310-010_射楯兵主神社

比定社:射楯兵主神社

式内社コード:310-010
神名帳社名 :射楯兵主神社 二座、イタテ-
社    格:小
所 在 地 :670-0015 兵庫県姫路市総社本町190
Plus Code  :RMMW+JQ 姫路市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「いたてひょうずじんじゃ」と読む、地名の総社本町は「そうしゃほんまち」と読む。
姫路城前の交差点より東に400メートルほどの平地に鎮座。
場所は分かっているが行き着くのにコツが必要、クルマでは一方通行だったり、ポールが立っていて進入できなかったりなかなかに難しい。
南北の道からは入れないようなので東西の道より目指すのが良いだろう。
神社前に駐車場がある。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境1】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通1】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索1】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

伊和の一族との関係。
播磨の中心地に鎮座する立地。

重要有形民俗文化財

播磨総社「三ツ山」ひな型
文化庁解説:
 播磨総社の「三ツ山」ひな型は、60年ごとに執行される「一ツ山」行事、20年ごとに執行される「三ツ山」行事にあたって設けられる「置き山」のひな型である。
 「置き山」とは、自然の山を模した人工の山のことで、ここに降臨した神霊を祭場に招いてまつるのが古式の神の祀り方であった。この祭場は、原則として臨時のもので、その意味で神社以前の形式を残しているものともいえる。
 播磨総社の場合は社殿の建設の後にも、この古い形式が残されたもので、この資料は「置き山」の一種として非常に貴重である。実物は祭礼が終ると解体破却されるので、その「ひな型」を作って、いわば主体的な設計図とする慣わしであったという。この「ひな型」は、実物の「置き山」に代わるものとして重要である。

記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財

播磨総社一ツ山・三ツ山神事
文化庁解説:
 播磨総社一ツ山・三ツ山神事は、姫路市に鎮座する播磨総社にて行われる行事で、60年ごとに執行される「一ツ山」行事と、20年ごとに執行される「三ツ山」行事がある。
 この行事では「置き山」と呼ばれる、自然の山を模した人工の山が製作される。そして、ここに降臨した神霊を祭場に招いて祀るという、古式の神の祀り方を行う。その意味で、祭場は、原則として臨時のものであり、神社以前の形式を残しているものともいえる。
 播磨総社では、社殿の建設の後にも、この古い形式が現在まで伝承されてきたものであり、非常に貴重である。
(※解説は選択当時のものをもとにしています)

写真

写真が少ないので大変申し訳無いです。

射楯兵主神社を正面より望む。平成19年(2007年)に再建なった山門。
射楯兵主神社を正面より望む。平成19年(2007年)に再建なった山門。
右側(東)を望む。東西の道は比較的幅が細いが、入ってくるのは東西の道から入るのが良い。周囲は商業地区となっている。
右側(東)を望む。東西の道は比較的幅が細いが、入ってくるのは東西の道から入るのが良い。周囲は商業地区となっている。
正面(南)を望む。一の鳥居は250メートルほど先の国道2号線沿いにある。国道2号線からクルマでは入れない。
正面(南)を望む。一の鳥居は250メートルほど先の国道2号線沿いにある。国道2号線からクルマでは入れない。
左側(西)を望む。元々はこのブロック全体が射楯兵主神社の社域だったのだろうと思われる。チラッと見える鳥居は車祓所のもの。
左側(西)を望む。元々はこのブロック全体が射楯兵主神社の社域だったのだろうと思われる。チラッと見える鳥居は車祓所のもの。
山門をくぐると正面に拝殿。大規模なご祈祷が行われていた。奉納提灯の数に圧倒される、地域の尊崇厚いことが感じられる。
山門をくぐると正面に拝殿。大規模なご祈祷が行われていた。奉納提灯の数に圧倒される、地域の尊崇厚いことが感じられる。
山門をくぐって左手にある恵美酒社・住吉社。
山門をくぐって左手にある恵美酒社・住吉社。

