270-030_溝谷神社

比定社:溝谷神社

式内社コード:270-030
神名帳社名 :溝谷神社、ミソタニノ
社    格:小
所 在 地 :627-0111 京都府京丹後市弥栄町溝谷46-2
Plus Code  :M446+5G 京丹後市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「みぞたにじんじゃ」と読む、地名の溝谷は「みぞたに」と読む。
溝谷の東に位置する外村集落の中心の南の山裾に鎮座。
京都府道53号網野岩滝線に参道橋という橋がかかっており案内の看板がある。
集落の中の狭い道を100メートルほど進むと社標がある。
さらに直進し石段の手前を右に入れば社務所があり駐車可能。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩3】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索3】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

三段の構成になっている立派な社域。

写真

溝谷神社を正面より望む。外村集落の中心にあり社標が立っている。社標には延喜式内とある。
溝谷神社を正面より望む。外村集落の中心にあり社標が立っている。
右側(西)を望む。周辺は人家と山林。
右側(西)を望む。周辺は人家と山林。
正面(北)を望む。100メートルほどで参道橋という橋があり参道が続いていたと思われる、橋を渡ると京都府道53号網野岩滝線で、かつての街道筋だと思われる。
正面(北)を望む。100メートルほどで参道橋という橋があり参道が続いていたと思われる、橋を渡ると京都府道53号網野岩滝線で、かつての街道筋だと思われる。
左側(東)を望む。
左側(東)を望む。
社標には式内社・神饌幣帛料供進神社とあるようだ。
社標には式内社・神饌幣帛料供進神社とあるようだ。
社標を通り過ぎると鳥居が見えてくる。
社標を通り過ぎると鳥居が見えてくる。
右手には社務所がある、ここにクルマを駐車させていただいた。
右手には社務所がある、ここにクルマを駐車させていただいた。
階段を登ると鳥居がある。
階段を登ると鳥居がある。
鳥居をくぐると山門。舞殿と参集殿が合体したような感じ。山門前の狛犬が大きく削られているのが気になる。
鳥居をくぐると山門。舞殿と参集殿が合体したような感じ。山門前の狛犬が大きく削られているのが気になる。
手水鉢。
手水鉢。
山門をくぐると広場があり正面に社殿へとつ続く石段がある。この石段は非常に滑りやすいので雨の日は特に注意。
山門をくぐると広場があり正面に社殿へとつ続く石段がある。この石段は非常に滑りやすいので雨の日は特に注意。
広場の右側には摂社末社と覆屋に入った鎌倉時代の石灯籠がある。
広場の右側には摂社末社と覆屋に入った鎌倉時代の石灯籠がある。
広場の左側には摂社末社と石碑。広場はかなり広い。
広場の左側には摂社末社と石碑。広場はかなり広い。
覆屋に入った鎌倉時代の石灯籠。鎌倉時代の石灯籠で京都府指定文化財、明智光秀が奉納したと伝わっている。光秀はわざわざ古い石灯籠を奉納したのだろうか。
覆屋に入った鎌倉時代の石灯籠。鎌倉時代の石灯籠で京都府指定文化財、明智光秀が奉納したと伝わっている。光秀はわざわざ古い石灯籠を奉納したのだろうか。
京丹後市教育委員会謹製の鎌倉時代の石灯籠の説明書き。
京丹後市教育委員会謹製の鎌倉時代の石灯籠の説明書き。
この広場には別に享和元年(1801年)の石灯籠もある。当社がこの地に古くからあるのは間違いない。
この広場には別に享和元年(1801年)の石灯籠もある。当社がこの地に古くからあるのは間違いない。
広場より非常に滑りやすい石段を登りきると社殿が見えてくる。渋い。
広場より非常に滑りやすい石段を登りきると社殿が見えてくる。渋い。
拝殿と覆屋に入った本殿を望む。覆屋が巨大で立派。
拝殿と覆屋に入った本殿を望む。覆屋が巨大で立派。
拝殿と覆屋に入った本殿を左側より望む。覆屋は横から入るいことができ本殿のまわりを1周回れる。
拝殿と覆屋に入った本殿を左側より望む。覆屋は横から入るいことができ本殿のまわりを1周回れる。
覆屋の右側の入り口より本殿を望む。
覆屋の右側の入り口より本殿を望む。
本殿を望む。明治2年(1869年)に再建されたとありきれいな状態。菊と五三の桐のご神紋がある。
本殿を望む。明治2年(1869年)に再建されたとありきれいな状態。菊と五三の桐のご神紋がある。
拝殿前より石段を望む。急な石段で非常に滑りやすい、特に雨の日は要注意。
拝殿前より石段を望む。急な石段で非常に滑りやすい、特に雨の日は要注意。
山門を広場側より望む。舞殿と参集殿が一緒になったような作り。
山門を広場側より望む。舞殿と参集殿が一緒になったような作り。

感想

由緒書はないので詳細不明。


京丹後市教育委員会謹製の石灯籠説明書によると

石灯籠 一基
一九七四年七月十二日 京都府指定文化財
鎌倉時代
総高二三八.五cm
 花崗岩(かこうがん)製。請花(うけはな)を伴う宝珠は大きく、笠(かさ)は蕨手(わらびて)を造りだす。火袋(ひぶくろ)には八本の柱・上下框(かまち)を彫り、四方に窓を透かし、他の四面に円相内に釈迦の種子(しゅし)を彫り表す。それらの上部に連子(れんし)、株には格狭間(こうざま)を彫る。中台(ちゅうだい)は八角で、八葉単弁彫。円筒形の竿の中央に三条の中節(なかふし)を浮き彫りにする。は近くの基礎の上部には十六弁の反花(かえりはな)を、株には格子間(こうざま)を彫る。
 銘文は無いが、丹後地方の石灯籠の中では形姿・彫技ともに優れたものである。

