005-080_山科神社

比定社:山科神社

式内社コード:005-080
神名帳社名:山科神社 二座、ヤマシナノ
社格:並名神大、月次、新嘗
所在地:607-8309 京都府京都市山科区西野山岩ケ谷町
plus code:XQ9W+C5 京都市、京都府
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

稲荷山の東裾に鎮座、伏見稲荷大社の反対側の東側山裾にあたる。
周囲は住宅街で道路が狭いので注意が必要。
東へ120メートルほどの交差点に社標がある。
神社前に駐車場があり急勾配の参道を進み階段を登ると拝殿前に到達する。
かなりの急勾配なので左側に迂回路もある。
駐車場完備。

ハイライト

伏見稲荷大社の東の反対側に名神大社である山科神社が鎮座している位置関係。
京都市指定有形文化財指定の本殿。

写真

山科神社を正面より望む。
山科神社を正面より望む。
右側(北)を望む。神社前には駐車場がある。駐車場の向こう側は岩屋寺となっており、大石内蔵助の隠棲地として有名。
右側(北)を望む。神社前には駐車場がある。駐車場の向こう側は岩屋寺となっており、大石内蔵助の隠棲地として有名。
正面(東)を望む。遠くに見えるのは山科の中心地あたり、山裾の丘陵地となっている。
正面(東)を望む。遠くに見えるのは山科の中心地あたり、山裾の丘陵地となっている。
京都市謹製の由緒書。897年宇多天皇の勅命により創建、宮道(みやじ)氏の祖神として大和武尊・稚武王を祀ったとある。山科一の宮とも呼ばれていたらしい。
京都市謹製の由緒書。897年宇多天皇の勅命により創建、宮道(みやじ)氏の祖神として大和武尊・稚武王を祀ったとある。山科一の宮とも呼ばれていたらしい。
一の鳥居をくぐると大変な急坂を登る。悪天候の際には気をつける必要がある。左側に迂回路もある。
一の鳥居をくぐると大変な急坂を登る。悪天候の際には気をつける必要がある。左側に迂回路もある。
急坂と階段の参道を登りきると舞殿がある広場に到着する。
急坂と階段の参道を登りきると舞殿がある広場に到着する。
広場の右側には社務所と手水舎。
広場の右側には社務所と手水舎。
広場の左側には迂回路がある。
広場の左側には迂回路がある。
手水舎。手水鉢には岩屋大明神とある。隣の岩屋寺が神宮寺だったのではないかと思われる。
手水舎。手水鉢には岩屋大明神とある。隣の岩屋寺が神宮寺だったのではないかと思われる。
広場より1段上がって本殿がある。京都府登録文化財に指定されている。
広場より1段上がって本殿がある。京都府登録文化財に指定されている。
京都市謹製の本殿の説明書。建築年代は不明だが江戸前期、ひょっとしたら室町後期かもとある。京都府登録文化財。
京都市謹製の本殿の説明書。建築年代は不明だが江戸前期、ひょっとしたら室町後期かもとある。京都府登録文化財。
本殿を手水舎の前より望む。周囲は山林となっていて、この山の向こうは伏見稲荷大社となっている。非常に興味深い位置関係だ。
本殿を手水舎の前より望む。周囲は山林となっていて、この山の向こうは伏見稲荷大社となっている。非常に興味深い位置関係だ。
本殿を左側より望む。本殿と同じ段に摂社末社はきっちり祀られている。
本殿を左側より望む。本殿と同じ段に摂社末社はきっちり祀られている。
本殿を正面より望む。
本殿を正面より望む。
本殿を望む。
本殿を望む。
本殿を右側より望む。端正な印象を受ける三間社流造、千木鰹木はない。
本殿を右側より望む。端正な印象を受ける三間社流造、千木鰹木はない。
本殿を右奥より望む。
本殿を右奥より望む。
本殿より舞殿を望む。
本殿より舞殿を望む。
広場より参道の階段を望む。かなりの傾斜がある。
広場より参道の階段を望む。かなりの傾斜がある。
参道より一の鳥居を望む。鳥居の向こうに山科の街が一望できる。
参道より一の鳥居を望む。鳥居の向こうに山科の街が一望できる。
山科神社の北側に同じ方向を向いて岩屋寺がある。手水舎に岩屋大明神とあったので、山科神社はかつて岩屋大明神と呼ばれていたのかもしれない。岩屋寺はその神宮寺だろうか。岩屋寺は赤穂浪士の大石内蔵助の隠棲地として有名。
山科神社の北側に同じ方向を向いて岩屋寺がある。手水舎に岩屋大明神とあったので、山科神社はかつて岩屋大明神と呼ばれていたのかもしれない。岩屋寺はその神宮寺だろうか。岩屋寺は赤穂浪士の大石内蔵助の隠棲地として有名。

感想

京都市謹製の由緒書によると

大和武尊(やまとたけるのみこと)・稚武王(わかたけのみこと)を祀る。
 社伝によれば、寛平九年(八九七)宇多天皇の勅命により創建されたと伝え、以後、この地の豪族宮道(みやじ)氏の祖神として、また山科一の宮とも呼ばれてこの地の産土神として人々の崇敬を受けて栄えてきた。
 盛時には、社領を丹波、山城に持ち、社伝の規模も大きかったが、度々の兵火のため消失し、現在は三間社流造の本殿及び権殿、拝殿、神庫などが残っている。
 また、元禄十四、五年(一七〇一~〇二)赤穂浪士の大石良雄が山科の里に隠棲していたが、その時、当社奥の院岩屋神社に参籠して、大願成就を祈ったといわれている。
 例祭は、「山科祭」と呼ばれ、毎年十月の第三日曜日に行われる。
京都市

とある

京都市謹製の説明書によると

山科神社本殿
 現本殿の建築年代を明らかにする史料はないが、本殿の前に立つ石灯籠に寛永二十年(一六四三)、鳥居に万治三年(一六六〇)の刻銘が見られる。一方、本殿の細部の彫刻などに古風なところがあり、また、部材の風蝕が大きいことから、室町時代後期造営の可能性もあるが、一部に補修材が認められ、江戸時代前期には現在の形態になったものと考えられる。
山の中腹に東に面して建つ三間社流造のこの本殿は、造営が古く、また、質も高く貴重な遺構であり、昭和五十九年六月一日、京都市指定有形文化財に指定された。
京都市

とある

宮道(みやじ)氏との関係が強い神社、醍醐天皇の外曽祖父にあたる宮道弥益(みやじのいやます)らが有名。
当社の南東1.5kmのところに宮道神社が鎮座し、同じくその祖神である大和武尊・稚武王を祀る。
その創建は寛平十年(八九八)で、当社とほぼ同時期となっている。
宮道氏は有力豪族でこの地域を地盤としており、朝廷での重職を歴任、皇室との関係も深い。
朝廷としては宮道氏の色は濃く出せないが式内社に加えたかったのではないかと想像している。
並名神大、月次、新嘗という社格がそれを表していると思う。

また鎮座地が伏見稲荷大社の東側の山裾というのも興味深い。
西へ山を登れば稲荷山や伏見稲荷大社にはすぐに行ける立地となっている。

本殿は朱塗りが残る三間社流造で端正な佇まいを見せる。
京都府登録文化財の指定となっている。

アプローチはかなりの急斜面なので注意が必要。

注意点

集落の中は道が狭いので注意。
参道がかなりの急斜面なので注意。

訪問ノート

訪問日:2021/11/18
交通手段:クルマで訪問
カメラ:α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM