寄進されたと伝えられる。

とある。


兵主神社(西脇市黒田庄町)のある当地は、加古川の東岸、加古川から東へ伸びる支流の門柳川沿いの谷筋が加古川に合流する地点の平地にある。
南に西脇市街、西に多可町、北に山南町に繋がり、加古川の水運にも恵まれた交通の要衝ということができるだろう。
早くから開けた土地のようで周囲には以下の遺跡等がある。
岡・福谷池1~7号墳・岡・ドンド2~6号墳・楠丘遺跡・極楽寺遺跡・岡・前田遺跡・岡・福谷遺跡・三角点山愛宕遺跡・三角点山山頂遺跡・岡・古門遺跡(兵庫県考古博物館資料による)。

兵主神社(西脇市黒田庄町)のご祭神は、大己貴神、配祀として八千矛神・葦原醜男・大物主神・清之湯山主三名狭漏彦八島篠神。

気になるのは他の兵主神社(ひょうずじんじゃ)と成り立ちが異なるような印象を受けること。
一般的な兵主神社(ひょうずじんじゃ)の成り立ちは以下を参考にされたい。

兵主神社というのは、兵庫を置いて兵主神(大巳貴命や素戔嗚命)を祀ったという神社。
兵庫とは、「ひょうご」「へいこ」「つわものぐら」と読むようだ。
文字通り、兵器を格納しておく倉や倉庫、つまり兵器庫のこと。

兵器庫が必要だということは、そのあたりが紛争中あるいは紛争が起きるかもしれない地域なのだろう。
有事の際に素早く対応しようと思えば、現場に近い場所に兵士と兵器を用意すると思う。
そこで、延喜式神名帳に出てくる「兵主神社」を抜き出してみると次のような結果になった。
大和国・城上郡・018-030・穴師坐兵主神社 ・名神大月次新嘗_相嘗
大和国・城上郡・018-230・穴師大兵主神社 ・小
和泉国・和泉郡・037-050・兵主神社    ・小
三河国・賀茂郡・076-030・兵主神社    ・小
近江国・野洲郡・152-040・兵主神社    ・名神大
近江国・伊香郡・159-170・兵主神社    ・小
丹波国・氷上郡・264-110・兵主神社    ・小
但馬国・朝来郡・272-040・兵主神社    ・小
但馬国・養父郡・273-090・兵主神社    ・小
但馬国・養父郡・273-230・更杵村大兵主神社・小
但馬国・出石郡・274-130・大生部兵主神社 ・小
但馬国・気多郡・275-070・久刀寸兵主神社 ・小
但馬国・城崎郡・276-110・兵主神社    ・小
但馬国・城崎郡・276-130・兵主神社二座  ・小
因幡国・巨濃郡・280-050・佐弥乃兵主神社 ・小
因幡国・巨濃郡・280-070・許野乃兵主神社 ・小
播磨国・飾磨郡・310-010・射楯兵主神社二座・小
播磨国・多可郡・317-020・兵主神社    ・小
壱岐島・壱伎郡・422-050・兵主神社    ・名神大

これを見ると但馬国は他の国に対して突出して多いことが分かる。
他の国は多くても2つ、但馬国は7つもある、さらに城崎郡には2社・3座もあり、養父郡と並んで城崎郡は当時のホットスポットだったのだろう。
但馬国が緊張状態にあったのだと推測できる(個人的見解です)。
ちなみに現在の兵庫県という名前はこの「兵庫(つわものぐら)」を由来としているそうだ。

式内社の兵主神社の分布をプロットしたもの。三河国・近江国の各1ヶ所づつは場所が特定できずプロット無し。壱岐島も除外した。紛争地域!?は兵庫県北部に集中している。
式内社の兵主神社の分布をプロットしたもの。三河国・近江国の各1ヶ所づつは場所が特定できずプロット無し。壱岐島も除外した。紛争地域!?は兵庫県北部に集中している。
同じく式内社の兵主神社の分布をプロットしたものの但馬国のアップ。ほぼ円山川沿いの朝来から豊岡あたりに集中している。大和朝廷へ最後まで従わない氏族や地域があったのだろうか。
個人的に、兵主神社というのはなかなか実像が非常に掴みにくい神社ではある。

兵主神社(西脇市黒田庄町)の創立は、延暦3年(784年)6月14日、ときの播磨掾(はりまのじょう)岡本修理太夫藤原知恒が創始したとある。
当時紛争が続いていたと思われる但馬国への足がかりとして作られたのかもしれない(個人的見解です)。

兵主神社(西脇市黒田庄町)へのアプローチは分かりやすい。
国道175号線の畑瀬橋を東へ入り加古川を渡る。
県道559号線門柳大門線を600メートルほど東へ行けば突き当りになる。
ここを北へ350メートルほど走り大門交差点を東へ入ると門柳川を渡りJRの踏切を超えてすぐに大鳥居がある。
大鳥居をくぐって左手に大きな駐車場があるのですぐに分かる。

大鳥居は兵主神社(西脇市黒田庄町)前を通る県道559号線門柳大門線に掛かっているので西向き。
神社自体は南を向いており県道559号線門柳大門線に面した二の鳥居があり山門がある。
二の鳥居をくぐり非常に立派な山門をくぐると拝殿前の広場に出る。
非常に珍しい茅葺の拝殿で壁が殆どない作りになっており素朴な印象を受ける。
他にはない素晴らしい雰囲気を持つ拝殿だと思う。
この拝殿は記録によると、天正19年(1591年)8月27日造立の棟札が残っているそうだ。
拝殿の後方には幣殿、その後方には本殿がある。
本殿は、正徳4年(1714年)本殿再建、の記録が残っている。
全体的に規模が大きく立派な建物となっており堂々としている。
本殿には五三の桐の神紋が付いているが豊臣秀吉との関係なのだろうか(個人的見解です)。
社域は非常にきれいに保たれ気持ちよく参拝できる。

秀吉により作られた素晴らしい拝殿がある神社。

注意点

特に無し。

訪問ノート

訪問日 :2018/10/7、2023/8/6
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100、α7S3 + FE16-35mm F2.8 GM、α7M3 + 35-150mm F2-2.8 Di III VXD