277-080_森神社(豊岡市竹野町)

比定社:森神社(豊岡市竹野町)

式内社コード:277-080
神名帳社名 :阿古谷神社、アコタニノ
社   格 :小
所 在 地 :669-6225 兵庫県豊岡市竹野町轟356-1
Plus Code  :JQC3+8F 豊岡市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「もりじんじゃ」と読む、地名の轟は「とどろき」と読む。
轟集落の南東の山裾の蓮華寺に隣接して小高い丘に鎮座。
兵庫県道1号日高竹野線に蓮華寺の案内看板があるので轟集落を東へ入る。
案内看板より入ると正面に石碑があり竹野町文化芸能伝承館の建物がある。
石碑を左に見ながら坂を登ると左側に階段があるが右側を登っていく。
突き当りが蓮華寺となる、左に駐車場の案内があるので鋭角に左へ進む。
進むと蓮華寺の駐車スペースがあるので利用させていただくのが良いだろう。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索4】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

森神社(豊岡市竹野町)と蓮華寺の密接な関係。

写真

森神社(豊岡市竹野町)の入り口を望む。社標には式内社・阿古谷神社・森神社とある。見えている建物は竹野町文化芸能伝承館、右手の坂を登っていくと蓮華寺があり、森神社もそこにある。
森神社(豊岡市竹野町)の入り口を望む。社標には式内社・阿古谷神社・森神社とある。見えている建物は竹野町文化芸能伝承館、右手の坂を登っていくと蓮華寺があり、森神社もそこにある。
正面(西)を望む。兵庫県道1号日高竹野線から入ってくるとこの方向より入ってくることになる。集落の中の道は非常に狭いので注意が必要だ。
正面(西)を望む。兵庫県道1号日高竹野線から入ってくるとこの方向より入ってくることになる。集落の中の道は非常に狭いので注意が必要だ。
左側(北)を望む。周囲は人家が多い。
左側(北)を望む。周囲は人家が多い。
社標の裏にある氏子中謹製の由緒書。土師部(阿古氏)の居住地であること、祭神は土師連祖吾笥命といわれていること、とある。
社標の裏にある氏子中謹製の由緒書。土師部(阿古氏)の居住地であること、祭神は土師連祖吾笥命といわれていること、とある。
竹野町文化芸能伝承館の横を登っていくと石段がある。
竹野町文化芸能伝承館の横を登っていくと石段がある。
石段を登ると蓮華寺の前に出る。ここにクルマを駐車させていただくのが良いだろう。記録を見る限り森神社(豊岡市竹野町)は蓮華寺の鎮守社であると思われる。手前に左から伸びる白い通路が森神社(豊岡市竹野町)の参道。
石段を登ると蓮華寺の前に出る。ここにクルマを駐車させていただくのが良いだろう。記録を見る限り森神社(豊岡市竹野町)は蓮華寺の鎮守社であると思われる。手前に左から伸びる白い通路が森神社(豊岡市竹野町)の参道。
森神社(豊岡市竹野町)の入り口は石灯籠があるのみで鳥居はここには無い。
森神社(豊岡市竹野町)の入り口は石灯籠があるのみで鳥居はここには無い。
石段には寛政5年(1794年)の石標がある。明治期の遷座の際にこうしたものも移築したのだろうと思われる、なかなか大変だ。
石段には寛政5年(1794年)の石標がある。明治期の遷座の際にこうしたものも移築したのだろうと思われる、なかなか大変だ。
石段は右へ曲がっており一の鳥居から三の鳥居まである。
石段は右へ曲がっており一の鳥居から三の鳥居まである。
一の鳥居より石段を望む。
一の鳥居より石段を望む。
二の鳥居を望む。
二の鳥居を望む。
石灯籠には寛保3年(1743年)とある。これらも遷座の際に移設されたものだろう。
石灯籠には寛保3年(1743年)とある。これらも遷座の際に移設されたものだろう。
二の鳥居には元文元年(1736年)とある。
二の鳥居には元文元年(1736年)とある。
三の鳥居を望む。
三の鳥居を望む。
三の鳥居の扁額には八幡宮とある。
三の鳥居の扁額には八幡宮とある。
三の鳥居をくぐると社殿がある。社殿は2つあり、右が森神社だが左は詳細不明だ。
三の鳥居をくぐると社殿がある。社殿は2つあり、右が森神社だが左は詳細不明だ。
手水舎。
手水舎。
社殿を正面より望む。
社殿を正面より望む。
右側を望む。尾根筋に作ってあり幅は狭い場所。
右側を望む。尾根筋に作ってあり幅は狭い場所。
左側を望む。
左側を望む。
社殿は2つ。右側が森神社だが左側は詳細不明。
社殿は2つ。右側が森神社だが左側は詳細不明。
社殿は拝殿と覆屋に入った本殿で構成される。
社殿は拝殿と覆屋に入った本殿で構成される。
拝殿の扁額には森大明神とある。
拝殿の扁額には森大明神とある。
拝殿内部を望む。非常にきれいに保たれていて気持ちよく参拝できる。
拝殿内部を望む。非常にきれいに保たれていて気持ちよく参拝できる。
拝殿より本殿を望む。大変立派な本殿、明治期の遷座の際に建築されたものだろうか、非常に状態は良いようだ。
拝殿より本殿を望む。大変立派な本殿、明治期の遷座の際に建築されたものだろうか、非常に状態は良いようだ。
拝殿より正面を望む。右にあるのは稲荷社。
拝殿より正面を望む。右にあるのは稲荷社。
三の鳥居越しに二の鳥居を望む。尾根筋に参道が作られているのがよく分かる。
三の鳥居越しに二の鳥居を望む。尾根筋に参道が作られているのがよく分かる。
二の鳥居より三の鳥居を望む。
石段を降りてくると蓮華寺。
石段を降りてくると蓮華寺。

