268-140_(論)須津彦神社・268-210_(論)須津彦神社(宮津市須津)

比定社:(論)須津彦神社(宮津市須津)

式内社コード:268-140
神名帳社名 :阿知江𡶌部神社、アチヘイソヘノ
社    格:小
所 在 地 :629-2251 京都府宮津市須津1546
Plus Code  :G5X4+68 宮津市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

比定社:(論)須津彦神社(宮津市須津)

式内社コード:268-210
神名帳社名 :吾野神社、ワカノノ
社    格:小

アプローチ&ロケーション

「すづひこじんじゃ」と読む、地名の須津は「すづ」と読む。
須津の集落の中心の平地に鎮座。
京都府道・兵庫県道2号宮津養父線より吉津小学校前の交差点を南へ入る。
京都丹後鉄道宮豊線の踏切を渡り200メートルほどで到着。
駐車場は無いので注意。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

阿蘇海の方向を向いた社殿。

写真

須津彦神社を正面より望む。神社自体は北向き。
須津彦神社を正面より望む。神社自体は北向き。
右側(東)を望む。周辺は住宅地となっている。
右側(東)を望む。周辺は住宅地となっている。
左側(西)を望む。駐車場は無いので注意。
左側(西)を望む。駐車場は無いので注意。
鳥居脇にある社標。
鳥居脇にある社標。
手水舎。
手水舎。
鳥居をくぐると拝殿前は広場になっている。
鳥居をくぐると拝殿前は広場になっている。
広場の右手には石碑と倉庫がある。さらに右手には遊具があり公園になっている。
広場の右手には石碑と倉庫がある。さらに右手には遊具があり公園になっている。
広場の左手。
広場の左手。
拝殿を正面より望む。社叢には古木が多い。
拝殿を正面より望む。社叢には古木が多い。
拝殿を左側より望む。
拝殿を左側より望む。
拝殿内部の扁額には、須津彦大明神、須津姫大明神とあるようだ。
拝殿内部の扁額には、須津彦大明神、須津姫大明神とあるようだ。
拝殿内部は土間となっていてきれいに保たれている。
拝殿内部は土間となっていてきれいに保たれている。
拝殿内部にある神社謹製の由緒書。当初は王谷の地に創建、その後の大同二年に当地へ遷座とある。
拝殿内部にある神社謹製の由緒書。当初は王谷の地に創建、その後の大同二年に当地へ遷座とある。
本殿を正面より望む。現在の本殿はいつの時代の建築なのか不明だが状態は非常に良い。
本殿を正面より望む。現在の本殿はいつの時代の建築なのか不明だが状態は非常に良い。
本殿の扁額には須津彦神社・須津姫神社とある。社殿一つで2つの社を兼ねるようになっているようだ。
本殿の扁額には須津彦神社・須津姫神社とある。社殿一つで2つの社を兼ねるようになっているようだ。
本殿を右側より望む。本殿の床が非常に高くなっているのが分かる。
本殿を右側より望む。本殿の床が非常に高くなっているのが分かる。
本殿の床下には扉が設置されている。
本殿の床下には扉が設置されている。
本殿右側より拝殿を望む。
本殿右側より拝殿を望む。
拝殿より鳥居を望む。かつては神社の前まで阿蘇海が広がっていたと思われる。
拝殿より鳥居を望む。かつては神社の前まで阿蘇海が広がっていたと思われる。

感想

神社謹製の由緒書によると

須津彦神社
須津姫神社の由来
 当神社は、男神女神の二神をお祀りする稀な神社です
 須津彦神社は去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと、第十七代履中天皇・在位四二七~四三二年) 須津姫神社は久呂比売命(くろひめのみこと、履中天皇の皇后)を祭神としてお祀りしています
 王谷(大谷・此処から西へ一粁)の地に建立された当社は 大同二年(八〇七年)現在の吉里の地に遷座されて村人の氏神神社となり 嘉祥二年(かじょう、八九四年) 社殿を再建 その棟札に 須津彦・須津姫 として崇め奉ることが記されています
 延長五年(九二七年)に記された「延喜式」神名帳によれば 丹後国与謝郡の小社として阿知江𡶌部(あちえいそべ)の神社となったと記され これが須津彦神社と云われています

