160-070_川裾宮唐﨑神社

比定社:川裾宮唐﨑神社

式内社コード:160-070
神名帳社名:大川神社、オホカハノ
社格:小
所在地:520-1814 滋賀県高島市マキノ町知内
plus code:F324+PP 高島市、滋賀県
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アプローチ&ロケーション

知内川と百瀬川の間で琵琶湖に近い平地に鎮座。
社殿の100メートル東側(琵琶湖側)に神社参道入口がある。
周辺は人家と田畑で建て込んでおらず塀や垣根もなく広々としている。
駐車場完備。

ハイライト

開放的な長い参道。
太鼓のぶらさがった拝殿。

写真

川裾宮唐﨑神社を正面より望む。この場所は参道の中ほど。
川裾宮唐﨑神社を正面より望む。この場所は参道の中ほど。
参道の中ほどを横切る道路の東側を望む。周辺は人家が多いが建て込んでおらず余裕がある。
参道の中ほどを横切る道路の東側を望む。周辺は人家が多いが建て込んでおらず余裕がある。
参道は100メートル続いており結構長い。
参道は100メートル続いており結構長い。
参道の中ほどを横切る道路の西側を望む。
参道の中ほどを横切る道路の西側を望む。
社務所兼授与所を望む。
社務所兼授与所を望む。
鳥居前には小さな小川が流れており橋を渡る。
鳥居前には小さな小川が流れており橋を渡る。
コンクリート舗装が興ざめだが端正な拝殿。
コンクリート舗装が興ざめだが端正な拝殿。
手水舎。
手水舎。
拝殿には太鼓が天井からぶら下がっている。拝殿は文政年間の再建とある。
拝殿には太鼓が天井からぶら下がっている。拝殿は文政年間の再建とある。
本殿を正面より望む。本殿は明治期の再建。
本殿を正面より望む。本殿は明治期の再建。
ご祭神はすべて女神となっている。
ご祭神はすべて女神となっている。
本殿は明治期の再建だけに非常に良い状態を保っている。
本殿は明治期の再建だけに非常に良い状態を保っている。
拝殿より鳥居を望む。
拝殿より鳥居を望む。

感想

由緒書によると

 当地は、知内川(旧大川)、生来川、百瀬川の三本の川が、琵琶湖に流れ入り、東に伊吹山、雲仙岳、竹生島をのぞみ、白砂青松の浜に面する風光の清明なる神域で、祓戸の神々の鎮座地として、禊祓の祭祀を行う、古代の川社(かわやしろ)であった。古い神社は、必ずといっていいほど、清流のわきにあり、当社地も先の三本の川の中に、なお、二つの小川(殿田川、ミソギ川)にはさまれて、川につからないと行けない斎庭になっていた。こうした例は、熊野信仰で知られる、熊野本宮大社のかつての社地「大斎原」(おおゆのはら)もそうであり、伊勢の神宮の五十鈴川も、橋がなかった時代は、徒歩で川を渡り、自然に禊をし、身を清めることができるようになっていたのである。

当社の創始は、周囲に集落のできるはるか以前、久遠にして不詳であるが、天智の朝には既に鎮座し、延喜式内社大川神社は当神社のことであると伝えられている。社号は大川明神、三光明神、川裾大明神、唐崎大明神と尊称され、変遷してきているが、「川裾さん」という通称が最も広く親しまれている。川裾信仰の霊地であり、中昔、神仏習合し、明治にはいって分離された。

天文年間(1532~1555)に当地は兵火にかかり、社傍の大川堂に安置されていた大川神社本地仏は水玄堂に移され無事であったが、古器物は殆どが烏有に帰したと伝えられている。その本地仏は水玄堂の火災(明治26年)により、現在は上知内の安養寺内の観音堂に、唐崎神社奥の院として祀られている。

現在の社殿は明治18年、拝殿は文政10年の再建で、以降、御屋根など数回にわたり大修復されている。正面の鳥居は、正徳元年(1711)木造を石材に換え建立された。また、参道口には、湖東、西湖各千人講奉納(安政年間)による石灯篭があり、湖上交通による参拝も盛んであった。安産、下の病、などの御利益でも知られている。
※補足:明治18年=西暦1885年
※補足:文政10年=西暦1827年
※補足:安政年間=西暦1855年~1860年

とある

管理人の勉強不足で由緒書にある川裾信仰という言葉は初めて知った。
かつてはすぐ前が琵琶湖だったのではないかと思う。

周囲が建て込んでないため、かつての形式を色濃く残していると思われる。
社域は手入れが行き届き地域の尊崇も厚いことがよく分かる。
気持ちよく参拝できる。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日:2019/5/25
交通手段:クルマで訪問
カメラ:RX100M3

各種式内社データへのリンク

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