275-020_気多神社(豊岡市日高町)

比定社:気多神社(豊岡市日高町)

式内社コード:275-020
神名帳社名 :気多神社、ケタノ
社    格:小
所 在 地 :669-5324 兵庫県豊岡市日高町上郷227
Plus Code  :FQHV+77 豊岡市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「けたじんじゃ」と読む、地名の上郷は「かみのごう」と読む。
上郷集落の西北の端の平地に鎮座。
神社のすぐ北側が円山川の堤防上となっており上に国道482号線が走っている。
国道482号線からは直接入れないので一旦集落の中に入り南側よりアプローチ。
社殿や社叢が見えており集落内の交差点より未舗装の農道を走る。
周囲に駐車可能。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索3】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

本殿の中井権次一統による彫り物。
北向きの社殿。

写真

気多神社の一の鳥居を望む。
気多神社の一の鳥居を望む。
位置の鳥居をくぐった所にある神社謹製の由緒書。神武天皇九年(前六五一)に気立(気多)の丘に創建とある。これほど古い年代はなかなか無い。
位置の鳥居をくぐった所にある神社謹製の由緒書。神武天皇九年(前六五一)に気立(気多)の丘に創建とある。これほど古い年代はなかなか無い。
二の鳥居を正面より望む。鳥居にかかる扁額には郷社とある。神社は北を向いている。
二の鳥居を正面より望む。鳥居にかかる扁額には郷社とある。神社は北を向いている。
右側(西)を望む。すぐ前が円山川の堤防、堤防の上を国道482号線が走る。
右側(西)を望む。すぐ前が円山川の堤防、堤防の上を国道482号線が走る。
左側(東)を望む。本来は堤防の方向(円山川)に神社入口があったのだろう。現在はチラッと見える西側に新しい一の鳥居が作られている。
左側(東)を望む。本来は堤防の方向(円山川)に神社入口があったのだろう。現在はチラッと見える西側に新しい一の鳥居が作られている。
二の鳥居をくぐると広場があり正面に社殿。
二の鳥居をくぐると広場があり正面に社殿。
広場の右側には摂社末社。社域には古木も多く古くよりここに鎮座していることが分かる。
広場の右側には摂社末社。社域には古木も多く古くよりここに鎮座していることが分かる。
広場の左側には摂社末社・倉・倉庫。土俵があるのが分かる。
広場の左側には摂社末社・倉。土俵があるのが分かる。
さらに左には社務所と手水舎。
さらに左には社務所と手水舎。
社殿を左側より望む。
社殿を左側より望む。
社殿の扁額には郷社・気多神社とある。
社殿の扁額には郷社・気多神社とある。
拝殿内部より本殿を望む。
拝殿内部より本殿を望む。
本殿を右側より望む。本殿は大きくて立派、見事な中井権次一統による彫り物が施されている。延宝5年(1677年)に建築され大正12年(1923年)に修理されたもの。
本殿を右側より望む。本殿は大きくて立派、見事な中井権次一統による彫り物が施されている。延宝5年(1677年)に建築され大正12年(1923年)に修理されたもの。
石灯籠には文政年間とある。
石灯籠には文政年間とある。
神社謹製の御禮講之碑。雅成親王の妃の幸姫の物語。
神社謹製の御禮講之碑。雅成親王の妃の幸姫の物語。
中世の鰐口が伝わっており、それには「但州気多惣社大明神」応永34年(1427年)とあるようだ。日高町指定有形文化財。
中世の鰐口が伝わっており、それには「但州気多惣社大明神」応永34年(1427年)とあるようだ。日高町指定有形文化財。
拜殿より二の鳥居を望む。前は円山川の堤防、その上にクルマが走っている所が国道482号線。かつての参道は円山川へ向かう形になっていたのだろう。
拜殿より二の鳥居を望む。前は円山川の堤防、その上にクルマが走っている所が国道482号線。かつての参道は円山川へ向かう形になっていたのだろう。

感想

神社謹製の由緒書によると

気多神社(由緒)
鎮座 兵庫県城崎郡日高町上郷字金堀二二七
 大古山陰地方は「大国主神」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許乎命」と称されていた。
 新羅国の王子「天日槍」が山陰海岸に渡来し、「葦原志許乎命」と支配地の争いになったが、和解の結果、志爾嵩山頂から両社三本ずつの矢を射て支配地を決めることとなった。
 天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許乎命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡に落ちた。
 そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許乎命は新たに建立された「養父神社」と「気多神社」に「大己貴命」(おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(播磨風土記)
 国司文書によれば気多神社は神武天皇九年(前六五一)に気立(気多)の丘に創建されたと記されている。
 文化の改新後は国府地区に但馬国府が創立され、気多神社は「総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郡一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。
 現社殿は延宝五年(一六七七)の再建であり、大正一二年に大修築を行い現在に到っている。現存する鰐口は応永三二年(一四二五)の作で町文化財に指定されている。明治三年気多神社と社名を改め、明治六年郷社に列せられた。
 境内社には、八坂神社、須賀神社、八幡神社、稲荷神社、愛宕神社等が祭られている。

