270-050_網野神社

比定社:網野神社

式内社コード:270-050
神名帳社名 :網野神社、アミノノ
社    格:小
所 在 地 :629-3101 京都府京丹後市網野町網野789
Plus Code  :M2MG+GV 京丹後市、京都府
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「あみのじんじゃ」と読む、地名の網野は「あみの」と読む。
網野町の中心部の平地に鎮座。
旧社地は網野銚子山古墳のすぐ南側にあった。
古墳時代は海岸線が網野銚子山古墳(前方後円墳198メートルで京都府最大)のすぐそばだったと思われる。
神社内に駐車場完備。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境1】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

多数の国指定登録有形文化財。

登録有形文化財(建造物)

網野神社石鳥居
時代:明治
年代:明治14/大正後期移築・昭和4改修
西暦:1881/1912-1925移築・1929改修
文化庁解説:
境内南辺の中央に位置し、本殿への参道が北へ延びる。石造の明神鳥居。高さ5.5m、幅4.4m。低い亀腹上に、直径0.46mの円柱を内転びに建て、貫で固め、反り増しのある笠木と島木を置く。伝統的な比例を踏襲し、安定した姿を示す。

登録有形文化財(建造物)

網野神社境内社蠶織神社本殿
時代:江戸
年代:天明2/大正13・昭和38改修
西暦:1782/1924・1963改修
文化庁解説:
境内の東寄りに西面して建つ。檜皮葺の一間社流造、三方に組高欄付切目縁をまわす。柱は円柱で、本支輪付出組とし、桁と妻虹梁を持ち出す。二軒繁垂木で、妻は笈形付虹梁大瓶束。正面に双折両開桟唐戸を吊る。向拝や身舎中備、脇障子など要所に彫物を飾る。

登録有形文化財(建造物)

網野神社神饌所
時代:昭和前
年代:昭和前期/平成20改修
西暦:1926-1988/2008改修
文化庁解説:
拝殿北面の西端に建つ。桁行二間梁間二間、南北棟の切妻造金属板葺。面取方柱を長押で固め、柱上に舟肘木を置く。一軒疎垂木で、妻は虹梁蟇股。正面に妻戸、東面に蔀などを装置し、横板壁で、上部に横連子や竪連子窓を開ける。緩い勾配の優美な屋根になる。

登録有形文化財(建造物)

網野神社透塀
時代:昭和前
年代:昭和前期/平成20改修
西暦:1926-1988/2008改修
文化庁解説:
拝殿後方から本殿を囲んで建つ。延長30m。方柱を長押等で固め、腕木が軒桁を支持。一軒疎垂木で切妻造金属板葺。腰を横板壁とし、上部に菱格子を嵌め、東西各1ヵ所に両開戸を構える。本殿背面は切石積上に屋根のない瑞垣とする。本殿まわりを厳粛に結界する。

登録有形文化財(建造物)

網野神社手水舎
時代:昭和前
年代:昭和18/平成4改修
西暦:1943/1992改修
文化庁解説:
境内の南寄り、参道の脇に位置する。桁行一間梁間一間で周囲を吹き放つ。南北棟の切妻造銅板葺。大きく面を取る方柱を切石礎石上に建て、内法貫で固める。柱上に舟肘木を置き、桁や梁を支持。一軒疎垂木の化粧屋根裏天井。妻に蟇股を置く。軸太な意匠になる。

登録有形文化財(建造物)

網野神社拝殿
時代:大正
年代:昭和4/平成20改修
西暦:1929/2008改修
文化庁解説:
本殿の南方に建つ。桁行三間梁間二間で四周に高欄付切目縁をまわす。入母屋造金属板葺、正面に千鳥破風と唐破風を付ける。側まわりに蔀を装置。内部は拭板敷で、折上小組格天井を張る。柱間の中央に大きく広がる蟇股を置き、左右対称の唐草模様で飾る。

登録有形文化財(建造物)

