比定社:水谷神社
式内社コード:273-030
神名帳社名:水谷神社、ミツタニノ
社格:名神大
所在地:667-0121 兵庫県養父市奥米地235
plus code:9RVR+GM 養父市、兵庫県
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アプローチ&ロケーション
「みずたにじんじゃ」と読む、地名の奥米地は「おくめいじ」と読む。
奥米地の集落の中の西の山裾に鎮座。
兵庫県道104号物部藪崎線と兵庫県道255号上村養父線が交わる口米地交差点より255号線を東へ3.2kmほどで鳥居が見えるので分かりやすい。
駐車場は無いので注意。
ハイライト
大きくはないが豊かな社叢。
養父神社との関係。
ほいやら踊とネッテイ相撲の無形の民族文化。
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
養父のネッテイ相撲
この行事は、旧養父郡養父町奥米地に鎮座する氏神、水谷神社の祭礼に奉納される儀礼的な相撲で、奥米地の各家が10組に分かれて、毎年順番に各組が世話するかたちで、成人男子2人によって行われる。悪例鎮めの祈願と作物の実りを感謝して行われる行事である。
写真
感想
水谷神社氏子中謹製のネッテイ相撲説明書によると
水谷神社のネッテイ相撲
指定年月日 平成十六年三月九日 兵庫県指定文化財
平成十五年二月二十日 国選択無形文化財
所 在 地 養父市奥米地中島二三五番地
水谷神社は、平安時代から神社名が知られる式内社で、御祭神は保食神様(うけもちのかみ)である。本殿は宝永七年(西暦一七一0)に作られた重要な建造物である。
秋祭りには、本殿前の境内でネツテイ相撲が奉納される。二人の男子が裃姿で、下半身は裾をからげて素足になる。上半身は裸の上に肩衣を着けて右手に小太刀をもつ。相撲の前に肩衣を脱いで小太刀を巻いて置く。
相撲の動作は、向かい合った二人が「ヨイ、ヨイ、ヨイ」のかけ声で地面を三度踏みしめ、互いに拳を突き出したり、首を抱えて一周とびまわるものである。
土俵もなく行司もいない相撲で、勝ち負けの勝負もない。
足踏みをなんども繰り返す仕草から、現在の相撲の原型だといわれている。平安時代に朝廷が行っていた節会相撲の流れをくむ全国的にも希少な儀礼として、県指定文化財と同時に国選択の無形文化財になつている。
平成二十年十月吉日 水谷神社氏子中
とある
ご祭神は、諸説あるようで天照皇大神・水神・保食神と言われている。
次の記録が残る。
創建は不明。
弘安8年(1285年)「但馬国大田文」に水谷社(養父神社の事)が見られる。
嘉元4年(1306年)「昭慶門院領目録案」に水谷大社(養父神社の事)が見られる。
宝永7年(1710年)現在地へ遷座。
明治6年(1873年)村社。
中古、養父神社に合祭され、両社が混同され「養父水谷大明神」と称された。
当初は現鎮座地の南方、奥米地と中米地の境界を成す谷を「水谷」といい、その谷奥に懸かる滝の更に上部に鎮座していたという。(旧社ハ今ノ社ヨリ十四五丁渓水ノ左ニアリ)
その後、大嵐によって社殿が流失、その社殿が流れ着いた米地川沿いの平地において奉斎される事となったが、宝永7年(1710年)に現在地へ遷座されたという。
宝永7年(1710年)に現在地に遷座とあるので、現在の社地は比較的新しいことになる。
だが、濃い社叢や大きな木も多く非常に良い雰囲気の社域だと思う。
養父神社と水谷神社との関係が不明なことが多い。
だが水谷神社のみにネッテイ相撲が残っているのは不思議だが貴重なことだ。
個人的には、但馬国の式内社では土俵を非常に重要視していると感じている。
土俵がキチンと四角く盛り上げられているのみではなく、見物用の桟敷席を設置している神社が多い。
かつては、神事として朝廷との行事として相撲が大いに重要視されていた名残なのだろうと想像している。
前を流れる米地川の源流域には、掘場鉱山(ほっぱこうざん、朝日金山とも)があり戦国期に開発された。
だが、もっと古くから鉱物を採取していたのではないだろうか(個人的見解です)。
社域は広くはないがよく手入れされ、社叢が非常にきれいだ。
訪れた5月中旬だったが新緑が眩しかった。
社殿は新しくカチッとした印象を受けるもの。
鳥居横にある公民館も良い味を出している、元は舞殿だったらしい。
長く後世に残したい神社。
注意点
駐車場は無いので注意。
訪問ノート
訪問日:2020/5/18
交通手段:クルマで訪問
カメラ:EOS80D + TAMRON 10-24mm F/3.5-4.5 Di II VC HLD B023
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。