比定社:大宮売神社(大宮賣神社)
式内社コード:269-010
神名帳社名 :大宮売神社 二座、オホミヤノメノ
社 格:名神大
所 在 地 :629-2503 京都府京丹後市大宮町周枳1020
Plus Code :H4R2+FP 京丹後市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
「おおみやめじんじゃ」と読む、地名の周枳は「すき」と読む。
周枳集落の中央の平地に鎮座。
京都府道656号間人大宮線沿いに一の鳥居と社標があり分かりやすい。
現在の参道は府道より150メートルほど続いており駐車場は参道の終わり神社前にある。
駐車場へは鳥居より北西へ200メートルほど進み東へ入ると行ける。
駐車場完備。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
古代丹後における中心地であったと思われる当社の立地。
丹後独特の長い参道。
国指定重要文化財(美術品)
石燈籠1基
時代:鎌倉
年代:徳治2
西暦:1307
文化庁解説:
「徳治二年〈丁/未〉三月七日大願主□□」の刻銘がある。
鎌倉時代の作品。
国指定重要文化財(美術品)
石燈籠1基
時代:鎌倉
年代:
西暦:
文化庁解説:
鎌倉時代の作品。
写真
感想
神社謹製の由緒書によると
延喜式内名神大 大宮売神社二座
祭神 大宮賣神(あめのうずめの神) 若宮賣神(とようけの神)
当宮の創立年代は、詳らかではない。境内から出土する多数の祭器 遺物により明らかな様に、神牡としての社ができる以前に、古代の政(まつりごと)がおこなわれていた地である。遠き弥生時代の頃には、既に人々のくらしがあり、祭祀、呪術的な力をもつ国の、祭政の中心地であつた。(境内全域京都府古代祭祀史跡指定)
六世紀の頃、大和王朝に統一された大宮売神は、宮中八神の一柱として、また造酒司(みきつかさ)の神に奉斉され、この神を祀る最も古い社である。
平城天皇、大同元年(八〇六)に大宮売神に神領二千五〇〇石、若宮売神に一五〇〇石の神封が充てられ、「三代実緑」貞観元年正月(八五九)の条に、大宮売神に従五位上の神階を綬位している。現存の小野道風書と伝える古額に正一位大宮売大明神、従一位若宮売大明神とあり、平安時代末頃には神階が昇叙されている。御神像二体は、平安初期の木彫である。
「丹後国田数帳」によると三十町五反十歩の神領があり、中世の頃祭儀は盛大を極め、鎌倉時代(徳治二年刻銘)に建立された、重要文化財指定の春日型石燈篭二基が献燈されている。
現在の忠霊社は旧本殿で元録八年の建築、町指定文化財となつている。
宵宮、例祭には古くから京都府無形民俗文化財の、笹ばやし、神楽、三番叟、太刀振りが奉納され、わざおぎの神、文化発展、子孫繁栄の守護神として、崇敬も篤く神威誠に顕著なものがある。
とある
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、大宮売神・若宮売神。
崇神天皇7年(BC91年、諸説あり)詔勅により大宮売神を祀る(修正)。
崇神天皇10年(BC88年、諸説あり)丹波道主命若宮売神(豊受神)を祀る(修正)。
大同元年(806年)神封七戸。
貞観元年(859年)從五位下。
正応元年(1288年)『丹後国田数帳』に神領三十町五反十歩。
徳治2年(1307年)在銘の春日型石燈籠(重文)。
元禄8年(1695年)造営。
明治6年(1873年)村社。
明治40年(1907年)神饌幣帛料供進社指定。
大正13年(1924年)府社。
昭和2年(1927年)奥丹後大震災により大破。
昭和5年(1930年)再建(追加)。
境内地は弥生時代後期~古墳時代前期の祭祀遺跡となっていて、出土品の石製模造品は儀式等で木枝に懸ける宗教的意味をもつたものである。