とある。


神社謹製の御禮講之碑

 後鳥羽院の皇子雅成親王は承久の乱により但馬国高屋村に遷御せられ其の妃幸姫は親王を慕い懐妊の御身を以って都よりはるばる松岡村まで辿りつき三子を分娩さる。偶々老婆の戯言に惑わされ親王との対面は不可能と信じ其の悲運を嘆き王子をのこし円山川に入水された。王子は当村山崎三郎右エ門という人が連れ帰り養育し後日佛門に入られしと伝え聞く。爾来当村有志は妃の慰霊と村の平和発展祈るため妃を祀る十二所権現を招請し毎年旧暦三月十四日頭屋祭並に地方色豊かにして持異な婆焼祭を執行していたのだが第二次世界戦争並に農地改革により頭田を失い社会情勢の急激なる変遷に伴い遂に本祭礼を休止するの己むなきに至る。
 茲に於いて請負相計り之れを後世に伝える為め昭和四十四年四月此所由縁の地に碑を建立す。

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、大己貴命。
神武天皇9年(前652年、諸説あり)に気立(気多)の丘に創建(修正)。
豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼
延宝5年(1677年)再建。
明治3年(1870年)現社名に改称。
明治6年(1873年)郷社。
大正12年(1923年)修築(追加)。
江戸時代までは「総社気多大明神」と呼ばれていた。
大化改新後国府地区に但馬国府が設立され、気多神社は「但馬国総社」として崇敬を受けた。
中世以降は頼光寺に一郷一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。
口伝によると、気多神社は古くからここに鎮座していたのではなく、移転してきたものだというが、元の場所はといえば判明していない。

とある。


神社名が示すように但馬国・気多郡の総社とある。
当地は、律令時代の但馬国府から北東に直線で2kmほど、円山川の対岸東側の場所。
由緒には、”気多神社は「総社」として崇敬を受けた”とある。
また、”中世以降は頼光寺に一郡一社の「惣社大明神」として鎮守した”ともある。
その頼光寺は南東に600メートルほどの位置にある。
中世の鰐口が伝わっており、それには「但州気多惣社大明神」応永34年(1427年)とあるようだ。
由緒や資料からは、かつて当社は大きな神社であり崇敬が厚かったものと思われる。
このあたりは、少なくても古代においては但馬国の中心地だったようだ。
由緒書にある住所も興味深い、「兵庫県城崎郡日高町上郷字金堀二二七」とある、金堀だ。

円山川の右岸で堤防上に国道482号線が走るすぐ横に位置する。
堤防の上を走る国道482号線からは直接入れない、一旦集落の中に入り南側よりアプローチする。
社殿や社叢が見えており、集落内の交差点より未舗装の農道で鳥居前まで入っていける。

本来は北側に鳥居があり入口があったと思われ、堤防と国道482号線が作られる際に社域を削ったようで、現在の一の鳥居は西向けに設置されている。
その際に鳥居等が新しく作られたようだ。

二の鳥居をくぐると広場があり、広場を取り巻くように古木が多数ある社叢が取り囲み良い雰囲気。
社殿は拝殿・本殿・神饌所の構成となっている、本殿は覆屋には入っていない。
社域はそれほど広くはないが多数の建物があり、摂社末社・倉庫等もある。
しかし、なぜ当社は北を向いているのだろうか、気になる。

本殿は延宝5年(1677年)に建築され、大正12年(1923年)に修理されたものと思われ状態は非常に良い。
本殿には、中井権次一統による彫り物が施され、非常に豪華な作りで一見の価値がある。
社域はたいへんきれいに保たれており気持ちよく参拝できる。

由緒書ではない、もう一つの石碑だがこれは婆焼祭のことだ。
婆焼祭とは過激な名前ではあるが、現在では対岸の十二所神社で行われているようだ。

但馬国・気多郡と同じ名前の総社で大己貴命を祀る神社。

注意点

国道からは入れないので集落からアプローチする。

訪問ノート

訪問日 :2018/11/3
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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