270-120_(論)志布比神社(丹後町大山)

比定社:(論)志布比神社(丹後町大山)

式内社コード:270-120
神名帳社名:志布比神社、シフヒノ
社格:小
所在地:627-0211 京都府京丹後市丹後町大山922
plus code:P3FX+MF 京丹後市、京都府
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

しぶひじんじゃと読む。
大山集落の南の端の平地に鎮座。
国道482号線沿いにあるので見つけやすい。
拝殿前の広場には児童公園が作られていて地域に溶け込んでいる。
神社前に1台のみ駐車スペースあり。

ハイライト

一見どこにもあるような神社だけど様々なお話が残っているところ。

写真

志布比神社を正面より望む。前を走る道路は国道482号線。神社前に少しだけスペースがあるので駐車させていただいた。
志布比神社を正面より望む。前を走る道路は国道482号線。神社前に少しだけスペースがあるので駐車させていただいた。
右側(北)を望む。この方向は間人(たいざ)方面。北東に1.5kmの位置に神明山古墳がある。
右側(北)を望む。この方向は間人(たいざ)方面。北東に1.5kmの位置に神明山古墳がある。
正面(東)を望む。400メートルほど先に竹田川が流れる。向こうの方に稜線が平らな依遅ヶ尾山(いちがおやま)を望めるロケーション。
正面(東)を望む。400メートルほど先に竹田川が流れる。向こうの方に稜線が平らな依遅ヶ尾山(いちがおやま)を望めるロケーション。
左側(南)を望む。この方向は弥栄町や峰山方面。
左側(南)を望む。この方向は弥栄町や峰山方面。
神社入り口にある社標には式内とある。神社名は志布比神社だが、社標の文字は志布以神社と読み間違えそう。達筆すぎ…。
神社入り口にある社標には式内とある。神社名は志布比神社だが、社標の文字は志布以神社と読み間違えそう。達筆すぎ…。
鳥居より拝殿を望む。現在の社域はブロック塀で囲まれている。
鳥居より拝殿を望む。現在の社域はブロック塀で囲まれている。
拝殿を正面より望む。後方の山は地名と同じ大山というらしい。
拝殿を正面より望む。後方の山は地名と同じ大山というらしい。
広場の右側を望む。児童公園となっていて子どもたちが遊んでいるのが目に浮かぶようだ。
広場の右側を望む。児童公園となっていて子どもたちが遊んでいるのが目に浮かぶようだ。
広場の左手には手水舎。
広場の左手には手水舎。
手水舎。手水鉢には寛政年間とある。
手水舎。手水鉢には寛政年間とある。
拝殿と本殿を右側より望む。拝殿と本殿は分離していてつながっていない。本殿は1段高いところにある。
拝殿と本殿を右側より望む。拝殿と本殿は分離していてつながっていない。本殿は1段高いところにある。
拝殿の後ろの本殿への階段を望む。拝殿はまわりに縁があり軒が深い形式。
拝殿の後ろの本殿への階段を望む。拝殿はまわりに縁があり軒が深い形式。
階段を登ると本殿。
階段を登ると本殿。
覆屋に入った本殿はコンパクト。寛政年間の本殿だろうか。彫り物と組物が施されているのが分かる。
覆屋に入った本殿はコンパクト。寛政年間の本殿だろうか。彫り物と組物が施されているのが分かる。
本殿にある扁額には塩干神社とある。通称「しおほっさん」、江戸時代まではこの名称で呼ばれていた。この地域の潟湖の海水を抜いて干したから単純に塩干なのだろうと思う。
本殿にある扁額には塩干神社とある。通称「しおほっさん」、江戸時代まではこの名称で呼ばれていた。この地域の潟湖の海水を抜いて干したから単純に塩干なのだろうと思う。
由緒書とか伝わっているお話だとかをもっと掲げて神社を盛り立てるのが良いのではないかと思った。
由緒書とか伝わっているお話だとかをもっと掲げて神社を盛り立てるのが良いのではないかと思った。
覆屋に入った本殿を左側より望む。
覆屋に入った本殿を左側より望む。
本殿より拝殿を望む。写真が下手くそ、ごめんなさい。
本殿より拝殿を望む。写真が下手くそ、ごめんなさい。
拝殿横から広場を望む。
拝殿横から広場を望む。
拝殿前より鳥居を望む。前に続く畦道は参道なのだろうか。依遅ヶ尾山を正面に見ることができる。
拝殿前より鳥居を望む。前に続く畦道は参道なのだろうか。依遅ヶ尾山を正面に見ることができる。

感想

由緒書は無いので詳細は不明。

創建は不明、ご祭神は志夫美宿禰命(しぶひのすくねのみこと)、日子坐王命の子。
崇神天皇の時代に賊徒があらわれて人民を悩ましていた。
志夫美宿禰は父である日子坐王命の命に従いこれを退治した。
この志夫美宿禰を鎭めているのが、この志布比神社であるという。

社殿は元禄十年(1697)、享保二十一年(1736)、寛政三年(1791)造営の記録がある。
江戸時代までは塩干神社と呼ばれていた。

塩干神社には次のようなお話も伝わっている。
古代丹後半島の竹野川流域、峰山、大宮のあたりまで海だった。
あるとき大山に住む神様が海を干そうとして海水を飲んだそうだ、3口目で飲み残したところが残り水たまりが残った。
人々は飲み残した水たまりの傍らに宮を建てて敬ったそうだ。
それが式内志布比神社で「しおほっさん」と呼ばれていたということだ。
つまり竹野川流域、峰山、大宮の潟湖を開拓した功労者ということなのだろうと思う。

だけど干拓しただけでは塩が残り作物ができない。
そうした塩害を取り除いたというお話も伝わっている。

ご祭神の志夫美宿禰命は丹後国ではここでしか登場しない(珍しい)。
ひょっとしたら、それぞれ別の神様で別の神社だったのかもしれない(管理人個人の見解です)。
それがいつしか同じ神社に合体して今に至っているのかもしれない。

歴史が古いということは分からないことも多いものだ。
せっかくこうしたお話の残る式内社の論社なのだから、もっと全面にお話を打ち出して神社を盛り立てるのも良いのではないかと思った。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日:2020/11/14
交通手段:クルマで訪問
カメラ:α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM