308-040_海神社(神戸市垂水区)

比定社:海神社(神戸市垂水区)

式内社コード:308-040
神名帳社名 :海神社 三座、タルミノ/アマノ
社    格:並名神大
所 在 地 :655-0028 兵庫県神戸市垂水区宮本町5‐1
Plus Code  :J3H3+HP 神戸市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「わたつみじんじゃ」と読む、地名の垂水区宮本町は「たるみくみやもとちょう」と読む。
JR垂水駅のすぐ南側、垂水港まで200メートルほどの国道2号線沿い北側に鎮座。
南100メートルほどのところに一の鳥居がある。
ありがたいことに社域に参拝用者駐車場完備。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境1】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通1】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索1】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

・H2:ハイライト
何と言っても明石海峡を押さえる立地
五色塚古墳との関係

写真

垂水漁港より一の鳥居を望む。かつては一の鳥居のすぐ前が海だったのだろう。一の鳥居より100メートルほどに国道2号線をはさんで二の鳥居がある。
垂水漁港より一の鳥居を望む。かつては一の鳥居のすぐ前が海だったのだろう。一の鳥居より100メートルほどに国道2号線をはさんで二の鳥居がある。
国道2号線沿いの二の鳥居より望む。
国道2号線沿いの二の鳥居より望む。
右側(東)を望む。この方向は国道2号線の大阪方面。周囲は住宅や商店となっている。
右側(東)を望む。この方向は国道2号線の大阪方面。周囲は住宅や商店となっている。
正面(南)を望む。100メートルほど先の一の鳥居が見える。明石海峡を睨むには絶好の立地、さらに山陽道が近くを走っていたはずだ。
正面(南)を望む。100メートルほど先の一の鳥居が見える。明石海峡を睨むには絶好の立地、さらに山陽道が近くを走っていたはずだ。
左側(西)を望む。こちらは国道2号線の明石方面となる。
左側(西)を望む。こちらは国道2号線の明石方面となる。
二の鳥居をくぐると社殿が見える。社殿までに石の垣がしつらえてある。
二の鳥居をくぐると社殿が見える。社殿までに石の垣がしつらえてある。
二の鳥居をくぐって左側を望む。駐車場の管理人さんの詰め所、参拝者は社域に駐車可能。大きな石灯籠には享和元年(1801年)とある。
二の鳥居をくぐって左側を望む。駐車場の管理人さんの詰め所、参拝者は社域に駐車可能。大きな石灯籠には享和元年(1801年)とある。
二の鳥居をくぐり右側には社務所がある。
二の鳥居をくぐり右側には社務所がある。
手水舎。
手水舎。
石の垣の内側より拝殿を望む。拝殿は立派で大きい。
石の垣の内側より拝殿を望む。拝殿は立派で大きい。
石の垣の内側の右側には会館がある。
石の垣の内側の右側には会館がある。
石の垣の内側の左側、奥にも建物がある。
石の垣の内側の左側、奥にも建物がある。
拝殿を正面より望む。非常に立派な作り。
拝殿を正面より望む。非常に立派な作り。
拝殿を右側より望む。
拝殿を右側より望む。
拝殿を左側より望む。
拝殿を左側より望む。
拝殿の扁額には海神社とある。
拝殿の扁額には海神社とある。
拝殿の後方には幣殿、その奥に本殿と続いている。本殿はさらに木の垣で囲まれていて残念ながら近づけない。
拝殿の後方には幣殿、その奥に本殿と続いている。本殿はさらに木の垣で囲まれていて残念ながら近づけない。
本殿を右側より望む。
本殿を右側より望む。
拝殿前より二の鳥居越しに一の鳥居を望む。かつては一の鳥居前がすぐ海で、二の鳥居前が山陽道だったのだろうか、想像が膨らむ。
拝殿前より二の鳥居越しに一の鳥居を望む。かつては一の鳥居前がすぐ海で、二の鳥居前が山陽道だったのだろうか、想像が膨らむ。