感想

氏子中謹製の由緒書(石碑)によると

式内社阿古谷神社由来記

神社名の由来は土師部(阿古氏)の居住地たりしにより起これるものにして地名も阿古谷となる。創建時代は不詳なるも律令期以前より氏族信仰が行なわれ。祭神は土師連祖吾笥命といわれ延喜式の制小社に列し特選神名帳、神祇志にも書き上げらる。創建時は湯の森(轟)阿小谷の丘に鎮座、その地古木鬱蒼として荘厳を極めしかば村人は森の宮と尊称、いつしか森神社、森大明神と敬い祀る。後大山祇命、春日大明神を合祀延宝七年字森脇に本殿を再建、明治初年本殿以下を焼失、ために蓮華寺鎮守社に移転、神仏分離令により八幡大神と共に明治五年現在地に遷座。同六年村社に列せらる。創建より千数百年を歴し今日尚村人の崇敬篤く秋の例祭には神楽を奉納す。
昭和六十三年十月建之 氏子中

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、大山祇命・八幡大神。
 八幡大神は明治初期に合祀。
 また次の説もあるようだ。
  彦湯支命・土師連祖吾笥命『但馬故事記』

創立年代は不詳。
延宝7年(1679年)本殿再建。
明治元年(1868年)本殿以下が炎上、蓮華寺鎮守社に移転(修正)。
明治5年(1872年)八幡大神と共に現在地に遷座(追加)。
明治6年(1873年)村社。
大正12年(1923年)に神饌幣帛料供進神社指定。

鎮座地
 元は小字阿古谷口に鎮座、明治元年(1868年)に本殿以下が炎上したため現鎮座地に移転。

江戸時代までは「森大明神」と呼ばれていた。

この地は土師部(阿古氏)の居住地であつた。
律令期以前より、神祭りなどの氏族信仰が行なわれていたと推察される。
かつての鎮座地は、現鎮座地の北約400m、轟小学校の背後地(この地は小字阿古谷口)であった。
その地が古木鬱蒼として荘厳を極めたため、村人は当社を「森の宮」と尊称、いつしか森神社、森大明神と崇敬されるようになったという。
明治初年に本殿以下が炎上したため、現鎮座地に移転。

とある。


兵庫県神社庁によると

主祭神:大山祇命(オオヤマツミノミコト)
配祀神:八幡大神(ハチマンオオカミ)

 創立年月不詳にして初め轟字阿古谷の口に鎮座し其地古木欝蒼として荘厳を極めしかば士民自ら森の宮と尊称せり。
 延喜式の制小社に列し阿古谷神社と称す延宝7年(1679)本殿を再建し明治初年(1868)燈火より火を失して本殿以下を炎上す故に蓮花寺の守護社地へ移転し明治6年(1873)10月村社に列せらる。

