313-010_伊和神社

比定社:伊和神社

式内社コード:313-010
神名帳社名 :伊和坐大名持御魂神社、イワノ-オホナモチミタマノ
社    格:名神大、播磨国一宮
所 在 地 :671-4133 兵庫県宍粟市一宮町須行名407
Plus Code  :3HQP+2H 宍粟市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「いわじんじゃ」と読む、地名の一宮町須行名は「いちのみやちょうすぎょうめ」と読む。
揖保川の東岸、国道29号線沿いの平地に鎮座。
国道29号線沿いに位置しているのですぐに分かる、国道29号線の反対側には「道の駅 播磨いちのみや」がある。
ありがたいことにクルマは道の駅に駐車するか伊和神社西側にも駐車場がある。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索1】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

伊和大神の本拠地。
巨木の生い茂るよく保存された社叢。
北向きの社殿の配置。

写真

伊和神社の東側入口を望む。前の道路は国道29号線。
伊和神社の東側入口を望む。前の道路は国道29号線。
右側(北)を望む。国道29号線の鳥取方面。
右側(北)を望む。国道29号線の鳥取方面。
左側(南)を望む。国道29号線の山崎方面。神社の敷地がはるか向こうまで続いているのが分かるだろうか。
左側(南)を望む。国道29号線の山崎方面。神社の敷地がはるか向こうまで続いているのが分かるだろうか。
神社の東側には「道の駅 播磨いちのみや」がある。ここに駐車可能、お土産や食事も可能。前の国道29号線を横断して伊和神社に行くのだが交通量が多いので注意。
神社の東側には「道の駅 播磨いちのみや」がある。ここに駐車可能、お土産や食事も可能。前の国道29号線を横断して伊和神社に行くのだが交通量が多いので注意。
東側入口を望む。参道は東西南北に4箇所あるが、メインはこちら。北と南の参道は実質使われていない。
東側入口を望む。参道は東西南北に4箇所あるが、メインはこちら。北と南の参道は実質使われていない。
神社東側の入り口を入ると両部鳥居がある。奥に見えるのが東側随神門。
神社東側の入り口を入ると両部鳥居がある。奥に見えるのが東側随神門。
両部鳥居をくぐると随神門がある。社叢が美しい。
両部鳥居をくぐると随神門がある。社叢が美しい。
随神門を入ると参道は左に曲がっている。杉の巨木が多い。
随神門を入ると参道は左に曲がっている。杉の巨木が多い。
参道を左に曲がると拝殿が見えてくる。
参道を左に曲がると拝殿が見えてくる。
神社謹製の由緒書。ご祭神は大已貴神、創建は西暦一四四年、延喜式の名神大社とある。
神社謹製の由緒書。ご祭神は大已貴神、創建は西暦一四四年、延喜式の名神大社とある。
手水舎。手水鉢を支えているのは屈強な力士たち。
手水舎。手水鉢を支えているのは屈強な力士たち。
皇族下乗という石碑が建つ。
皇族下乗という石碑が建つ(詳細不明)。
正面より拝殿を望む。拝殿の前は広場になっている。
正面より拝殿を望む。拝殿の前は広場になっている。
広場の右手には神殿殿という建物がある。少し左に見える夫婦杉のすぐ右に西側からの参道がつながっている。
広場の右手には神殿殿という建物がある。少し左に見える夫婦杉のすぐ右に西側からの参道がつながっている。
広場の左手には社務所がある。
広場の左手には社務所がある。
こちらは西側の随神門。階段を登ると夫婦杉のところに出ることができる。
こちらは西側の随神門。階段を登ると夫婦杉のところに出ることができる。
拝殿を右側から望む。
拝殿を右側から望む。
拝殿を左側から望む。
拝殿を左側から望む。
拝殿の向拝には彫り物がたくさん施されている。素晴らしい作品だ。他の出雲系神社のように出雲の特徴は薄い。
拝殿の向拝には彫り物がたくさん施されている。素晴らしい作品だ。
拝殿内部を望む、内部はピカピカに磨き上げられている。奥に見えているのは幣殿。
拝殿内部を望む、内部はピカピカに磨き上げられている。奥に見えているのは幣殿。
拝殿の右側より幣殿を望む。
拝殿の右側より幣殿を望む。
幣殿と本殿を右側より望む。幣殿はかなり大きく立派な建物。
幣殿と本殿を右側より望む。幣殿はかなり大きく立派な建物。
幣殿の扁額には「正一位伊和大明神」とある。こちらも彫り物が素晴らしい。
幣殿の扁額には「正一位伊和大明神」とある。こちらも彫り物が素晴らしい。
幣殿と本殿を右側より望む。
幣殿と本殿を右側より望む。
本殿の左右に播磨十六郡神社がある。
本殿の左右に播磨十六郡神社がある。
播磨十六郡神社は近世の郡制による各群の神社となっているのが播磨国一宮らしい。他では見たことがない。
播磨十六郡神社は近世の郡制による各群の神社となっているのが播磨国一宮らしい。他では見たことがない。
本殿を左側より望む。本殿にも彫り物と組物がたくさん施してある、非常に状態は良い。
本殿を左側より望む。本殿にも彫り物と組物がたくさん施してある、非常に状態は良い。
本殿奥に鶴石への通路がある。
本殿奥に鶴石への通路がある。
1段低いところに鶴石が祀られている。
1段低いところに鶴石が祀られている。
鶴石。伝説では鶴が鶴石の上で北向きに寝ていたので、社殿を北向きに建てたとある。
鶴石。伝説では鶴が鶴石の上で北向きに寝ていたので、社殿を北向きに建てたとある。
伊和神社の昭和44年調査時の社域の内容が掲示されている。広大な社域には巨木が多数。
伊和神社の昭和44年調査時の社域の内容が掲示されている。広大な社域には巨木が多数。
拝殿より北からの参道を望む。工事中だったので職人さんの車がキチンと並べられている。
拝殿より北からの参道を望む。工事中だったので職人さんの車がキチンと並べられている。
東随神門あたりから北へ延びている北参道。本来ならこの方角から入ってくるのが正しいと思われるのだがそうなっていないのは少し不思議な感じ。
東随神門あたりから北へ延びている北参道。本来ならこの方角から入ってくるのが正しいと思われるのだがそうなっていないのは少し不思議な感じ。

