270-020_奈具神社(弥栄町船木)

比定社:奈具神社(弥栄町船木)

式内社コード:270-020
神名帳社名 :奈具神社、ナクノ
社    格:小
所 在 地 :627-0143 京都府京丹後市弥栄町船木奈具273
Plus Code  :M4C3+94 京丹後市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「なぐじんじゃ」と読む、地名の船木は「ふなき」と読む。
船木集落の西の山裾に鎮座。
国道482号線に小さいが案内看板があるので東へ入って700メートルほどで道路沿いに鳥居が見えてくる。
神社に入るには獣よけの電撃柵を開けて入る(開けたら閉めること)。
神社前に2~3台の駐車スペースがある。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境3】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

古代から開けていた周辺の地域特性。
溝谷神社との位置関係。

国指定重要文化財(美術品)

京都府奈具岡遺跡出土品
時代:弥生
文化庁解説:
本件は、京都府奈具岡遺跡から出土した弥生時代中期の玉作【たまつくり】関係資料である。遺跡は、京都府竹野郡弥栄町溝谷小字奈具岡に所在する。この地は、丹後半島を北流する竹野川によって形成された狭い盆地の東側、細かな尾根が複雑に入り組んだ丘陵地である。遺跡は、奈具谷と呼ばれる小谷の源頭部を取り巻く斜面および尾根上に広がっていた。
 調査は昭和五十六年から平成十年まで、この地域一帯で計画された国営農地開発事業に先立って断続的に実施され、弥生時代から古墳時代の遺構・遺物が発見された。本件は、これら調査のうち、尾根を挟んで展開した二つの地点(第四次=調査面積約四〇〇〇平方メートル、第七・八次調査=調査面積約二一〇〇平方メートル)で出土した玉作関係の資料である。検出された遺構には七四基の建物跡があり、概ね斜面の上方に所在する建物跡では玉作関係遺物が少なく(居住域)、斜面の下方、尾根裾を取り巻くように所在する遺構(工房域=標高三三~三八メートル)から玉作関係の遺物が多く出土する傾向がとらえられた。
 本件は、これらの玉作工房跡およびその周辺から出土した石器・石製品六九六点、ガラス製品七二点、鉄製品二〇四点、土器・土製品四〇点で構成される。資料は、第四次調査出土品と第七・八次調査出土品でその内容に違いがある。前者は、碧玉【へきぎょく】(緑色【りょくしょく】凝灰岩)管玉【くだたま】を主とした未製品に、安山岩、瑪瑙【めのう】製の微細な石針【せきしん】、筋砥石【すじといし】、石鋸【いしのこ】等で構成される。管玉の未製品は、原石、荒割【あらわり】、形割【かたわり】、研磨、穿孔の各工程を網羅する。後者では、これらに加えて、より多くの水晶を素材とした玉類未製品が出土し、その中にはわずかではあるが、完成品に近い棗玉【なつめだま】、勾玉【まがたま】、算盤玉【そろばんたま】も含まれている。さらに注目されるのはガラス玉未製品の存在と、袋状鉄斧【てつぶ】や鉄鏃【てつぞく】、穿孔用の錐【きり】と考えられる微細な鉄製品、さらに鞴羽口【ふいごはぐち】の存在である。これらは、本遺跡が石製の玉作に加えて、ガラス製品の製作や小規模な玉作用具の鍛冶工房の存在もうかがえる多彩な工房集落であったことを示している。
 以上本件は、弥生時代中期における碧玉、水晶に加えて、ガラス玉の製作にかかる玉作関係資料として内容が豊富であるとともに、鉄製品製作に関わる資料も含む希有なものであり、その学術的価値は高い。
石器・石製品・土器・ガラス製品等・鉄製品等・土製品

