273-020_宇留波神社

比定社:宇留波神社

式内社コード:273-020
神名帳社名:宇留波神社、ウルハノ
社格:小
所在地:667-0124 兵庫県養父市口米地1
plus code:9RQC+XJ 養父市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「うるはじんじゃ」と読む、地名の口米地は「くちめいじ」と読む。
非常に見つけにくい神社(最高難度)。
米地川の西岸の口米地の集落の北の外れの山麓に鎮座。
兵庫県道255号上村養父線の鉄屋米地(かなやめいじ)バス停のある公民館の角に社標が立っている。
この角を北西に入り突き当りまで行くと右手に細い上り坂がある。
この道を入っていくのだが狭いので周辺に駐車し徒歩でのアプローチが必要。
徒歩で登っていくと石組みがあり、その奥に祠が2つある。
駐車場は無いので周辺に駐車するしか無いので注意。

ハイライト

鉄が採れそうな周辺と神社の関係。

写真

兵庫県道255号上村養父線の鉄屋米地(かなやめいじ)バス停のある公民館の角に社標がある。これが唯一の神社名の表示となる。
兵庫県道255号上村養父線の鉄屋米地(かなやめいじ)バス停のある公民館の角に社標がある。これが唯一の神社名の表示となる。
式内宇留波神社とある。
式内宇留波神社とある。
公民館の横の社標の道を行くと突き当りのような場所に出る。とても神社があるとは思えないような感じ。鳥居も全く無い。ここからは徒歩でアプローチ、クルマはこの突き当りに路上駐車するしか無い。
公民館の横の社標の道を行くと突き当りのような場所に出る。とても神社があるとは思えないような感じ。鳥居も全く無い。ここからは徒歩でアプローチ、クルマはこの突き当りに路上駐車するしか無い。
右手にはあぜ道と奥に行く道がある。川沿いの奥に行く道を徒歩でアプローチする。
右手にはあぜ道と奥に行く道がある。川沿いの奥に行く道を徒歩でアプローチする。
小さな川沿いの道をアプローチ。
小さな川沿いの道をアプローチ。
道路は左に曲がっている。正面に何かの碑がある。
道路は左に曲がっている。正面に何かの碑がある。
カーブしているところに階段がある。当初はこの階段を上がって山の中を彷徨ってしまった…。
カーブしているところに階段がある。当初はこの階段を上がって山の中を彷徨ってしまった…。
カーブを曲がって登っていくと石組みがある。
カーブを曲がって登っていくと石組みがある。
さらに進むとクルマ止めがある。ここを徒歩で越える。
さらに進むとクルマ止めがある。ここを徒歩で越える。
右に曲がりながら進むとなにやら祠のようなものが見えてくる。
右に曲がりながら進むとなにやら祠のようなものが見えてくる。
林の中を進むと祠が左右に1つづつあるのが見えてくる。
林の中を進むと祠が左右に1つづつあるのが見えてくる。
右に石灯籠と祠。左に石段と祠があるのが分かる。やっと見つけた。きれいに草が刈り込まれているのが分かる。
右に石灯籠と祠。左に石段と祠があるのが分かる。やっと見つけた。きれいに草が刈り込まれているのが分かる。
右と左に祠がひとつづつある。どちらかが宇留波神社で、もう片方が鹿島神社だと思われる。
右と左に祠がひとつづつある。どちらかが宇留波神社で、もう片方が鹿島神社だと思われる。
右側の祠を正面より望む。たぶんこちらが宇留波神社だと思われる。祠に表示が一切無いのでどちらか判断に迷う。この場所には明治30年に遷座とある。
右側の祠を正面より望む。たぶんこちらが宇留波神社だと思われる。祠に表示が一切無いのでどちらか判断に迷う。この場所には明治30年に遷座とある。
宇留波神社の覆屋に入った本殿を右側より望む。非常に小さな覆屋、キチンと榊が供えられている。
宇留波神社の覆屋に入った本殿を右側より望む。非常に小さな覆屋、キチンと榊が供えられている。
左はたぶん鹿島神社だろうと思われる。
左はたぶん鹿島神社だろうと思われる。
鹿島神社を正面より望む。右側には摂社末社がある。こちらもキチンと榊がお供えされている。
鹿島神社を正面より望む。右側には摂社末社がある。こちらもキチンと榊がお供えされている。
鹿島神社前より広場を望む。
鹿島神社前より広場を望む。
広場より登ってきた道を望む。
広場より登ってきた道を望む。

感想

由緒書は無いので詳細不明。
非常に情報が乏しく、現在の鎮座地も非常に見つけにくい神社。

以下の情報しかない。
ご祭神は、許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめ)。
創建年代等不詳。
明治6年(1873年)村社。
明治30年(1897年)現在地に遷座。

当初は東の中米地村に鎮座(詳細不明)、その後に口米地村字佐原に遷座(詳細不明)、さらに明治30年(1897年)に現在地に遷座のようだ。
旧社地(口米地村字佐原)の石碑は昭和47年に工場建設のために35メートルほど移動され現在地にある。
つまり現在の非常に見つけにくい場所には明治30年に遷座したということになる。

当地は養父から出石への街道筋にあたる。
前を流れる米地川の源流域には、掘場鉱山(ほっぱこうざん、朝日金山とも)があり戦国期に開発された。
だが、もっと古くから鉱物を採取していたのではないだろうか(個人的見解です)。

かろうじて、兵庫県道255号上村養父線の鉄屋米地(かなやめいじ)バス停のある公民館の角に社標が立っているのが唯一の神社名の表示となる。
公民館の角を北西に入り突き当りまで行くと右手に細い上り坂がある。
ここからは徒歩でのアプローとなり、このあたりの周辺道路にクルマを駐車する必要がある。
歩いてアプローチするとクルマ止めのチェーンが設置してあり先に進む。
その先が社域のようで正面に祠が2つ見える。
どちらがどちらなのか表示が全く無いため判断のしようがない。

周辺の木々はそれほど大きくなく明治時代に遷座というのは妥当な印象を受けた。
所々に石垣が組んであり元々は何か他の施設があったのかもしれない。
遷座の際にさらに整備されたのだろうと思う。

周辺は草が刈られているのでキチンと手入れがされていて頭の下がる思いだ。
だが神社の表示が全く無いため訪れる人も少ないのであろうと思われるのが少々残念だ。

管理人が現在までに最も発見するのに手間取った神社のひとつとなった。

注意点

非常に見つけにくいので迷わないように注意が必要。

訪問ノート

訪問日:2018/4/7
交通手段:クルマで訪問
カメラ:DMC-TZ60

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

式内社データベースのダウンロードはこちらから

式内社一覧表はこちらから

式内社地図データのダウンロードはこちらから