従って弥生時代後期には、すでにこの地で神祭りが行なわれていたものと考えられる。
境内全域が府の古代祭祀史跡に指定されている。
6世紀頃、大和朝廷に統一された大宮売神は宮中8柱の1柱として、また造酒司(みきつかさ)の神として奉斎されている。
また、当集落は周枳の里として大嘗祭の悠基、主基の斉田の古い土地だといわれている。
とある。
大宮売神社には弥生時代の遺跡があり、当地が古くから(少なくとも弥生時代)祭祀の場所であったようだ。
当地は、大和朝廷の力の及ぶはるか以前の弥生時代より有力な国家(国と呼ぶのが適切かどうか不明)があり、その政や祭祀が大宮売神社の場所で行われてきたという壮大な物語がある。
仮にこれを古代丹後王国と呼ぶとすれば、その中心地の一つであったのだろう。
古代の竹野川流域は、日本海側よりかなり奥まで(ひょっとしたら峰山あたり)潟湖が続いていたと思われる。
当地は、北の日本海側と水路で繋がり、南の加悦谷や東の阿蘇海周辺とは陸路で繋がる交通の要衝、丹後半島の「へそ」のような場所だと想像している(個人的見解です)。
大宮売神社のご祭神は、延喜式神名帳の丹後国・丹波郡に「大宮売神社 二座」とあるように大宮賣神(おおみやめのかみ)・若宮賣神(わかみやめのかみ)の2柱を祀る。
大宮賣神は宮中に祀られた神としても知られる、天鈿女命であるかどうかは諸説あるようだ。
若宮賣神については詳しいことは分からないようだ。
いずれにしても大和朝廷としては大宮売神社を重要な神社であると認識し、延喜式神名帳に記載し名神大の格を与えた。
それにはどういった理由があったのだろうか。
当地は、様々な分野の文化レベルが高く、例えば稲作や製鉄そして交易等々に秀でていたのだろうと思われる。
大陸からの文化も入りやすく、当時の最先端の文化を持っていた当地の神を大いに重要視したのだろうか。
中世の周枳郷は、平安時代末には社領を含めて弘誓院に施入された。
安元2年(1176年)八条院領目録に「弘誓院御庄ゝ」として「丹後国周枳」と見える。
また、承久4年(1222年)太政官牒に弘誓院領八ヵ所のひとつとして「壱処字周枳社在丹後国丹波郡大宮部大明神」と見える。
正応元年(1288年)、丹後国田数帳によれば中世の周枳郷の六四町四段二五〇歩のうちの約半分にあたる三〇町五段一〇歩が大宮売神社の神領だったようだ。
今では想像できないような広大な神領(領地)を有していたことが分かる。
大宮売神社へのアプローチは、京都府道656号間人大宮線沿いに一の鳥居と社標があり分かりやすい。
現在の参道は府道より150メートルほど北へ続いており、駐車場は参道の終わり神社前にある。
駐車場へは鳥居より北西へ府道を200メートルほど進み、東へ入ると行ける。
一の鳥居をくぐると未舗装の参道が150メートルほど続く、丹後ではこうした参道がよく残っていると思う。
二の鳥居前に通路があり左手に駐車場とトイレがある。
二の鳥居をくぐると広場があり、周辺にはたくさんの建物がある。
本殿の後ろには禁足の杜があり、その奥には何があるのかは不明だ。
現在の社殿は、昭和2年(1927)の北丹後地震により破損した後に昭和5年(1930年)に再建されたもの。
拝殿は大きく立派なもの、屋根の形と白壁のコントラストが美しい。
本殿は垣と覆いが付いていて見れないのが残念だ。
その代わりと言ってはなんだが、拝殿右手にある現在の忠霊社は旧本殿で元禄8年(1695年)の建築がよく残っている。社域は非常に手入れが行き届き気持ち良く参拝できる。
古代丹後王国の中心地でその神さまを祀った神社。
注意点
特になし。
訪問ノート
訪問日 :2019/5/5
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。