網野神社本殿
時代:大正
年代:大正11/平成20改修
西暦:1922/2008改修
文化庁解説:
境内中央に位置する。一間社流造金属板葺で、二重基壇上に建つ。円柱で三斗組。組高欄付縁を三方にめぐらし、脇障子を構える。身舎正面は吹寄せ格子の板戸四枚引違をたて、他を板壁とする。蟇股や木鼻、絵様など古建築に精通した設計者ならではの意匠である。

登録有形文化財(建造物)

網野神社渡廊
時代:昭和前
年代:昭和4頃/平成20改修
西暦:1929頃/2008改修
文化庁解説:
本殿と拝殿の間に建つ。桁行二間梁間一間、南北棟の切妻造妻入金属板葺。面取方柱で、舟肘木を置き、軒は一軒疎垂木。両側面に蔀戸を装置。拭板敷で、化粧屋根裏天井。梁行に虹梁を架し、蟇股を飾る。薄い舟肘木や垂木の反りなど繊細な意匠感覚が窺われる。

写真

網野神社を正面より望む。鳥居は国の登録有形文化財に指定されている。
網野神社を正面より望む。鳥居は国指定登録有形文化財に指定されている。
右側(東)を望む。町中にあり周囲は人家。神社の東側に駐車場への入口があるが少々分かりにくい。
右側(東)を望む。町中にあり周囲は人家。神社の東側に駐車場への入口があるが少々分かりにくい。
神社正面には信号があり京都府道665号浜詰網野線が通っている。駐車場が分からなかったのでここに駐車させていただいた。
神社正面には信号があり京都府道665号浜詰網野線が通っている。駐車場が分からなかったのでここに駐車させていただいた。
左側(西)を望む。
左側(西)を望む。
鳥居脇には社標がある。
鳥居脇には社標がある。
京丹後市教育委員会謹製の網野ふるさと自慢百選。
京丹後市教育委員会謹製の網野ふるさと自慢百選。
鳥居をくぐると広場があり正面に拝殿(国指定重要文化財)が見える。
鳥居をくぐると広場があり正面に拝殿(国指定重要文化財)が見える。
広場の右側には蠶織神社(国指定登録有形文化財)、社殿は網野神社のかつての本殿。鳥居の右(東)から回るとここへクルマで入ってきて駐車が可能。
広場の右側には蠶織神社(国指定登録有形文化財)、社殿は網野神社のかつての本殿。鳥居の右(東)から回るとここへクルマで入ってきて駐車が可能。
広場の左には立派な左側の社務所と右側の結婚式場がある。
広場の左には立派な左側の社務所と右側の結婚式場がある。
拝殿を正面より望む。現在の拝殿は大正11年(1922年)の建築で国指定登録有形文化財、屋根はチタン製なので白っぽい。
拝殿を正面より望む。現在の拝殿は大正11年(1922年)の建築で国指定登録有形文化財、屋根はチタン製なので白っぽい。
神社謹製の由緒書。創建は不明、享徳元年(1452年)に遷座および3箇所の神社を1つに合併とある。
神社謹製の由緒書。創建は不明、享徳元年(1452年)に遷座および3箇所の神社を1つに合併とある。
拝殿を右側より望む。冬なので雪囲いされている。
拝殿を右側より望む。冬なので雪囲いされている。
拝殿を左側より望む。ちらっと見える神饌所は国の登録有形文化財。
拝殿を左側より望む。ちらっと見える神饌所は国指定登録有形文化財。
本殿を右側より望む。現在の本殿は大正11年(1922年)の建築、国指定登録有形文化財となっている。美しいシルエットを見せる、こちらも屋根はチタン製。
本殿を右側より望む。現在の本殿は大正11年(1922年)の建築、国指定登録有形文化財となっている。美しいシルエットを見せる、こちらも屋根はチタン製。
広場の右側にある蠶織神社(こおりじんじゃ)。網野神社の前の本殿で天明2年(1782年)の建築、国指定登録有形文化財。
広場の右側にある蠶織神社(こおりじんじゃ)。網野神社の前の本殿で天明2年(1782年)の建築、国指定登録有形文化財。
神社謹製の蠶織神社の説明書き。
神社謹製の蠶織神社の説明書き。
蠶織神社の本殿を正面より望む。重厚な作りで彫り物組物が施されているのが分かる。
蠶織神社の本殿を正面より望む。重厚な作りで彫り物組物が施されているのが分かる。
広場より鳥居を望む。右側に見えている手水舎も国指定登録有形文化財となっている。
広場より鳥居を望む。右側に見えている手水舎も国指定登録有形文化財となっている。