とある。


森神社(豊岡市竹野町)のある当地は、竹野川流域の中間地点に当たる場所。
やはり古くより開けた場所で、森脇古墳・森脇A遺跡・森脇B遺跡・阿古谷横穴墓・美久仁城址・長方寺跡等が周囲にある(兵庫県考古博物館資料による)。
竹野川流域には一定間隔で式内社が並ぶ、海側の北から挙げると鷹野神社・森神社(豊岡市竹野町)・色来神社・(論)桑原神社がある。
竹野川流域の物流をはじめ様々な機能を持っていたに違いない。

森神社(豊岡市竹野町)の現在のご祭神は、大山祇命・八幡大神となっている。
他に資料に登場するだけでも、大山祇命・春日大明神・彦湯支命・土師連の祖である吾笥命の名前も見える。
氏子中謹製の由緒書によると、土師連の祖である吾笥命とある。
想像するに、最初は吾笥命だったのだろう、その後に様々な理由でご祭神が変化あるいは追加されたのではないだろうか(個人的見解です)。
元々は土師連を祀っていたのであれば土器と関係していたものと思われる。
この地で土器を生産していたのだろうか、それを竹野川で運んでいたのだろうか。
こうしたことを想像すると楽しい。

森神社(豊岡市竹野町)の遷座を整理してみると、最初の鎮座地→蓮華寺鎮守社→現在地、と2回遷座しているがいずれも明治になってからだ。
最初の鎮座地は、小学校の後背地で現鎮座地の北約400m、とあるのでそれほど遠い場所ではない。
この最初の鎮座地の小字名が阿古谷口で土師部(阿古氏)と関連があるということのようだ。

森神社(豊岡市竹野町)の創建は不明だが蓮華寺との関係は避けては通れないと思う。
蓮華寺は高野山真言宗・峰山(みねざん)蓮華寺が正式名称で、創建は慶雲4年(707年)行基が当山蓮華寺を開創した、とWebサイトにある。
鎌倉時代には南へ8.6kmほどの兵庫県道135号村岡竹野線沿いの竹野町門谷に仁王門、数十の門末坊舎が北は竹野・南は国道178号線沿いの江野・西は佐津谷・東は江野のすぐ東の伊賀谷あたりまで広がっていたということらしい。
このため「但馬高野」と称され、かなりの規模を誇ったとある。

神社と寺の関係は古くより深いものがあり、以下の2パターンが知られている。
・重要な神社のために寺院が創建された(神宮寺)
・重要な寺院のために神社が創建された(鎮守社)
森神社(豊岡市竹野町)と蓮華寺の関係は、記録を見る限り鎮守社だったのではないかと思われる。
こうした関係が現在まで残っているのが貴重だと思う。

森神社(豊岡市竹野町)へのアプローチは簡単で難しい。
おおまかな位置は単純で兵庫県道1号日高竹野線に蓮華寺の案内があるので轟集落を東へ入れば良い。
蓮華寺の案内がある交差点より入ると正面に石碑があり竹野町文化芸能伝承館の建物がある。
石碑とこの建物を見つけることができれば後は簡単だが、見つけることができず2度目でなんとか辿り着いた。
轟集落内の道路は狭小なのでクルマで走り回るのは難しい(大型車も苦しい)。
石碑を左に見ながら坂を登ると左側に階段があるが右側を登っていく。
突き当りが蓮華寺となる、左に駐車場の案内があるので鋭角に左へ進む。
進むと蓮華寺の駐車スペースがあるので利用させていただくのが良いだろう。

森神社(豊岡市竹野町)の入り口は蓮華寺の駐車場の石灯籠が一対ある場所。
鳥居はここには無いので見つけにくいかもしれない。
石段を登ると石段は右へ曲がり一の鳥居から二の鳥居そして三の鳥居をくぐると社殿のある場所に到着する。
石段は尾根筋に沿って作られていているのが分かる。
三の鳥居の扁額には八幡宮とあり、正面に拝殿と後方に覆屋に入った本殿が配置されている。
左側にはもうひとつの社殿があるが詳細は不明。
左手には稲荷社が鎮座する。
拝殿内部はきれいに整理されていて気持ちよく参拝できる。
拝殿から見える本殿は非常に立派で大きい、状態も良いようだ。

土師連を祀り蓮華寺の鎮守社として竹野川流域で発展した神社。

注意点

集落の中の道は非常に狭いので注意。

訪問ノート

訪問日 :2022/5/16
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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