感想


海神社のWebサイトによると

由緒
 今から千八百年前くらいの昔、神功皇后(ジングウコウゴウ)が三韓よりの帰路、暴風雨のため、どうしても御座船を進めることができなくなりました。皇后御みずから綿津見三神をお祭りになり、御祈願されましたところ、たちどころに風波がおさまり御無事に都へ御還りになりました。その時神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに御社を建て、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります。
 この御神徳により、航海安全・漁業繁栄の神として仰がれることはいうまでもなく、さらに当地が海上陸上を問わず、古代交通の要地であったことから、交通安全の神としても仰がれております。
 又海は万物をはぐくまる所、綿津見大神の娘 豊玉姫尊(トヨタマヒメノミコト)は彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)に嫁がれて、皇室の親である鵜鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)をお産みになりました。そのとき大変安産であったところから、安産の神でもあり、彦火々出見尊は満珠干珠(みつたまひるたま)の霊力によって水をつかさどり、厄難を去る神であるところから、水産業・農業をはじめ水によって生計を立てる人の守護神であり、開運厄除の神でもあります。

歴史的背景
 当社周辺からは縄文・弥生時代の住居跡・土器などが発掘されており、古来より人々がこの地域で生活していたことがうかがえます。
 また、当社西方約550mの所には兵庫県下最大の前方後円墳である五色塚古墳があり、成立は二世紀末から五世紀初めとされ、瀬戸内海の海上航路の重要地である明石海峡大橋を望む高台に造られています。
 この墳丘を覆っていた茸石は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島から運んできたものであると云われている。このことから被葬者は、海事に従事していた人々を治め、この地域に勢力をもっていた豪族であったと思われ、この時代からすでに海運が活発に行われていたことがうかがえます。
 以上のことから海事に関係の深い人々がこの垂水の地には多く存在していたと思われ、航海術が未発達の当時、海上鎮護のため海大神を信奉する人々が社殿を設け祀っていたのが始まりではないかと考えられます。

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る。

ご祭神は、中津綿津見神、底津綿津見神、上津綿津見神、(配祀)大日霊貴尊。

大同元年(806年)神封十戸。
貞観元年(859年)正月従五位上。
天慶3年(940年)正五位下。
天正11年(1583年)12月21日豊臣秀吉寄進状。
万治3年(1660年)8月11日造営
貞享3年(1686年)明石藩主松平直明寄進状。
延享2年(1745年)8月9日造営。
明治4年(1871年)国幣中社。
明治30年(1897年)官幣中社。

江戸時代までは「垂水大明神」「日向大明神」と呼ばれていた。

神功皇后が三韓を征って還御の時、俄に暴風が起って危機に遭ったとき、皇后綿津見神三座を祭ったところ、風波忽に静まり、三神をこの地に祀った。
難波の海の防衛の歴史から見れば、その前線の拠点が明石海峡であることは一目瞭然であり、大和朝廷の海の守の神とされた歴史によるもの思われる。
5世紀後半に五色塚古墳を造ったとされる明石国造の祖先を祀った神社ではないかという説もある。

とある。


兵庫県神社庁によると。

主祭神:底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)
配祀神:中津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)、上津綿津見神(ウワツワタツミノカミ)、大日孁貴尊(オオヒルメムチノミコト)

祭記事:
 秋祭りの内、10月12日の神幸祭は海上渡御祭と呼ばれ、御神輿を御座船にお乗せして、お供の船数十隻が先導船(神戸港はしけ運送事業協同組合所属のタグボート)に導かれ、東は駒ヶ林沖、西は舞子沖まで海上のお渡りが執り行われている。

由緒:
 海上安全・生業繁栄・安産の守護神である海神社は、今から千数百年の昔、神功皇后が三韓よりの帰路、暴風怒涛のため、御船を進めることが出来なくなり、皇后自ら綿津見三神を祀り御祈祷したところ、たちまち風波は収まり、無事に都に帰られた。そのとき神功皇后が綿津見三神を祀った御神徳を仰いだのが、鎮座の由来である。『延書式』には、播磨の国の「名神大社」として記されている。
 航海安全・漁業繁栄の神として仰がれることはいうまでもなく、海は万物の育まる所であるので、子孫繁栄・子宝の神、また安産の神として仰がれている。
 海幸彦・山幸彦の神話に、山幸彦が綿積見大神の「満珠千珠」の霊力により繁栄したと述べられていることから、開運厄除・安産の神としても仰がれている。
 別名「衣財田大明神」とも言われていたことから、家業繁栄・商売繁盛・衣食住満足の神として広く崇敬されている。
 また、『万葉集』にも、その名が見える。近くには五色塚古墳・大歳山遺跡・舞子移情閣・明石海峡大橋がある。

