273-010_養父神社

比定社:養父神社

式内社コード:273-010
神名帳社名:夜夫坐神社 五座、名神大二座、小三座、ヤフ-
社格:名神大
所在地:667-0112 兵庫県養父市養父市場827
plus code:9RP3+XG 養父市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

養父市場の集落の西の端の山裾に鎮座。
円山川が蛇行している部分の南岸にあり大屋川との合流点のすぐ近く。
国道312号線の大屋橋より東に曲がり、さらに京都府道・兵庫県道2号宮津養父線を400メートルほどで右(南)へ入ると約1kmほど。
現在は円山川のすぐ横をJR山陰本線が走り、さらにその横に道路となっている。
駐車場完備。

ハイライト

養父神社と山野口神社の関係。

写真

養父神社入り口を望む。社標には名神大社とある。
養父神社入り口を望む。社標には名神大社とある。
入り口からは石段を登る。そぐ脇には道路とJR山陰本線が通っている。
入り口からは石段を登る。そぐ脇には道路とJR山陰本線が通っている。
石段を登った場所から北側を望む。神社自体は北向き。道路・JR山陰線・円山川がすぐ前。かつてはこのまま真っ直ぐに石段があったみたいだ。
石段を登った場所から北側を望む。神社自体は北向き。道路・JR山陰線・円山川がすぐ前。かつてはこのまま真っ直ぐに石段があったみたいだ。
くるっと振り返って鳥居と山門(随神門)を望む。右手に手水舎。
くるっと振り返って鳥居と山門(随神門)を望む。右手に手水舎。
鳥居をくぐり石段を登ると山門(随神門)。すごく太い柱だ。
鳥居をくぐり石段を登ると山門(随神門)。すごく太い柱だ。
神社謹製の由緒書。ご祭神は倉稲魂命・少彦名命・大巳貴命・谿羽道主命・船帆足尼命、崇神天皇三十年に鎮座とある。
神社謹製の由緒書。ご祭神は倉稲魂命・少彦名命・大巳貴命・谿羽道主命・船帆足尼命、崇神天皇三十年に鎮座とある。
訪問したのは2018/4/7で平成30年のお走りまつりの直前だった。御朱印が養父神社と山野口神社の両方あるようだ。両社の関係がよく分からない。
訪問したのは2018/4/7で平成30年のお走りまつりの直前だった。御朱印が養父神社と山野口神社の両方あるようだ。両社の関係がよく分からない。
山門(随神門)をくぐると正面に拝殿。
山門(随神門)をくぐると正面に拝殿。
拝殿前には2組の狛犬。奥の狛犬は少々変わった姿かたち、実はオオカミなんだそうだ。
拝殿前には2組の狛犬。奥の狛犬は少々変わった姿かたち、実はオオカミなんだそうだ。
拝殿を正面より望む。扁額には「養父大明神」「山野口大明神」とある。
拝殿を正面より望む。扁額には「養父大明神」「山野口大明神」とある。
垣に囲まれた養父神社の本殿を右側より望む。元禄九年(1696年)の建築とある。
垣に囲まれた養父神社の本殿を右側より望む。元禄九年(1696年)の建築とある。
垣に囲まれた養父神社の本殿を右後ろより望む。
垣に囲まれた養父神社の本殿を右後ろより望む。
養父神社の本殿を左側より望む。拝殿とは回廊で繋がっている。
養父神社の本殿を左側より望む。拝殿とは回廊で繋がっている。
養父神社の本殿の後ろ1段高い場所に山野口神社の本殿がある。
養父神社の本殿の後ろ1段高い場所に山野口神社の本殿がある。
山野口神社の本殿を正面より望む。養父神社本殿と同じく元禄九年(1696年)の建築とある。
山野口神社の本殿を正面より望む。養父神社本殿と同じく元禄九年(1696年)の建築とある。
山野口神社のご祭神は大山祇命。土着の神を祀ったのが山野口神社で当地の起源なのかもしれない(個人的見解です)。彫り物は中井権次一統の手によるもの。
山野口神社のご祭神は大山祇命。土着の神を祀ったのが山野口神社で当地の起源なのかもしれない(個人的見解です)。彫り物は中井権次一統の手によるもの。
神社謹製の山野口神社の由緒書。
神社謹製の山野口神社の由緒書。
養父神社の拝殿の左脇には、お走りまつりの神輿が入っている。
養父神社の拝殿の左脇には、お走りまつりの神輿が入っている。
山門(随神門)の右側には四角い土俵があり、段々になった桟敷席も用意されている。
山門(随神門)の右側には四角い土俵があり、段々になった桟敷席も用意されている。