語り伝えられている神社創建の謂われ
 安康天皇(あんこう、第二十代・在位四五三~四五六年)の御代 雄略天皇(ゆうりゃく、第二十一代・在位四五六~四七九年)に父・市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ、履中天皇の子)を殺された弘計の命(をけのすめらのみこと、後の第二十三代顕宗天皇けんぞう・在位四八五~四八七年)は 兄・億計の命(おけのすめらのみこと、後の第二十四代仁賢天皇(にんけん・在位四八八~四九八年)と共に与謝郡のこの地に難を避けられました 二皇子は 身を隠された御所之内の地に假宮を造営され 是を 眞鈴宮と名付けられて住まわれました この時 祖父の去来穂別天皇と祖母の久呂比売命の御霊を王谷(大谷・東宮ケ谷)の地に鎮め祀られた と伝えられています
 当神社の境内には 摂社として弘計の命は西之荒神(大西大神) 億計の命は東之荒神(奥山大神)として祀られています
(参考文献)古事記(七一二年編) 日本書紀(七二〇年編) 吉津村誌 神社記録

とある。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、去来穗別尊・黒比売命。
由緒不詳
 王谷に建立(追加)。
 大同2年(807年)現在の吉里の地に遷座(追加)。
 嘉祥2年(849年)社殿を再建(追加)。

与謝郡式内社の阿知江磯部神社、あるいは吾野神社に比定する説もある。
また億計・弘計二皇子が難を避けた余社郡はこの地をさすという伝説もある。
拝殿額には「須津彦神社・須津姫神社」とある。

とある。

延喜式神名帳の丹後国・与謝郡の「阿知江𡶌部神社」の論社2社のうちの1つ。
延喜式神名帳の丹後国・与謝郡の「吾野神社」の論社2社のうちの1つでもある。

当地の須津は「すづ」と読むのが気になる。
「すづ」→「すず」→「鈴」と繋げると鉄に関係があるのではないだろうか(個人的見解です)。
※たたら製鉄以前の時代には、褐鉄鉱を「すず」と呼んでいた。
また、当地は億計王・弘計王が身を隠した先が与謝・明石・志染となっていてその中のひとつとされている。

当地を地図上で見てみると交通の要衝にあるのが分かる。
東西に宮津街道が走り、東に宮津・舞鶴、西に大宮とも繋がる、北は阿蘇海で海運があり国府も近い、南は加悦谷と繋がっている。
周辺には、倉梯山古墳・霧ヶ鼻古墳・柿ノ木古墳・才ノ木古墳・吉祥古墳・八幡古墳と多くの古墳が存在する。
古くより開けた土地なのだろう。

須津彦神社へのアプローチは、京都府道・兵庫県道2号宮津養父線より吉津小学校前の交差点を南へ入り200メートルほどで到着する。
途中で京都丹後鉄道宮豊線の踏切を渡り南下する、比較的見つけやすい場所にある。
須津集落の中はそれほど狭い道ではないが駐車場は無いので注意。

社域・社殿は北を向いており、前は阿蘇海、後ろは大師山となっている。
この大師山がミソだと思っている、例えば大師山で鉄が採れたとか(個人的見解です)。
加えて、かつてはすぐ前が阿蘇海だったのではないかと思う。

現在の社域は広くはないが、社叢には古木があり歴史を感じさせ古くからここに鎮座していたことが分かる。
社域の北西には児童公園もあり地域に溶け込んでいる。

社殿は拝殿と本殿で構成され、記録は無いが比較的新しいと思われる(たぶん昭和)。
拝殿の扁額には「須津彦大明神・須津姫大明神」と読める。
本殿は床が非常に高く背の高い建物となっていて床下の部分に入れるようになっている。
本殿の扁額には「須津彦神社・須津姫神社」とある。
社域には摂社末社も多くあり、いかにも古い狛犬なんかもある。

須津彦神社の祭礼では太刀振・獅子舞・笹ばやしが奉納される。

鉄の匂いが濃厚な男女神を祀る神社。

注意点

駐車場は無いので注意。

訪問ノート

訪問日 :2019/9/22
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3