とある。


海神社のある当地は、明石海峡を押さえる海の交通の要衝ということが最大の特徴ではないだろうか。
東へ行くにも西へ行くにも人力に頼っていた時代は明石海峡を通らないということは考えにくい。
とするとこの場所を押さえると舟運はもちろん陸上の交通をも押さえることが可能となってくるだろう。
古代山陽道は鉢伏山を北へ迂回するがこの近くを通っていたはずだ。
また五色塚古墳は西に760メートルほどの場所にある。
それだけに古くより開けた場所のようで周辺には次のような古墳・遺跡等がある。
狩口台きつね塚古墳、舞子古墳群、帝釈遺跡、西市ヶ坂群集墳、大歳山遺跡、投ヶ上銅鐸出土地、東田遺跡、舞子東石ヶ谷遺跡、舞子古墳群、舞子古墳群、舞子東市ヶ坂4号墳、舞子浜遺跡、舞子ヶ平古墳群、五色塚古墳、旧舞子病院内遺跡、垂水区№17遺跡、多聞古墳、高塚山古墳群、垂水区№28遺跡、垂水・日向遺跡、野田遺跡、転法輪寺境内遺跡、乙木町遺跡、狩口台遺跡、帝釈遺跡、舞子焼窯跡、清水が丘遺跡、明石藩舞子台場跡、五色塚(千壺)古墳・小壺古墳、明石藩舞子台場跡、転法輪寺の原生林(兵庫県考古博物館資料による)。

海神社のご祭神は、中津綿津見神、底津綿津見神、上津綿津見神、(配祀)大日霊貴尊となっている。
綿津見三神は住吉三神とともに伊邪那岐命から生まれた神々で海を司る神様と言われている。

海神社へのアプローチは非常に分かりやすい。
JR垂水駅・山陽垂水駅のすぐ南側に鎮座するのですぐに分かる。
すぐ南側は国道2号線で駅と国道に挟まれた社域となっている。
社域に管理人さんがいる駐車場があるので参拝者は行事が無い時は駐車可能となっている。
一の鳥居が南へ100メートルほどの国道2号線の南側にある、その先は垂水漁港だ。
かつては鳥居が砂浜に建っていて明石海峡やその先の淡路島を一望できたのだろうと想像できる。

現在の海神社の社域は、北側は垂水駅、南側は国道2号線に挟まれた場所となっている。
想像するにかつてはもっと広かったのではないだろうか、南側100メートルの場所にある一の鳥居はすぐ前が海だったのだろう。
現在の周囲は駅や商店や住宅に囲まれているが、かつては東西に古代山陽道が通り、すぐ前は明石海峡という交通の要衝で非常に重要な役割を果たしていたと思われる。
国道2号線に面した鳥居をくぐると広くはないが多くの建物がある社域になる。
鳥居の左側より車を乗り入れることができ参拝者は駐車可能となっているのがありがたい(管理人さんがいる)。
鳥居をくぐると享和元年とある立派な石灯籠がある。
右手に社務所、左手に手水舎があり、さらに垣を抜けると拝殿の前になる。
拝殿の右手にはコンクリート作りの立派な会館、左手奥にも建物がある。
拝殿は立派な建物で、その後方には幣殿と本殿と続いている。
幣殿から奥はさらに木の垣で囲まれて残念ながら本殿には近づくことはできない。
ちなみに本殿のすぐ後ろはJR垂水駅となっている。

現在からは想像できないが、大和朝廷にしてみれば西方面への防衛最前線であったことは間違いない。
このあたりは海路と陸路を押さえる要害となっており非常に重要な役割を持っていたと思われる。
きっと詳細は西に760メートルほどの場所にある五色塚古墳との関係が解明されるとより進むのではないだろうか。

非常に重要な陸海の防衛拠点に鎮座する神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2024/9/15
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7S3 + FE 20-70mm F4 G