264-100_芹田神社

比定社:芹田神社

式内社コード:264-100
神名帳社名 :芹田神社、セリタノ
社    格:小
所 在 地 :669-3645 兵庫県丹波市氷上町鴨内37
Plus Code  :62FW+W5 丹波市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

鴨内集落の西の端の山裾に鎮座。
周囲は、ほぼ山林と田畑で人家はない。
兵庫県道282号沼市島線より西へ1本入った道沿いに神社入口がある。
かつて神社の前を走る兵庫県道282号沼市島線は東へ行くと山を挟んで反対側の上鴨阪と通じていたのだろうと思われる。
クルマは神社の鳥居前に駐車可能。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境3】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

非常に雰囲気の良い参道。
本殿の中井権次一統による彫り物。

写真

芹田神社の入口を望む。兵庫県道282号沼市島線より西へ1本入った道沿いに神社入口がある。
芹田神社の入口を望む。兵庫県道282号沼市島線より西へ1本入った道沿いに神社入口がある。
一の鳥居を望む。ここから気持ちの良い参道が続く。
一の鳥居を望む。ここから気持ちの良い参道が続く。
二の鳥居を望む。二の鳥居は両部鳥居となっており重厚な雰囲気、左手には稲荷がある。
二の鳥居を望む。二の鳥居は両部鳥居となっており重厚な雰囲気、左手には稲荷がある。
社標には式内とある。
社標には式内とある。
二の鳥居をくぐると拝殿まで雰囲気の良い参道が続く。
二の鳥居をくぐると拝殿まで雰囲気の良い参道が続く。
拝殿は割拝殿のように左右に別れ真ん中に通路がある。
拝殿は割拝殿のように左右に別れ真ん中に通路がある。
拝殿を左から望む。拝殿というのが正しいのか、舞殿なのか、参集殿なのか、山門なのか、よく分からない。
拝殿を左から望む。拝殿というのが正しいのか、舞殿なのか、参集殿なのか、山門なのか、よく分からない。
割拝殿の中にある由来。現在地の事の始まりが書いてある。ここに出てくる宮の谷は本殿の後ろ側の地のことをさすようだ。
割拝殿の中にある由来。現在地の事の始まりが書いてある。ここに出てくる宮の谷は本殿の後ろ側の地のことをさすようだ。
同じく割拝殿の中にある熊野大権現の扁額。扁額がここにあるということは現在は社殿が無いということだろうか。
同じく割拝殿の中にある熊野大権現の扁額。扁額がここにあるということは現在は社殿が無いということだろうか。
覆屋に入った本殿を望む。割拝殿よりも1段高いところにある。
覆屋に入った本殿を望む。割拝殿よりも1段高いところにある。
本殿の右脇にはかなりの巨木がある。
本殿の右脇にはかなりの巨木がある。
本殿を左側より望む。かなり大きく立派な本殿。現在の社殿は元禄年間(1688年~1704年)の造営と思われる。
本殿を左側より望む。かなり大きく立派な本殿。現在の社殿は元禄年間(1688年~1704年)の造営と思われる。
本殿の扁額には芹田神社神社とある。熊野社はどこにあるのだろう?
本殿の扁額には芹田神社神社とある。熊野社はどこにあるのだろう?
本殿の彫り物は中井権次一統の作。多分明治期の修復の際に作られたのではないかと見られている。
本殿の彫り物は中井権次一統の作。多分明治期の修復の際に作られたのではないかと見られている。
本殿を磨い側より望む。覆屋も本殿もなかなか立派で状態も良い。
本殿を磨い側より望む。覆屋も本殿もなかなか立派で状態も良い。
本殿覆屋内にある「延喜式内社沿革記」。セドの宮より慶長八年宮の谷の熊野神社境内に遷座するとある。
本殿覆屋内にある「延喜式内社沿革記」。セドの宮より慶長八年宮の谷の熊野神社境内に遷座するとある。
ご祭神は高雄神尊、それに加えて金山彦神とある。ここは大きなポイントかも知れない。
ご祭神は高雄神尊、それに加えて金山彦神とある。ここは大きなポイントかも知れない。
本殿左脇に「宮の谷」と書かれた看板を発見。この地が宮の谷といい元々あった熊野社境内に芹田神社が遷座してきたということらしい。だが熊野社はどこかへ行ってしまったようだ。
本殿左脇に「宮の谷」と書かれた看板を発見。この地が宮の谷といい元々あった熊野社境内に芹田神社が遷座してきたということらしい。だが熊野社はどこかへ行ってしまったようだ。
本殿前には「熊野大権現」とある石灯籠があるので、熊野社があったことは間違いない。
本殿前には「熊野大権現」とある石灯籠があるので、熊野社があったことは間違いない。
こちらの石灯籠には「蔵王大権現」とある。修験道の影響を強く受けていたようだ。
こちらの石灯籠には「蔵王大権現」とある。修験道の影響を強く受けていたようだ。

感想

由緒書によると

延喜式内芹田神社由来の記
 時維元禄の頃、この辺を豊岡県丹州由良村の鴨内村と呼んでいた。当所初代の庄屋を六兵衛という人が務めた、その頃由良(今の北由良)に別所豊後守と言う士族あり一円を治めた。
 偶々元禄十三年元旦のこと、早朝降り積もった大雪の中を白馬に跨り六兵衛を尋ねられて「この村に熊野大権現をお祀りしているか、実は昨夜夢枕に立たれ『この村に社を建て祀って呉れ』とのお告げがあった」と申された、そこで六兵衛は「社祠はないが手洗鉢所に大きな石を立てて熊野三社大権現様と村人が崇拝しております」と申し上げた。早速豊後守は六兵衛を連れて山を上って見ると不思議にも一ケ所だけ雪がなく地面が露出していたのであった。
 豊後守は「ここだ、此處が神のお告げの所である」と言って六兵衛に神殿の建立を強く要請されて帰られたのであった。
 六兵衛は早速村人を集めて相談し神殿の造成に取り掛かった。当時としては多くの資財と人力を費やしての大事業である。六兵衛自らは周辺の所有する山林七尾七谷(約三町歩)を寄進したのである。これが今の本社殿と宮の谷風致林である。
 本社殿の造成と共に蔵王権現、御神木(天照皇大神)、瀬戸宮、八坂宮、貴船宮、御霊宮、山の神、天王宮(牛馬の神)、正一位稲荷大明神を合祀された。
別に秋葉山社、大峰山社は、芦田宗左衛門氏が祭祀された。本社殿の完成は元禄十五年と本社殿棟札に残っている。
平成二年十月吉辰
※補足:元禄十五年=西暦1702年

とある。

神社謹製説明書によると

芹田神社祭神 高雄神尊(たかおかみのみこと)
淤加美神(おかみのかみ)、高靇神(たかおかみのかみ)、闇淤加美神(くらずかみのかみ)と申し上げる。
「古事記」に、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、御佩せる十拳剣(とつかのつるぎ)抜きて、その子迦具土の頚を斬り給ひたる時、御刀(みはかし)の手上に集まれる血、手俣(たなまた)より湧き出でて、成れる神の名は、「闇淤加美神(くらずかみのかみ)」淤加美は古来より雨を司る龍神として信仰されている
「日本書紀」の一書に、高靇神(たかおかみのかみ)という神がある、靇は龍神で祈雨(こいあめ)、止雨(とめあめ)を司る神として進行がある

延喜式内社沿革記
氷上郡には延喜式内社が十七社あり延喜式は醍醐天皇延喜五年秋八月より左大臣藤原時平勅を奉じて撰するところにして延長五年十二月二六日に成る。鴨内の西南にセドの宮と称する大森あり荒廃により慶長八年宮の谷の熊野神社境内に遷座す丹波誌に芹田大明神式内名神と記さる。
※補足:慶長八年=西暦1603年

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る。
ご祭神は、高雄神命。
延喜5年(905年)勧請。
中古兵乱で荒廃、今の地に遷座。
元禄15年(1702年)造営。
明治6年(1873年)村社、熊野神社を芹田神社と改称。
江戸時代までは「熊野権現社」と呼ばれていた。
一説、元は鹿場村に鎮座。
一説、元は西南にセドの宮と稱する大森に鎮座。

とある。

結局、由緒はハッキリと分からない。
由緒書より分かっているのは、
 元々は鴨内の西南にセドの宮に鎮座
 慶長8年(1603年)に宮の谷の熊野社境内に遷座
 現在の社殿は元禄15年(1702年)の造営
 芹田神社祭神は、高雄神尊
 本殿覆屋の中には祭神が金山彦神という記述もある(どこのご祭神なのかが不明)
といったところだろうか(諸説あるようだ)。

本殿の後方に宮の谷という看板があるので、宮の谷とはこの谷のようだ。
宮の谷がココという事であれば、元々ここに熊野社があって、後から芹田神社がこの場所に遷座してきたということになる。
ただ熊野社が見当たらず、どの社なのかハッキリと分からないのが気にかかる。
それとも熊野社の社殿を使ったということなのだろうか。

社殿は階段を登ったところが割拝殿のような形式で、その1段上に本殿があるという構成。
覆屋に入った本殿は大きくて立派、状態も良い、元禄15年(1702年)の造営とある。
また本殿正面には中井権次一統の彫り物が施されている。

細かい由緒なり遷座の記録はハッキリしないし、熊野社の所在もよく分からない。
また覆屋の中には御祭神が金山彦神とも書かれていて鉄をはじめとする鉱物資源との関係もあるのかもしれない。
謎が多い神社ではある。

社域はよく手入れされていて、非常に雰囲気が良い、気持ちよく参拝できる。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日:2018/7/21
交通手段:クルマで訪問
カメラ:RX100