感想

神社謹製の由緒書によると

養父神社由緒記
鎮座地 兵庫県養父郡養父町養父市場七六三
御祭神
 倉稲魂命—————-米麦養蚕牛馬の神様
 少彦名命—————-薬草、治病の神様
 大巳貴命(大国主命)—-国土開発統治の神様
 谿羽道主命(但馬道主命)国民生活安定の神様
 船帆足尼命————–地方政治の神様
沿革
 養父神社は崇神天皇三十年(皇紀五九四年西暦前六六年)約二〇〇〇年前に御鎮座になり、仁明天皇承和十二年に無位養父神を従五位下に叙し、清和天皇貞観十一年従五位上養父神を正五位下に叙され、十六年正五位上に加うとあります。
 醍醐天皇の時代延喜式が定められるゝに当り、名神大社として登載されております。
 その后明治に入り、六年郷社、十二年県社に昇格致しました。社殿については御霊社は応永三十年(皇紀二〇八三年、西暦一四二三年)に建てられたものです。本社並びに山野口神社は元禄九年(皇紀二三五六年西暦一六〇九年)の建立です。
社務所は元禄年中の建立と伝えられています。

※補足:元禄九年は西暦1696年

とある

次の記録が残っている。
崇神天皇30年(BC68年、諸説あります)鎮座。
天平9年(737年)神戸が与えられていた。
大同元年(806年)神戸四戸。
承和12年(845年)従五位下(続日本後記)。
貞観11年(869年)正五位下(三大実録)。
貞観16年(874年)正五位上。
鎌倉時代には全盛期を迎え一山五坊、三重塔もあった。
寛喜年間(1229~32年)改築。
応永30年(1423年)造営。
明治10年(1877年)郷社。
明治12年(1879年)県社。
明治43年(1910年)神饌幣帛料供進神社指定。
かっては弥高山の山頂に上社、中腹に中社、現社地に下社があった。
江戸時代は「藪崎大明神」「養父大明神」と呼ばれていた。

また
神社謹製の山野口神社の由緒書によると

山野口神社
 山野口神社(ヤマノクチジンジャ)の御祭神は大山祇命(オオヤマズミノミコト)であります。別称は「山の口のおおかみ」と申し上げ、流行病を退けられ「つきもの」を落す神として広く信仰されています。この奥には神の滝があり、上社跡、中社跡が遥拝できます。
 社殿は元禄年中(江戸時代)建立と伝えられております。

とある。

延喜式神名帳・山陰道・但馬国・養父郡の「夜夫坐神社 五座、名神大二座、小三座」に比定される。
よって5柱の神様を祀る。
現在のご祭神は養父神社由緒記に、倉稲魂命・少彦名命・大巳貴命(大国主命)・谿羽道主命(但馬道主命)・船帆足尼命とあるが、これには諸説あるようだ。

拝殿の扁額には「養父大明神」「山野口大明神」とあるところを見ると、「山野口大明神」は大いに大切な神様だと思われるが詳細は不明。
養父神社は、かつて上社・中社・下社があったとあるが、「山野口神社」の由緒書にも「この奥には神の滝があり、上社跡、中社跡が遥拝できます」とあり密接な関係があったようだ。
思うに、土着の神を祀ったのが山野口神社で当地の起源なのかもしれない(個人的見解です)。
山野口神社のご祭神は大山祇命ということだが、養父神社の5柱のご祭神とは全く別になっているようだ。
このあたりの詳細が知りたいと思った。

かつてすぐ前を山陰道が通り、円山川が流れており、当地は大いに賑わっていたと思われる。
また、牛の売買が養父神社の管理下にあったらしく地域では大きな力を持っていたのではないだろうか。

社域は谷を挟んで東に社殿、橋を渡り西に社務所がある。
円山川に面して随神門があり、大きな拝殿がある、拝殿の前に狼の狛犬と通常の狛犬がいる。
拝殿の奥の本殿は板塀に囲まれよく見えない、建築は元禄九年(1696年)とあるのでかなり古い建物だが状態は良い。
本殿よりも奥の1段高いところに山野口神社の本殿があるので養父神社よりも格上な存在と思われる(個人的見解です)。

但馬国の神社には立派な土俵を備える神社が多いが当社にも随神門の右側に立派な土俵がある。
当社には「お走り祭り」という祭礼があり有名。
南へ20kmほどの場所にある斎神社(いつきじんじゃ)まで神輿を練り歩く。
また紅葉の名所としても有名で混雑するらしい。

古い古い歴史があり、かつては非常に栄えていた神社の面影が残る神社。
まだ不明な点も多いので、謎を解き明かしながら後世に伝えたい神社だ。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日:2018/4/7
交通手段:クルマで訪問
カメラ:DMC-TZ60

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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式内社一覧表はこちらから

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