感想


射楯兵主神社Webサイトによると

射楯兵主神社について
当社は、総社さん、総社の神様と呼ばれていますが、正式な神社名は射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)と云い、射楯大神(いたてのおおかみ)と兵主大神(ひょうずのおおかみ)を御祭神としてお祀りしています。境内には、総社の名の由来になっている播磨国内の大小明神をはじめ、摂末社の神々を合わせ祀っています。

由緒
欽明天皇25年(564)6月11日に影向があり、
飾磨郡伊和里水尾山に、大己貴命(兵主の神)を祀ると伝えられています。

また、播磨国風土記に「因達と称ふは 息長帯比売命(中略) 渡りましし時 御船前に御しし伊太代の神(射楯の神)此処に在す 故 神のみ名に因りて 里の名と為す」と記されているところから、8世紀以前には、射楯の神が飾磨郡因達里に祀られていたことがわかります。

二神をいつ合座したのかについては、明確な資料が存在しませんが、927年に編纂された延喜式神明帳に「射楯兵主神社二座」とあり、式内社として少なくとも9世紀後半には合座されていました。

その後、安徳天皇養和元年(1181)には、播磨国内の大小明神百七十四座の神々を合わせ祀って「播磨国総社」と称し、三日潮「播磨国総鎮守の神社」として広く知られるようになりました。

また、歴代の守護職・城主からも「家の氏宮」・「姫路城鎮護の社」として篤い崇敬を仰いで参りました。
天正9年(1581)、秀吉の姫路城大築城の際に、現在地に移転遷座してからは、池田輝政公からは表参道入り口の中堀に架かる石造りの太鼓橋(鳥居先橋)を、本田忠政公からは総社総神殿や玉垣の造営がなされ、榊原忠次公からは舞殿の再興や大鳥居(県重文)が寄進される等数々の宝物が奉献されました。

その貴重な歴史・文化財の多くは、昭和20年、先の大戦の戦禍によって烏有と帰してしまいました。
昭和23年、市民により復興奉賛会が結成され、昭和40年に昭和の大復興を達成し、また、平成の大造営を氏子・崇敬者と共に行い、多くのご奉賛を賜って、平成19年総社御門を復興しました。

年表
大和時代射楯大神が飾磨郡因達里(現姫路市新在家本町)に御鎮座。
欽明天皇25年(西暦564)兵主大神が飾磨郡伊和里の水尾山に御鎮座。
延暦6年(西暦787)坂上田村麻呂が兵主大神を国衙荘小野江の梛本に還座。
天慶2年(西暦939)藤原純友反逆の御祈のため奉幣。天神地祇祭(てんしんちぎさい)「一ツ山大祭」の起源とする。
寛平3年(西暦891)射楯神を併せ合わせ祀り、式内社の射楯兵主神社と号す。
養和元年(西暦1181)播磨国16郡の名高い174座の大小明神を合わせ祀り、総社と称す。
大栄元年(西暦1522)赤松晴政、はじめて臨時祭(三ツ山大祭)を斎行。
鎌倉時代府中惣社(ふちゅうそうしゃ)、国衙惣社(こくがそうしゃ)又は総社伊和大明神・軍八頭正一総社伊和大明神と称され、射楯兵主神社という名が表に出なくなる。
天正3年(1581)羽柴(豊臣)秀吉が姫路城築城のため現在地へ移す。
明治維新後改めて射楯兵主神社であることが公的に確定されました。
昭和20年、戦災により社殿をはじめ、宝物等は烏有に帰し、境内は一時荒廃の極に達する。
昭和28年昭和復興ともいうべき現在の社殿は元和9年の形式になぞられ再興されたものです。

