270-160_売布神社(網野町木津)

比定社:売布神社(網野町木津)

式内社コード:270-160
神名帳社名:売布神社、ヒメフノ/メフ
社格:小
所在地:629-3241 京都府京丹後市網野町木津217
plus code:JXXG+9X 京丹後市、京都府
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

木津集落の南東の端の谷筋に鎮座。
国道178号線より南へ入り京都丹後鉄道宮豊線の踏切を越え東へ入り集落の中を進むと突き当たりにある。
案内看板が一切無いので非常に分かりにくい。
木津集落と北隣りの浜詰集落は温泉観光地で旅館や民宿が多い。
神社前に駐車スペースがある。

ハイライト

谷筋と社殿の位置関係。

写真

売布神社を正面より望む。鳥居はほぼ西を向いている。
売布神社を正面より望む。鳥居はほぼ西を向いている。
右側(東)を望む。鳥居の脇を道路がまだ奥まで続き、その脇には小さな川、そのまた向こうには水源池がある。
右側(東)を望む。鳥居の脇を道路がまだ奥まで続き、その脇には小さな川、そのまた向こうには水源池がある。
鳥居を右側(南)より望む。小さな川と水源池がある。
鳥居を右側(南)より望む。小さな川と水源池がある。
正面(西)を望む。集落の中の1本道のほぼ突き当り。
正面(西)を望む。集落の中の1本道のほぼ突き当り。
左側(南)を望む。社標には式内とある。鳥居の左側には空き地があってクルマを駐車可能。
左側(南)を望む。社標には式内とある。鳥居の左側には空き地があってクルマを駐車可能。
京丹後市教育委員会謹製の網野ふるさと自慢百選。創建はかなり古いようだ。
京丹後市教育委員会謹製の網野ふるさと自慢百選。創建はかなり古いようだ。
京丹後市教育委員会謹製の本殿説明書。風雪で薄くなり読みづらい。ご祭神は豊宇賀能咩命、素戔鳴尊を合祀とある。
京丹後市教育委員会謹製の本殿説明書。風雪で薄くなり読みづらい。ご祭神は豊宇賀能咩命、素戔鳴尊を合祀とある。
鳥居をくぐると社殿は左に直角に配置されている。谷筋に沿ってなくて珍しい配置。
鳥居をくぐると社殿は左に直角に配置されている。谷筋に沿ってなくて珍しい配置。
拝殿を正面より望む。
拝殿を正面より望む。
拝殿を右側より望む。
拝殿を右側より望む。
拝殿の上部には少しだけ装飾が施されているが全体的には素朴で質素な印象。
拝殿の上部には少しだけ装飾が施されているが全体的には素朴で質素な印象。
覆屋に入った本殿(京都府指定文化財)を右側より望む。キッチっとした覆屋で全く中を見ることができないのが残念。
覆屋に入った本殿(京都府指定文化財)を右側より望む。キッチっとした覆屋で全く中を見ることができないのが残念。
拝殿の正面には参集殿のような建物がある。
拝殿の正面には参集殿のような建物がある。
拝殿より鳥居を望む。社域には古木がたくさんあり、いかにも古社という雰囲気。
拝殿より鳥居を望む。社域には古木がたくさんあり、いかにも古社という雰囲気。
鳥居越しに参道を望む。
鳥居越しに参道を望む。

感想

京丹後市教育委員会謹製の網野ふるさと自慢百選によると

 垂仁天皇90年、但馬の国造であった田道間守命(たじまもりのみこと)は、天王の命により不老不死の香菓の実を求め、景行天王元年に帰国しました。この時、田道間守命が祭壇を設けたところが、売布神社の創立された場所と伝えられています。
 その後、文安4(1447)年には、現在地に社殿を移したと伝えられています。
 本殿は、寛文9(1669)年に建築された一間社流造で、京都府指定文化財に指定されています。

とある

また
京丹後市教育委員会謹製の本殿説明書によると

売布神社本殿 一棟 (京都府指定文化財)
京丹後市網野町木津小字女布谷
本殿 (一棟)一間社流造、こけら葺
附 棟札 二枚 造立寛文九己酉年三月朔日の記があるもの 一
家祢替天明四年辰三月吉日の記があるもの 一
銘板 一枚 家祢替天明四年辰三月吉日の記がある

建立年代 寛文九年(一六六九)

 売布神社は、『延喜式神名帳』に記されている竹野郡十四座のうちの小社で、祭神は豊宇賀能咩命(とようがのめのみこと)を祀り、素戔鳴尊(すさのおのみこと)を合祀しています。近世以前は木津庄十三ヶ村の氏神でしたが、現在はそのうちの下和田区の氏子によって護り伝えられています。境内には、本殿の左右に稲荷神社や八幡神社などの小社が祀られています。
 本殿は一間社流造、こけら葺建物で、身舎は内々陣・内陣・外陣の三室に分けられています。寛文九年(一六六九)三月一日に宮津の大工一宮與次兵衛尉・桐村権兵衛尉・松本徳右衛門達によって建てられたことが、棟札によりわかっています。このほかにも本殿に関する銘板として、天明四年(一七八四)屋根葺替えの棟札一枚と銘文一枚があります。
 丹後地方における一七世紀後期の神社本殿は建物を装飾化する傾向がみられますが、この本殿は装飾的要素が少なく、木太い古風な建物と言え、装飾化が進む以前の神社本殿の様子が伺えます。棟札により造営年代・造営大工等も明らかであり、丹後地方における一七世紀中期の神社本殿として極めて貴重なものです。

とある

由緒としては次のようになる。
景行天皇元年に田道間守によりが田神山に創祀。
※注釈:景行天皇元年=西暦71年(諸説あります)
正安二年(1300)京都祗園社より素盞鳴命を疫病封じのため勧請した。
文安四年(1447)現在の境内に遷座し社殿を建立した。
寛文九年(1669)社殿造営、これが現在の社殿。
江戸時代までは「祗園社」、「八幡宮」と呼ばれていた。

売布(めふ)が付く神社は式内社だけでも結構たくさんある。
当神社の小字は女布谷というようなので元々は女布と書いていたのかもしれない。
数々の産業をもたらしたご祭神の豊宇賀能咩命にピッタリだと思った。

社域は谷間に作られており広くはない。
神社の鳥居は北西を向いていて集落の中を参道が真っ直ぐに続いている。
社殿は鳥居をくぐって左にある、つまり本殿の横から入るような形になる。
谷間に作られた神社はおおむね谷の開けた方向に社殿が向いていることが多いが、当社はまったく正反対となっている。
谷筋に沿って川が流れ、すぐ横には水源池もあるので古くから水と関係していたものと思われる。
社域には古木が多く、鄙びた感じの古社の雰囲気を形作っている。

社殿は素朴で質素、彫り物組物はほとんど施されておらず質実剛健な印象だ。
残念ながら覆屋に入った本殿(京都府指定文化財)は見ることができない。

手入れがしっかりされていて気持ち良く参拝できる。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日:2019/1/20
交通手段:クルマで訪問
カメラ:RX100M3

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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