感想


神社謹製の由緒書によると

網野神社(あみのじんじゃ)(延喜式内社(えんぎしきないしゃ)・旧府社(きゅうふしゃ))
御祭神
 日子坐王(ひこいますのみこ、水江日子坐王(みずのえひこいますのみこ))
 住吉大神(すみよしおおかみ)
 水江浦嶋子神(みずのえうらしまこのかみ)

御由緒
 当社は延喜式内社であるので創立は十世紀以前とみられています。元々は、三箇所にご鎮座されていたものを享徳元年(一四五二)九月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。
 現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正十一年(一九二二)に建てられたものです。拝殿は入母屋造の正面千鳥破風と軒唐破風付きで、こちらも大正十一年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和二年の丹後大震災の被災により、昭和四年(一九二九)に再建されました。

日子坐王(水江日子坐王)
 日子坐王は、第九代開化天皇の皇子とされており『古事記』の中つ巻、第十代崇神天皇の御代に日子坐王は勅命により丹波國(古くは丹後も丹波國に含まれていました)に派遣されて土蜘蛛の首領「玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)」を誅されたとあり、また別の記録にはその後、日子坐王は丹波に留まり、國作りをされたとあります。さらに日子坐王は網野神社の他、丹後町の竹野神社(たかのじんじゃ)などに祀られ、網野銚子山古墳の主ではないかとも伝えられています。

住吉大神
 伊邪那岐神の禊の時に成った上(うわ)(表(おもて))筒男命・中筒男命・底筒男命の三神を住吉大神と申し上げます。神功皇后の新羅遠征を守護したことから、特に海神として尊崇されています。
 また、網野神社の住吉大神の縁起には、古代に日本海経由で来着したという説や近世になって河田金右衛門(かわだきんざえもん)が泉州堺(現在の大阪府堺市)から勧請したという説などがあります。

水江浦嶋子神
 水江浦嶋子神は、かつて網野村字福田の園という場所に暮らし、毎日釣りを楽しんでおられましたが、ある時、海神の都に通い、数年を経て帰郷されました。今日まで伝わる説話や童話で有名な「浦島太郎さん」は、この水江浦嶋子神が、そのモデルとなっています。
 網野には他にも浦嶋子をお祀りした嶋子神社(網野町浅茂川)や六神社(網野町下岡)。嶋子が玉手箱を開けた際にできた顔の皺を悲しみのあまりちぎって投げつけたとされるしわ榎(網野銚子山古墳)など、水江浦嶋子神に関わる史跡や伝承が今日までたくさん残っております。

とある。


京丹後市教育委員会謹製の網野ふるさと自慢百選によると

国登録文化財 網野ふるさと自慢百選
30.網野神社
 網野神社は、日子坐王・住吉大神・水江浦嶋子の三神を祀る神社です。もとは銚子山古墳近くにあったが、享徳元(1452)年9月に現在地に奉遷されたと伝えられています。
 境内社の蚕織(こおり)神社は、宮中紅葉山の養蚕神と京都今宮神社の織物神の分霊を祀ったもので、大正14年4月に創立されました。
 早尾神社は、天湯河板拳命(あめのゆかわたなのみこと)を祀り、かつては秋の彼岸の中日を例祭日として竹市と相撲などがありました。
 網野神社本殿・拝殿・渡廊・神饌所・透塀・手水舎・石鳥居、蚕織神社本殿は、国登録文化財となっています。
京丹後市教育委員会

とある。


神社謹製の早尾神社説明書によると

早尾神社(はやおじんじゃ)
 網野地名の起源、病気平癒の御神徳

御祭神
天湯河板拳命(あめのゆかわたなのみこと)

御由緒
 創立年月日不詳
 『日本書紀』の垂仁天皇記二十三年には、「第十一代垂仁(すいにん)天皇の皇子誉津別王(ほむつわけのみこ)は三十歳になられても言葉をお話になりませんでした。ある日、王(みこ)が大空を飛ぶ白鳥をごらんになられて、、『あれは何か』とお生まれになって初めてものを仰いました。その様子を父君である垂仁天皇はたいそう喜ばれて、天湯河板拳命(あめのゆかわたなのみこと)にその白鳥を捕らえてくるようにお命じになられました。そこで天湯河板拳命は但馬國(たじまのくに)(一説には出雲國(いずものくに))まで追って白鳥を捕らえ、これを天皇の御前(ごぜん)に献じました。それから王(みこ)はこの白鳥と遊ぶうちに言葉を話されるようになられたのです。この功績を讃えられ、天湯河板拳命には鳥取造(とっとりのみやつこ)の姓(かばね)を下賜されました。」とあります。
 こうしたことから、早尾神社は病気平癒(びょうきへいゆ)の御神徳(ごしんとく)があり、古くから人々より篤く信仰されております。

網野の地名の由来
 この地域には天湯河板拳命が白鳥を捕らえる際、松原村(まつばらむら、網野の古い地名)の遠津神(とおつかみ、日子坐王との伝承もあり)に祈願をし、水江に網を張ったことから、松原村は網野と称されるようになったとの言い伝えもあります。
 また天湯河板拳命は網野町の浅茂川の日吉神社境内社をはじめ、いくつかの場所で「早尾神社」として祀られております。

とある。


神社謹製の愛宕神社説明書によると

愛宕神社(あたごじんじゃ)
 防火・防災の守護神

御祭神
火産霊神(ひむすびのかみ)

御由緒
 火産霊神は、火神である軻遇突智神(かぐつちのかみ)と同神で、また火之夜藝速男神(ひのやぎはやおのかみ)とも火之炫毘古神(ほのかがびこのかみ)ともいいます。伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)二神の御子神で『古事記(こじき)』や『日本書紀(にほんしょき)』の伝によれば、伊邪那美神は火神をお生みになられた時に御陰(みほど)を焼かれて神避(かみき)されました。
 火産霊神は火のことを掌り(つかさどり)お守りになられる神さまですから、火の災いを避け、火を防ぎ鎮めるために、古くから人々は愛宕神社を丁重にお祀りして参りました。
 当愛宕神社の縁起には、社記に「延宝(えんぽう)六年(一六七八)愛宕権現開闢(かいびゃく)、享保(きょうほ)三(一七一八)丙寅六月二十四日再興云々」とあります。このことから近世になって山城国の愛宕神社(日本全国に九〇〇社を数える愛宕神社の総本山 京都市右京区)より御神霊を勧請(かんじょう)し網野村鎮火の守護神として現在地に祀られるようになったものと考えられます。

とある。


神社謹製の立脇神社説明書によると

立脇神社(たてわきじんじゃ)
 元網野町尾坂区の氏神様

御祭神
稚産灵神(わくむすびのかみ)  穀物の生育を司る神
保食神(うけもちのかみ)    食物を司る神
稻倉魂神(いなくらたまのかみ) 稲の生育を司る神
火遇津智神(かぐつちのかみ)  防火、竈(かまど)の神

御由緒
 創立年月日不詳
 かつて立脇神社は網野町尾坂区立脇に鎮座しており、尾坂区の氏神様として崇敬されてまいりましたが、第二次世界大戦後の世相の変化に伴い尾坂区を離れる人々が増えたため、昭和三十七年(一九六二)七月二十三日に当網野神社境内へ遷祀されました。
 現在、尾坂区は無人の地になっていますが、立脇神社は尾坂区の旧住民たちにより今日まで篤く信仰されております。
 社殿は享保十四年(一七二九)と文化六年(一八〇九)に再建され、明治二年(一八六九)に「立脇神社」と改称、同五年村社となりました。
 立脇神社御祭神のそれぞれの御神徳には、食物や稲や竈に関するものがあり、生活全般の守護神として崇められてきました。また、このような御神徳から尾坂区住民は古くから「三宝荒神(さんぽうこうじん)さん」や「お稲荷(いなり)さん」として親しんできたようです。

とある。


神社謹製の蠶織神社説明書によると

蠶織神社(こおりじんじゃ)
 織物業の守護、技能芸能の上達、商売繁盛の御利益

御祭神
天照大神(あまてらすおおみかみ)
天棚機姫大神(あめのたなばたひめのおおかみ)
和久産巣日神(わくむすびのかみ)
大宜津比売神(おおげつひめのかみ)

 金山彦命(かなやまひこのみこと)  鉱山の神(元小金神社)
 高靇神(たかおかみのかみ)     貴船神社(きぶねじんじゃ)の御祭神、水や雨を司る神(元小金神社)
 大日霎神(おおひるめのかみ)    太陽の神、天照大神と同神(元大日霎(おおひるめ)神社)
 若宇賀之女命(わかうかめのみこと) 食物を司る神、豊受大神と同神(元大日霎(おおひるめ)神社)
 (こちらの四柱の神々はかつて網野神社の境内社に祀られておりましたが、大正十四年一月二十二日に蠶織神社に合祀されました)

御由緒
 大正十四年(一九二五)四月、丹後縮緬(たんごちりめん)同業組合竹野郡支部と竹野郡蚕糸(さんし)同業組合の関係者が協議して、本郡に織物の神(天照大神と天棚機姫大神)と養蚕(ようさん)の神(和久産巣日神と大宜津比売神)を奉祀(ほうし)することになり、竹野郡の中心網野町の網野神社に奉斎(ほうさい)しました。(時の府知事の斡旋(あっせん)もあって)織物神は京都紫野今宮(いまみや)神社御分霊を、養蚕神は皇居の紅葉山の養蚕神の御分霊を勧請(かんじょう)して合祀(ごうし)し、社名は大正天皇の皇后様である貞明皇后(ていめいこうごう)のお言葉のまにまに「蠶織(こおり)神社」と定められ、四月十五日に網野町民、郡内養蚕業者数千人が参列し、盛大な鎮座祭が斎行されました。
 今日に至っても、毎年四月の中頃には織物業に携わる方々が中心となって、産業の振興と発展を祈願する盛大な神事が執り行われております。
 現在の蠶織神社の社殿は、天明二年(一七八二)に建立されたもので、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の社殿の各部には江戸時代中期の匠による賑やかな彫刻が目を引きます。
 蠶織神社は、その由緒に皇室とのご縁が非常に深いため、社紋は「効く」と「桐」になっており、社殿の棟にもそれらの社紋があしらわれております。
 大正十一年(一九二二)に現在の網野神社の本殿と拝殿が新築されるまで、こちらが網野神社の本殿として崇敬されてまいりました。

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、日子坐王・住吉大神・浦島子神。
 住吉大神は往古宮ノ奥に鎭座。
  享徳元年(1452年)9月13日現在地に合併遷座。
 水江浦島神は往古浦島宮山に鎮座し熊野神社と称した。
  享徳元年(1452年)9月13日現在地に合併遷座。

垂仁天皇の御代天湯川板挙命創祀。
享徳元年(1452年)元の社地から現社地に遷座および合祀(修正)。
天明2年(1782年)本殿(現在の蠶織神社)建立(追加)。
明治6年(1873年)村社。
明治40年(1907年)幣饌料供進指定。
大正11年(1922年)本殿と拝殿(現在の網野神社)を建立(追加)。
昭和2年(1927年)北丹後地震で被害(追加)。
昭和4年(1929年)拝殿再建(追加)。
昭和18年(1943年)府社。

元の社地は銚子山古墳東南の根本宮山。
享徳元年(1452年)9月、元の社地から現社地に遷座。

江戸時代までは「浦嶋大明神・淺茂川明神」と呼ばれていた。

元々は、三箇所に御鎮座されていたものを享徳元年(1452年)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられている。