御祭神
[射楯大神(いたてのおおかみ)]
五十猛命(いたけるのみこと)と称し、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子神であられ、檜や楠等の木々を植樹して、日本の国土を緑豊かな国にされた植樹の神様と崇められています。
また、神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅遠征の折に、御船の先導をしたという播磨国風土記の故事から、勝利や幸福へ導く道開きの神様としても崇敬されています。

[兵主大神]
大己貴命(おおなむちのみこと)と称し、大国主命・七福神の大黒様とも呼ばれ、后神や多くの御子神に恵まれたことから縁結びの神様と名高く、福の神として慕われています。
また、農業・工業・商業のあらゆる産業から、医薬、酒造までを生み出して、人々の暮らしを豊かにされた国造りの神様としても崇敬されています。

御神徳
当社は、二柱の御祭神を御本殿に奉斎し、古くから『二神一光』の御神徳を仰ぐ神社です。
特に、縁を結び幸福へと導く幸福増進のご利益を戴こうと、多くの方が神前結婚式を挙げられています。
また、三ツ山大祭の伝承から八難九厄祓い信仰が寄せられ、播磨国内はもとより、全国津々浦々から御神徳をお受けに参拝者が訪れます。

黒田官兵衛ゆかりの地
歴代の守護職・姫路城主の崇敬をうけてきた大社。
官兵衛の父・職隆が拝殿や神門を再建、官兵衛も制札を与えるなど、その保護に努めました。
また、黒田家系譜によると豊臣秀吉より軍陣において旗を立てる許しを得た官兵衛は、父・職隆と相談し、播磨国総社で7日間にわたり祈祷を行い父子共々、毎日参詣した。

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、射楯大神・兵主大神。

神功皇后征韓凱旋の時射楯の神を勧請し因達里に祀る。
欽明天皇25年(564年)6月11日兵主の神影向あり、伊和里水尾山に祀る。
天平宝字8年(764年)藤原貞国兵主大神を水尾山に崇祠。
延暦6年(787年)6月11日兵主大神を国衙の小野江に遷。
射楯大神を兵主神社に合祀する(年代不詳)。
天慶2年(939年)1月7日藤原純友追討の勅使藤原好時参拝。
正暦2年(991年)6月1日大江山の鬼賊退治の際の神威に対し正一位。
養和元年(1181年)11月15日、国内174座の神々を境内に合祀。
永正3(1506年)11月12日赤松政村推鐘を寄進。
天正9年(1581年)豊臣秀吉城郭修築の爲現地に遷。
明治4年(1871年)12月県社。
昭和20年(1945年)7月3日空襲により焼失。
昭和28年(1953年)社殿再建(追加)。
昭和40年(1965年)復興(追加)。
平成19年(2007年)山門再建(追加)。

鎮座地
神功皇后征韓凱旋の時射楯の神を勧請し因達里(姫路市新在家本町?(兵庫県立大学あたり)、諸説あり)に祀る(追記)。
欽明天皇25年6月11日兵主の神影向あり、伊和里水尾山(姫路市山野井町?(男山あたり)、諸説あり)に祀る(追記)。
天平宝字8年(764年)藤原貞国兵主大神を水尾山に崇祠。
延暦6年(787年)6月11日兵主大神を国衙の小野江(姫路市本町?(姫路城あたり)、諸説あり)に遷座(追記)。
射楯大神を兵主神社に合祀する(年代不詳)。
天正9年(1581年)豊臣秀吉城郭修築の爲現地に遷座。

江戸時代までは「惣社伊和大明神」と呼ばれていた。

平安朝より戦国時代を通して軍旅守護神として武門の崇敬厚く鎌倉期の最盛期には、社家三十六家、千余町の神領を有していた。
祭神は二座で東殿に射楯神(五十猛命)を祀り、西殿に兵主神(大己貴命)を祀る。
(西殿を一宮と称し、束殿二宮と称して毎朝ノ供御より始めて、諸事皆西殿より奉仕するを以つて社例とする)
飾磨郡伊和里(姫路市街地周辺)は伊和族(宍粟市一宮町須行名にある、播磨国一宮伊和神社の伊和大神を祀る氏族)の平野部においての拠点であったようで、兵主神は伊和大神であると言われている。