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、須佐之男命。
 また次の説もあるようだ。
 新羅大明神、『丹哥府志』
 新羅大明神・素盞鳴命『丹後旧事記』
 本來の祭神は豊加能売命ではなかつたか(糸井通浩氏)

崇神天皇の御代丹波道主命が創祀。
丹波道主命の子大矢田宿禰改築し新羅大明神と崇め奉る。
元慶元年(877年)従五位下『三代実録』。
永万元年(1165年)平重盛武運長久祈願のため再建。
天正年間(1573~1592年)織田信長社殿改築。
明智光秀花崗岩の石燈籠献納(重要文化財)。
文久3年(1863年)勅願により「夷狄退散天下泰平」の御祈祷。
明治2年(1869年)再建。
明治6年(1873年)村社。
明治40年(1907年)神饌幣帛料供進神社指定。

江戸時代までは「新羅大明神」と呼ばれていた。

相殿に延喜式内、奈具神社を祀る。
奈具神社は嘉吉3年(1443年)の大洪水で亡村以来奉祀されていたが、明治6年(1873年)6月、式内号及び靈石を船木奈具神社に移した。
元治元年(1864年)3月から5月まで、神事潔齋し尊体安全の御祈祷を執行し、同年6月御祓御供を局会所を通じて献上した。この年から毎年、天皇陛下の宝柞萬歳の御祈祷を仰せ出され、御撫物(オナレモノ)・御用札をお預かりし、御祈祷料として白銀三枚を拝受した。その後も毎年長期御祈祷を執行し、翌年3月17日当社より大麻及び御神供を献上し、同時に御撫物・御用札の交換を仰せ出された。式法行事ば明治3年(1870年)まで継続したが、明治4年(1871年)太政官布告発布と同時に廃止となつた。

とある。


溝谷神社は、奈具神社とは1.9kmほどの距離、奈具神社とは近いだけになにかと関係が深い。
当地は、古代丹後での最先端地域のようだ。
北西2kmほどには奈具岡遺跡がある。
奈具岡遺跡(弥生時代)からは驚くなかれ、石器・石製品・土製品・土器はもとより、ガラス製品や鉄製品も出土しており国指定重要文化財(美術品)となっている。
つまり、奈具神社のある周辺地域の船木(ふなき)や溝谷(みぞたに)は弥生時代からガラス製品を作っていた地域。
鉄製品については製鉄ではなく輸入材を加工していたとみられる。

奈具神社との関係としては、嘉吉3年(1443年)の大洪水により奈具村が流され廃村になった際に、奈具神社を溝谷神社の相殿に遷座したとある。
それ以降、明治6年(1873年)まで奈具神社は溝谷神社に相殿として祀られていた。

ご祭神は、須佐之男命。
須佐之男命が新羅国より帰朝した際に当地に祀られたというお話しが残っている。
このため新羅大明神と呼ばれていたのかもしれない。

また、丹後には当時丹後を治めていた平重盛の名が残ることがある。
当社にも平重盛が社殿を再建したとある。
さらに織田信長が社殿改築をし、明智光秀が石灯籠を奉納したというお話しも伝わっている。

溝谷神社へのアプローチは、京都府道53号網野岩滝線に参道橋という橋がかかっており案内の看板がある。
案内看板が小さいので見落としそうになるが、参道橋を南へ渡って集落の中の狭い道を100メートルほど進むと社標がある。
さらに直進し石段の手前の右に社務所があり駐車可能。

なかなか興味深い神社だと思う、由緒の中には超有名人が多数登場する。
丹波道主命が創建に関わるのも凄いが、その後の平重盛や織田信長、そして明智光秀が登場する。
なぜ高名な武将が尊崇するのだろうか、理由が気になるところ。
新羅大明神が大人気だったのか、あるいは戦に必要な何かをこの地域から供給していたのだろうか。

神社自体は北向きで社殿も北を向いている。
社域は三段で構成され、下から社務所・山門(割拝殿)・社殿となっており立派な社域を構成している。
山門は舞殿と参集殿を一緒にして中央に通路を通したような作りをしていて前に広場がある。
この広場に鎌倉時代の石灯籠がある(京都府指定文化財)、これが明智光秀が奉納した石灯籠だろうか。
明智光秀は新しく作ったのではなく鎌倉時代の石灯籠を奉納したのだろうか。

広場からさらに石段を登ると社殿がある、この石段はかなり滑るので注意が必要。
社殿は拝殿と巨大な覆屋に入った本殿で構成される。
覆屋は非常に凝った造りで大きく直接拝殿と連結されている。
明治2年(1869年)に再建とあるので比較的新しいと思われるが、全体的に風雪にさらされ色が抜けてしまっている。
覆屋内部の本殿は装飾が無くシンプル、比較的状態がよくきれいな状態だ。

古い由緒を持ち高名な武将と関係の深い神社。

注意点

集落の中の道は狭いので注意。
階段が滑るので雨の日は特に注意。

訪問ノート

訪問日 :2019/9/22
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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