273-110_佐伎都比古阿流知命神社

比定社:佐伎都比古阿流知命神社

式内社コード:273-110
神名帳社名:佐支都比古阿流知命神社 二座、サキツヒコ-
社格:小
所在地:669-5232 兵庫県朝来市和田山町寺内435
plus code:9R8W+VP 朝来市、兵庫県
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アプローチ&ロケーション

さきつひこあるちのみことじんじゃと読む。
寺内集落の北西の山裾に鎮座。
兵庫県道10号朝来出石線から北側の旧道に入り寺下バス停付近に社標あり神社は250メートルほど北側。
神社は光福寺の奥(北)にあるのだが、アプローチは光福寺の前を通るか1本西側の道。
どちらも農道で同じ場所に到達するが木々に埋もれ鳥居が見えずらい。
道が狭いので注意。

ハイライト

村の鎮守という感じの立地。
兵庫県指定無形文化財の寺内ざんざか踊り。
中井権次一統による本殿の彫り物。

写真

佐伎都比古阿流知命神社を正面より望む。光福寺の前の簡易舗装の農道を進むと突然鳥居が見える。はじめて行くと、こんなところにあるのか!とビックリする。
佐伎都比古阿流知命神社を正面より望む。光福寺の前の簡易舗装の農道を進むと突然鳥居が見える。はじめて行くと、こんなところにあるのか!とビックリする。
山の斜面に作られており、杉木立を抜ける石段を登る。
山の斜面に作られており、杉木立を抜ける石段を登る。
鳥居の扁額には佐伎都比古阿流知命神社とある。
鳥居の扁額には佐伎都比古阿流知命神社とある。
鳥居をくぐり石段を登る。傾斜がゆるく登りやすい。
鳥居をくぐり石段を登る。傾斜がゆるく登りやすい。
石段を登りきると広場に出る。正面の石垣の上に覆屋に入った本殿が見える。石垣はかなり高い。
石段を登りきると広場に出る。正面の石垣の上に覆屋に入った本殿が見える。石垣はかなり高い。
広場の右側には手水舎と摂社末社。左側には参集殿のような建物がある。
広場の右側には手水舎と摂社末社。左側には参集殿のような建物がある。
手水舎の手水鉢。
手水舎の手水鉢。
石段を登りきると覆屋に入った本殿がある。
石段を登りきると覆屋に入った本殿がある。
本殿は小振りだが比較的新しいように見える。遠目に見ても精緻な彫り物が素晴らしい。中井権次一統の手によるもの。
本殿は小振りだが比較的新しいように見える。遠目に見ても精緻な彫り物が素晴らしい。中井権次一統の手によるもの。
本殿の前には狛犬ならぬ狛猿がいる。日吉大社の影響でかつては「山王神社」「山王権現」「十六柱神社」と呼ばれていたらしい。
本殿の前には狛犬ならぬ狛猿がいる。日吉大社の影響でかつては「山王神社」「山王権現」「十六柱神社」と呼ばれていたらしい。
本殿前より石段を望む。ちゃんと狛犬もいる。
石段より鳥居を望む。
石段より鳥居を望む。

感想

由緒書はないので詳細不明。

以下の記録が残る。
ご祭神は、佐伎都比古命(さきつひこのみこと)・佐伎都比古阿流知命(-あるちのみこと)・大国主命。
創建年月等は不明。
元禄3年(1690年)光福寺の単心和尚によつて大国主命合祀。
明治6年(1873年)村社。
江戸時代までは、「山王神社」「山王権現」「十六柱神社」と呼ばれていた。

天日槍が但馬国に留まり但馬国の前津耳の娘の多遅摩前津見を娶った。
この前津耳が佐伎都比古命であり、佐伎都比古阿流知命はその妻であるという。
また、一説には佐伎都比古命は前津耳の祖であり、佐伎都比古阿流知命は佐伎都比古命の御子であるという。
延喜当時の祭神は、佐伎都比古阿流知命と佐伎都比古命の二柱だったとおもわれる。
とある。

なるほど、だから延喜式神名帳・但馬国・養父郡の「佐支都比古阿流知命神社 二座」なのかと腑に落ちた。

アプローチは光福寺を目指していけば良い。
光福寺の前の奥へ続く簡易舗装の道を行けば神社前に出る、アプローチは江戸時代そのままな感じ。
現代的な感覚では、こんなところにある!と少しビックリする。
社標は250メートルほど南の寺下バス停付近にあるが、参道や鳥居があるわけでもなく神社の存在が分からない。

ご祭神は、当初は佐伎都比古命・佐伎都比古阿流知命の2柱だと思われる。
お話が正しければ、天日槍の奥さんのお父さんとなるので直接血縁は無く、義父ということになる。
でもハッキリとは分からないようだ。
また、日吉大社の影響なのか元禄年間に大国主命が合祀されたようだ。
どうりで、狛犬もいるが狛猿がいる訳が分かったような気がする。

神社入り口の鳥居のあたりは山林だが、鬱蒼とした杉林の中の石段を登るとパッと視界が広がる。
「寺内ざんざか踊り」(兵庫県指定無形文化財)が奉納される立派な社域だ。
さらにかなり高い石組みがあり、その上に覆屋に入った本殿がある。

本殿は小さいが精緻な彫り物が施されているのが分かる。
彫り物はどうも中井権次一統の仕事らしい、一見の価値がある。
本殿の状態は非常に良い、比較的新しいような気がする。

前を流れる糸井川の流域は、東床尾山を中心に多数の鉱山が存在し、江戸時代の慶長(1596~1615年)~寛永(1624~1645年)年間に大いに栄えた。
それらの開発は戦国時代と伝えられているが、古くから様々な鉱物が採取されていたのだろう(個人的見解です)。

社域はたいへんきれいで気持ち良く参拝できる。
有形と無形の財産を持つ貴重な神社。
長く保存してほしいと思う。

注意点

アプローチは道が狭いので注意。

訪問ノート

訪問日:2018/4/7
交通手段:クルマで訪問
カメラ:DMC-TZ60

各種式内社データへのリンク

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