とある。


兵庫県神社庁によると。

主祭神:
射楯大神(五十猛尊)(イタテノオオカミ(イソタケルノミコト))・兵主大神(大国主命)(ヒョウズノオオカミ(オオクニヌシノミコト))

祭記事:
 平安中期に斎行された「天神地祇祭」に由来する60年に一度の「一ツ山大祭」、20年に一度の「三ツ山大祭」は各々八難九厄を祓い国家国民の幸福増進を祈る式年特殊大祭礼として斎行されている。

由緒:
 欽明天皇25年(564)に影向があり、飾磨郡伊和里水尾山に大己貴命(兵主神)を祀ると伝えられている。また、『播磨国風土記』に記されていることから、八世紀以前には射楯神が播磨郡因達里に祀られていた事がわかる。二神が同殿にいつ合座されたかについては明確ではないが、929年に編纂された『延喜式』神名帳には「射楯兵主神社二座」とあるので少なくとも800年代後半には合座されていたと考えられる。その後、安徳天皇養和元年(1181)には、播磨国内大小明神174座の神々に合わせ祀って「播磨国総社」の称号を戴いて「播磨国総鎮守の神社」として広く知られるようになった。

 また、歴代の守護職、城主からも数々の宝物が奉献され篤い尊崇を仰いできたが、未曾有の大戦の戦禍によりそのほとんどが烏有と帰することとなる。現在の本殿以下の建物は戦後まもなく氏子崇敬者により再建されたものである。

とある。


射楯兵主神社のある当地は、播磨平野(姫路平野とも)の中央部、市川の西岸で街道や水運に恵まれた地域。
射楯兵主神社の遷座を追ってみると下記のようになる。
・因達里(姫路市新在家本町?(兵庫県立大学あたり)、諸説あり、現在地より北西約2km)
・伊和里水尾山(姫路市山野井町?(男山あたり)、諸説あり、現在地より北西約1.3km)
 遺跡:男山東山焼窯跡
・小野江(姫路市本町?(姫路城あたり)、諸説あり、現在地より北西約800メートル)
 遺跡:本町遺跡
この後に姫路城を築くため秀吉により現在地に遷座しているが、いずれも現在地から2km以内の場所となっている。
古代山陽道もこのあたりを通っていたのではないかと推測でき、播磨の政治経済の中心地であり交通の要衝であったことは間違いない。

射楯兵主神社のご祭神は、射楯大神(いたてのおおかみ)・兵主大神(ひょうずのおおかみ)。
射楯大神は、五十猛命(いたけるのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子神。
兵主大神は、大己貴命(おおなむちのみこと)。
遷座の状況を見ていると射楯大神が先にこの地に鎮座したと思われ、その後に兵主大神と合わさり延喜式神名帳には「射楯兵主神社 二座」となっていると思われる。
射楯大神は伊和の一族との関係が深そうだ。
伊和と言えば播磨国一宮の伊和神社だが(直線で北西に約30km)、同族が両方の地に拠点を築いていたのかもしれない。
その伊和神社のご祭神は大已貴神であり、その流れを射楯兵主神社も汲んでいるのかもしれない。
ただ個人的には双方とも相手の神社を特別意識している訳では無いと感じる。
また兵主大神は大和朝廷との関係を強く感じる、朝廷によりこの地域の押さえとされたのだろうと想像する(個人的見解です)。

兵主神社とは大和朝廷により各地の軍団に兵庫を設けてその鎮守として祀られた神社。
兵庫とは、「ひょうご」「へいこ」「つわものぐら」と読むようだ。
文字通り、兵器を格納しておく倉や倉庫、つまり兵器庫のこと。
その兵器庫に兵主神(大巳貴命や素戔嗚命)を祀ったという内容になっている。

兵器庫が必要だということは、そのあたりが紛争中あるいは紛争が起きるかもしれない地域なのだろう。
有事の際に素早く対応しようと思えば、現場に近い場所に兵士と兵器を用意すると思う。
そこで、延喜式神名帳に出てくる「兵主神社」を抜き出してみると次のような結果になった。
大和国・城上郡・018-030・穴師坐兵主神社 ・名神大月次新嘗_相嘗
大和国・城上郡・018-230・穴師大兵主神社 ・小
和泉国・和泉郡・037-050・兵主神社    ・小
三河国・賀茂郡・076-030・兵主神社    ・小
近江国・野洲郡・152-040・兵主神社    ・名神大
近江国・伊香郡・159-170・兵主神社    ・小
丹波国・氷上郡・264-110・兵主神社    ・小
但馬国・朝来郡・272-040・兵主神社    ・小
但馬国・養父郡・273-090・兵主神社    ・小
但馬国・養父郡・273-230・更杵村大兵主神社・小
但馬国・出石郡・274-130・大生部兵主神社 ・小
但馬国・気多郡・275-070・久刀寸兵主神社 ・小
但馬国・城崎郡・276-110・兵主神社    ・小
但馬国・城崎郡・276-130・兵主神社二座  ・小
因幡国・巨濃郡・280-050・佐弥乃兵主神社 ・小
因幡国・巨濃郡・280-070・許野乃兵主神社 ・小
播磨国・飾磨郡・310-010・射楯兵主神社二座・小
播磨国・多可郡・317-020・兵主神社    ・小
壱岐島・壱伎郡・422-050・兵主神社    ・名神大

これを見ると但馬国は他の国に対して突出して多いことが分かる。
他の国は多くても2つ、但馬国は7つある、これはもう異常事態だと言えるだろう。
但馬国が緊張状態にあったのだと推測できる(個人的見解です)。

ちなみに現在の兵庫県という名前はこの「兵庫(つわものぐら)」を由来としているそうだ。


式内社の兵主神社の分布をプロットしたもの。三河国・近江国の各1ヶ所づつは場所が特定できずプロット無し。壱岐島も除外した。紛争地域!?は兵庫県北部に集中している。
式内社の兵主神社の分布をプロットしたもの。三河国・近江国の各1ヶ所づつは場所が特定できずプロット無し。壱岐島も除外した。紛争地域!?は兵庫県北部に集中している。

同じく式内社の兵主神社の分布をプロットしたものの但馬国のアップ。ほぼ円山川沿いの朝来から豊岡あたりに集中している。大和朝廷へ最後まで従わない氏族や地域があったのだろうか。
同じく式内社の兵主神社の分布をプロットしたものの但馬国のアップ。ほぼ円山川沿いの朝来から豊岡あたりに集中している。大和朝廷へ最後まで従わない氏族や地域があったのだろうか。

射楯兵主神社へのアプローチは簡単だが難しい。
というのは鎮座場所は分かっているのだがクルマでは一方通行だったり、ポールが立っていて進入できなかったりなかなかに難しい。
南北の道からは入れないようなので東西の道より目指すのが良いだろう。
神社前に駐車場がある。
かつては総社本町全体が社域だったのだろうと思われる(個人的見解です)。

訪問当日は大規模なご祈祷が入っていたようで思うように写真が撮れなかったのが残念。
再度ゆっくりと参拝させていただきたいと思っている。
人出が多くて奉納提灯が賑やかなところを見ると地域の尊崇が非常に厚いことがよく分かる勢いのある神社という印象。

播磨で強大な力を誇った伊和の一族と関係の深い神社。

注意点

神社前の駐車場へ行き着くのが少々難しい。

訪問ノート

訪問日 :2019/2/17
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

式内社データベースのダウンロードはこちらから

式内社一覧表はこちらから

式内社地図データのダウンロードはこちらから