写真

奈具神社を正面より望む。鳥居の右側に3台ほど駐車できるスペースがある。
奈具神社を正面より望む。鳥居の右側に3台ほど駐車できるスペースがある。
一の鳥居をくぐり石段の手前に獣よけの電撃柵があるので開いて入らせていただく。電撃柵は開けたら必ず閉めること。ビリビリしないように注意。
一の鳥居をくぐり石段の手前に獣よけの電撃柵があるので開いて入らせていただく。電撃柵は開けたら必ず閉めること。ビリビリしないように注意。
京丹後市教育委員会謹製の「丹後国風土記」と奈具神社の解説。天女は、荒塩から哭木村を経て奈具の村にたどり着いたとあり、この天女こそ豊宇賀能売命(豊受大神)だとある。元伊勢(元外宮)の根拠となる記述。
京丹後市教育委員会謹製の「丹後国風土記」と奈具神社の解説。天女は、荒塩から哭木村を経て奈具の村にたどり着いたとあり、この天女こそ豊宇賀能売命(豊受大神)だとある。元伊勢(元外宮)の根拠となる記述。
石段を登ると二の鳥居。二の鳥居は両部鳥居となっている。
石段を登ると二の鳥居。二の鳥居は両部鳥居となっている。
二の鳥居(両部鳥居)に掲げられた扁額には延喜式内とある。
二の鳥居(両部鳥居)に掲げられた扁額には延喜式内とある。
さらに石段を上がると正面に社殿がある。左右に摂社末社。
さらに石段を上がると正面に社殿がある。左右に摂社末社。
石段を登ってくるとこのように拝殿の前に出る。
社殿を右側より望む。拝殿と一体化した本殿の覆屋で構成されている。
社殿を右側より望む。拝殿と一体化した本殿の覆屋で構成されている。
社殿を左側より望む。社域は広くない、必要最小限という感じ。
社殿を左側より望む。社域は広くない、必要最小限という感じ。
延享2年(1745年)とある石灯籠。嘉吉3年(1443年)の大洪水の後に設置されたものだろう。
延享2年(1745年)とある石灯籠。嘉吉3年(1443年)の大洪水の後に設置されたものだろう。
この石灯籠にも延享2年(1745年)とある。
この石灯籠にも延享2年(1745年)とある。
拝殿より二の鳥居を望む。
拝殿より二の鳥居を望む。
周囲は山林と田畑。向こうの丘には奈具岡遺跡があり古代の丹後の最先端地域だ。
周囲は山林と田畑。向こうの丘には奈具岡遺跡があり古代の丹後の最先端地域だ。

感想

京丹後市教育委員会謹製の「丹後国風土記」と奈具神社によると

 奈良時代に編纂された「丹後国風土記」は、後の時代になってほかの書物に引用された文章(逸文)が伝わっています。そのひとつに「奈具社」があります。その内容は次の通りです。
 丹波の郡比治(ひじ)の里の比治山頂にある真名井(まない)に天女八人が降り立ち水浴をしました。その姿を見た和奈佐(わなさ)の老夫婦は、天女の衣装をひとつ隠しました。一人の天女は衣装がないため天に上がれなくなり、和奈佐夫婦の子となりました。そこで天女は、万病に効く善い酒を作り、そのおかげで老夫婦の家は豊かになりました。
 しかし豊かになった老夫婦は、天女に対してわが子ではないから早く出て行けと言い、天女を追い出してしまいました。
 天女は嘆き悲しみ
  天の原ふりさけみれば霞立ち
   家路まどいて行方しらずも
という和歌を一首詠みました。
 天女は、荒塩(あらしお、京丹後市峰山町久次)から丹波の里哭木村(なきき、京丹後市峰山町内記)を経て、竹野郡船木里奈具の村(京丹後市弥栄町船木)へと移り、「なぐしく成りぬ(心が安らかになりました)」とこの地にとどまりました。この羽衣天女こそ、名具社(奈具神社)に祀られた豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)とされています。
京丹後市教育委員会

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、豊宇賀能売神。
嘉吉3年(1443年)大洪水で流亡、溝谷神社の相殿に合祀。
享保4年(1719年)造営。
寛政5年(1793年)造営。
明治4年(1871年)村社。
明治6年(1873年)元の船木村に遷宮。
明治44年(1911年)神饌幣帛料供進神社指定。

江戸時代までは「奈具大明神」と呼ばれていた。

「丹後国風土記逸文」に記載されている「奈具社」
八人の天女が比治山の上にある、真奈井の池で身を清めていたという、この地に住む和奈佐(わなさ)と言う老夫婦が、丁度行き合わせ、そっと一人の天女の羽衣を隠してしまった。
羽衣のある者は天に戻ってしまったが、残された天女は、水に身を隠していた。老夫婦は天女に向かい「私たちには子供がない、どうか私達の子供になって下さい」と頼んだ。
天女は「私一人、下界に取り残されてしまいました、この上は、お言葉に従います」と言い、それから10年ばかり一緒に暮らした。
この天女は、万病に効くという酒を造り、そのことにより老夫婦は大そう金持ちになった。
 ある日、突然、天女に向かって「お前は、わしらの子ではない、家を出て行け」と言う、天女は「自分から望んで、子供になったわけではない、頼まれて子になった、なぜ、今になってその様なことを言うのか」と言ったが、許してくれない。
嘆き悲しみ、家を出てさ迷い歩き、竹野郡舟木の里の奈具の村に来て「やっと私の心は、なぐしく(おだやかに)なりました。」と言いとどまった。
この天女が「奈具神社」に祭られている豊宇賀能売命であると言う。
もとあった奈具村、旧船木村は、嘉吉年間(1441年-1443年)の洪水で消失。
『止由気宮儀式帳』にある「比治真奈井」、『倭姫命世記』にある「与佐之小見比治之魚井原(与謝郡比冶山頂麻奈井原)」に比定される、候補地の一つとされる。元伊勢であり、外宮の元宮の論社の一つ。

