比定社:日向大神宮
式内社コード:005-030
神名帳社名:日向神社、ヒムカヒノ
社格:小
所在地:607-8491 京都府京都市山科区日ノ岡一切経谷町29
plus code:2Q4W+F2 京都市、京都府
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アプローチ&ロケーション
ひむかいだいじんぐうと読む。
蹴上にある神明山の山腹に鎮座。
京都府道143号四ノ宮四ツ塚線(三条通)沿いに一の鳥居と石灯籠があり地下鉄蹴上駅からは分かりやすい。
一の鳥居より続く参道は350メートルほどありクルマでの通行は不可。
クルマでのアプローチは一の鳥居からではなく山科方面へ向いて京都府道143号四ノ宮四ツ塚線(三条通)より東山ドライブウェイへの分岐に入りすぐに鋭角に左折し細い道を住宅街を進む、最後に急坂を登ると駐車スペースがある。
当地は東海道に面しており、かつてはかなりの交通量があったと思われ非常に重要な地域だと思われる。
ハイライト
外宮と内宮に分かれた形式。
神明造りの本殿。
写真
感想
京都市謹製の由緒書によると
日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)
当神宮は、顕宗天皇の御代(四八五~四八七年)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の峯の神蹟を移して創建されたと伝えられています。
内宮(ないく)は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と宗像三女神(むなかたさんじょしん)を、外宮(げく)は天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほににぎのみこと)と天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をご祭神とし、境内各社には両宮との関係の深い神々が祀られています。
この「日の神」鎮座の神体山を、天智天皇は「日山(かみやま)」と名付けられ、後に日御山(ひのみやま)や神明山(しんめいやま)と称されています。
平安時代、貞観年間(八五九~八七七年頃)に疫病が流行した際、当神宮に勅願が行われ、お告げ通りに宮地の清泉の水を万民に与えたとところ、たちまちおさまったので、清和天皇は、この泉を「朝日泉」と名づけ、「日向宮」の勅願を賜いました。
応仁の乱の兵火で社殿や古記録は消失しましたが、松坂村の松井藤左衛門が仮宮を造営して社殿を再建し、慶長年間(一五九六~一六一五年頃)に伊勢出身の野呂宗光が霊夢に感じて再興しました。
かつては東海道中の安全祈願や伊勢神宮の代参として、大変にぎわいました。
京都市
とある
神社謹製の御祭神の説明書によると
日向大神宮御祭神
内宮(ないく、上ノ本宮)
天照大御神(アマテラスオオミカミ)
多紀理毘売命(タギリヒメノミコト)
市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)
多岐都比売命(タギツヒメノミコト)
外宮(げく、下ノ本宮)
天津彦火瓊々杵尊(アマツヒコホニニギノミコト)
天之御中主神(アメノミナカスヌノカミ)
祭儀
一月一日 若水祭
今年は二月二日 節分祭
十月十六日 外宮大祭
十月十七日 内宮大祭
※注記:今年=令和三年
とある
創建は由緒書よると顕宗天皇の御代(四八五~四八七年)とあるからかなり古いことになる。
地域的には東海道・東山道が前を通ることで古代から現在まで交通の要衝であることは間違いない。
特に平安京に遷都がなってからは京都の七口のひとつとして粟田口が機能しおおいに賑わったことが想像できる。
神宮(伊勢神宮)との関係は不明、ご祭神については内宮は天照大御神をお祀りしているが外宮は異なる。
社殿の構成としては非常に簡略化されたものだが神宮の構成となっている。
応仁の乱で焼失とあるが、それ以前はどのような形だったのだろう、気になるところだ。
京都府道143号四ノ宮四ツ塚線(三条通)沿いにある一の鳥居から続く参道は、比較的街に近いにもかかわらず深山幽谷の雰囲気がたっぷりと味わえる。
社域は明神山の西側に当たる、現在の社殿は南を向いているので元々は西を向いていたのかもしれない(現在の社域は参道から直角に曲がっている)。
現在の形とは大きく異なっていたはずだと思う。
社殿は社叢というよりも山そのもので谷筋に社殿が配置されている。
ぐるっと廻ることができ摂社末社が数多くある、天の岩戸と呼ばれる人為的に掘り抜かれた巨石もある。
紅葉の季節には美しい社域を楽しむことができる。
注意点
クルマでのアプローチは道が狭く急坂に注意。
訪問ノート
訪問日:2021/11/18
交通手段:クルマで訪問
カメラ:α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。