とある。


網野神社がある当地は、古代より、いやそれよりももっと前から開けた場所。
古代丹後の大陸への玄関口として最重要地域であることは間違いない。
古代では海岸線が現在の網野町の市街地にまで入り込んでおり潟湖を形成していたとされている。
つまり、網野銚子山古墳のすぐそばまでが海だったということになる。
その時代の網野銚子山古墳は、海よりその威容を見ることができる、壮大な規模だったと言われている。
網野神社の旧社地はその網野銚子山古墳のすぐ南側にあった、やはり古代遺跡と密接に関係している。

現在のご祭神は、日子坐王・住吉大神・水江浦嶋子神となっている。
創建は不明、丹波を開拓したと言われる丹波道主命(四道将軍のひとり、父が日子坐王)と関係がありそうだ。
日本書紀と古事記で異なるが、この親子(日子坐王と丹波道主命)がこの地域の発展に貢献したことは間違いなさそうだ。
元々、現在のご祭神である3柱の神々は別に祀られており、現在の社地には享徳元年(1452年)に遷座、その際にほか二社(住吉大神・水江浦嶋子神)と合併とある。
たぶん、その頃には潟湖を埋め立てたか海岸線が後退していたのだろうと想像できる。

網野神社へのアプローチは、有名な神社なので迷うことは無いと思うが駐車場の入口が分かりにくい。
国道178号線の御陵交差点を直進し京都府道665号浜詰網野線に入る。
京都府道665号浜詰網野線は350メートルほどで道なりに左(北西)に曲がり、さらに180メートルほどで網野神社の参道のある交差点となる。
この交差点を右斜(北)に入ると正面に網野神社の鳥居が見える。
鳥居の前を右(東)へ入り50メートルほどで次の交差点の手前左(北)に未舗装の駐車場への入口がある。
この駐車場の入り口が少々分かりにくいが駐車場完備なのはありがたい。

網野神社自体は南を向いていて、周囲は町中らしく人家となっている。
入り口には、真新しい石灯籠・社標・鳥居(国指定登録有形文化財)があり、キッチリした石畳が社殿まで続いているのが見える。
しばらく石畳を進むと左手に立派な会館・社務所、右手に駐車スペース奥に蠶織神社がある。

正面に見える昭和4年(1929年)建築の拝殿(国指定登録有形文化財)は端正な屋根のシルエットが美しい。
白く見える屋根は平成20年(2008年)の修理でチタン葺きに改修されたそうだ。
拝殿後ろの大正11年(1922年)建築の本殿(国指定登録有形文化財)は残念ながら垣に囲まれ近づくことができない。
本殿も拝殿と同じく白く見えるチタン葺きの屋根を持っている、非常に状態は良いように見える。
拝殿の左側には神饌所(国指定登録有形文化財)が付属した形式となっている。
本殿の後ろ側の小高い丘の上には愛宕神社が鎮座している。

拝殿の右手にある蠶織神社の社殿(国指定登録有形文化財)は天明2年(1782年)の建築で非常に状態が良い。
蠶織神社は養蚕関係者により大正14年(1925年)に創建された新しい神社。
ご祭神は、天照大神・天棚機姫大神・和久産巣日神・大宜津比売神を祀る。
創建の際に、小金神社・大日霎神社を合祀している。
それぞれのご祭神は、
小金神社 :金山彦命・高靇神
大日霎神社:大日霎神・若宇賀之女命(豊受大神と同神)
となっており、非常に興味深い。
古くより金山彦命を祀っていたことを考えると当然のことながら鉱物と関係がありそうだ。
また、若宇賀之女命(豊受大神と同神)とあるので、丹後特有の天女伝説の豊宇賀能売神と同一と思える。
こうした非常に重要なご祭神が合祀で見えなくなっているのは少し残念な気もする。
だが、かなり詳細に記録が残っているのと、社域に詳しい説明書が多く、大いに想像力を掻き立てられ刺激されるのがうれしい。
社域は広く手入れが行き届いていて非常に気持ち良く参拝できる。

網野のエキスがすべて詰まった神社。

注意点

駐車場入り口が分かりにくいので注意。

訪問ノート

訪問日 :2019/1/20
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3