とある。


奈具神社がある当地は、古代丹後での最先端地域のようだ。
谷を挟んだ500メートルほど南側には奈具岡遺跡がある。
奈具岡遺跡(弥生時代)からは驚くなかれ、石器・石製品・土製品・土器はもとより、ガラス製品や鉄製品も出土しており国指定重要文化財(美術品)となっている。
つまり、奈具神社のある周辺地域の船木(ふなき)や溝谷(みぞたに)は弥生時代からガラス製品を作っていた地域。
鉄製品については製鉄ではなく輸入材を加工していたとみられる。

ご祭神は、豊宇賀能売命。
天女伝説に出てくる八人の天女のうちの一人とされ、この天女が豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)、現在神宮の外宮に鎮座する豊受大神だということだ。
この天女伝説の天女は伝説の通り比治から彷徨い歩いて、最後は最先端地域で栄えていた船木の氏族に保護され残りの生涯をここで過ごしたのだろうか、と想像が膨らみ楽しい。

奈具神社は、元伊勢のひとつとされている神社。
元伊勢とは、現在の神宮(伊勢神宮の内宮・外宮)の神様が元々鎮座されていたとされる場所のこと。
元伊勢と言っても、天照大御神(現在の神宮内宮)と豊受大御神(現在の神宮外宮)のふたつがある。
それぞれ遷宮した時代が異なり、天照大御神は第10代崇神天皇の時代、豊受大御神は第21代雄略天皇の時代となる。
さらに遷幸、つまり移動を続けたので、それぞれの地に留まったということもある。

もともと豊受大御神を祀っていた比治真奈井(元伊勢・元外宮)はどの神社なのか、というのは諸説ある。
一般的には、比沼麻奈為神社・藤社神社・奈具神社・眞名井神社(籠神社奥社)・豊受大神社の名が挙がっている。

奈具神社の創建は不明、元は舟木里奈具村という場所に鎮座していたようだが場所の特定はできていない。
嘉吉3年(1443年)の大洪水で奈具村全体が流され廃村になったようで、この時にご祭神は溝谷神社の相殿に移されていた。
社殿は大洪水の後、現在の社地に再建され享保4年(1719年)と寛政5年(1793年)の棟札が残る。
江戸時代までは奈具大明神と呼ばれていたようだ。
その後、明治6年(1873年)に元の船木村に遷座し現在に至っている。
ということは、大洪水の後に社殿を再建はしたがご祭神は不在だったということなのだろうか、ちょっと気になるところだ。

奈具神社へのアプローチは比較的分かりやすい。
国道482号線に小さい案内看板があるが見落としてしまいそうだ。
国道482号線から東へ入って700メートルほどで道路沿いに鳥居が見えてくる。
ありがたいことに神社前に2~3台の駐車スペースがある。

奈具神社に入るには獣よけの電撃柵を開けて入る(開けたら必ず閉めること)。
ビリビリしないように慎重に扱う必要がある。

一の鳥居をくぐり石段を登ると二の鳥居(両部鳥居)がある、さらに石段を登ると社殿のある場所に出る。
社殿は拝殿と覆屋が一体になったような形式となっていて左右に摂社末社がある
残念ながら覆屋内部の本殿は見ることができない。
寛政5年(1793年)の建築とあるが風雪で色あせてはいるが状態は良い。
社域は広くない、必要最小限というところだろうか、一般的な村の外れにある古びた小さなお社のような感じ。

しかし、この小さな奈具神社が元伊勢(元外宮)のひとつとなっていることや、式内社であるということにビックリする。
だけど長い時間の経過で、神社自体の栄枯盛衰、さらには地形や災害状況、権力者の加護の変化等々で神社の置かれた環境は変化するものだ。
逆に考えれば1000年以上前、いや2000年も前のお話と繋がる、というのが奇跡なのだろうと思う。
大きく豪華にならなくても良いのできちんと保存してほしい神社だと思う。

古代丹後の最先端地域に鎮座する元伊勢(外宮)のひとつの神社。

注意点

獣よけの電撃柵は開けたら必ず閉めること。

訪問ノート

訪問日 :2018/8/29
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100