感想


神社謹製の由緒書によると

御祭神 大已貴神(おおなむちのかみ)
配 祀 少彦名神(すくなひこなのかみ)・下照姫神(したてるひめのかみ)

 御由緒
大已貴神は又の御名を大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)、
大國主神(おおくにぬしのかみ)とも申し、播磨國開拓の祖神、
総鎮護の神と崇(あが)め、國内最高のお社として、
播磨國一宮と申し上げます。
神社の創祀(そうし)は古く、第十三代成務天皇甲申
の歳(西暦一四四年)と伝えられ、延喜の制では
名神大社に列し、元國幣中社の御社格
であります。
 古来産業の神、縁結びの神、福の神、
病気平癒の神、また御社地が因幡(いなば)街道(国道
二十九号線)の要衝(ようしょう)にあり、旅人の守護神、交通安全
の神としても崇敬篤(あつ)き神様であります。
 播磨國一宮
  伊和神社

とある


神社謹製の鶴石の説明書きによると

昔 大神 伊和恒郷に託宣あり驚きて見るに一夜のうちに杉桧生い繁りて
聖地を成し 空に鶴群れ舞い その中大き二羽北向きて眠り居たり その跡に
神殿を作り奉斎せり これ当社の起源なりと云う鶴の居た石を鶴石または
降臨石という

とある


神社謹製の説明書きによると

伊和神社

境内地 53,218㎡(16,098坪)

境内御神木
 目通り廻り60cm以上
杉563本・桧200本・榊326本
樫415本・その他 桜・樅・栂・栗
椿・桜 等々 合計1650本余
うち大杉(3m以上)84本
 昭和44年調査

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、大己貴神、(配祀)少彦名神・下照姫神。

成務天皇甲申年(社記、144年)創祀(追記)。
欽明天皇25年(564年)創建(追記)。
天平宝字2年(758年)8月伊和恒雄神領寄進(修正)。
大同元年(806年)神封13戸。
貞観元年(859年)正月27日従四位下。
元慶5年(881年)6月29日正四位下。
天慶3年(940年)神封五戸増加。
正暦2年(991年)正一位(修正)。
寛仁元年(1017年)10月2日一代一度の幣帛神宝を奉。
永久3年(1115年)源朝俊により眞光寺敷地が寄進。
平治元年(1159年)8月2日社殿焼亡。
建長元年(1249年)4月4日焼亡(修正)。
延元元年(1336年)4月新田義貞足利尊氏追討の祈願。
明徳3年(1392年)7月赤松上総介儀則再興。
明徳4年(1393年)7月赤松儀則美作国粟井庄寄進。
永禄5年(1562年)12月長水城主宇野越前守村頼再興。
慶長13年(1608年)池田輝政神領寄進。
寛文6年(1666年)松平恒元神領寄進。
延宝4年(1676年)池田改元神領寄進。
嘉永5年(1852年)2月1日炎上。
安政5年(1858年)2月造営。
明治6年(1873年)11月県社。
明治18年(1885年)4月国幣小社。
明治45年(1912年)6月国幣中社。

江戸時代までは「伊和神社大明神」と呼ばれていた。

成務天皇甲申年(社記)あるいは欽明天皇25年(『峯相記』)に、伊和恒郷に託宣して此地へ社殿を建立したと伝えている。この時、白い鶴二羽が北に向つて眠つていたので、北面に社殿を造つたという。この伝承に從つて、現在の社殿は北面し、本殿の裏には鶴石がある。
播磨国一の宮で中世には伊和大明神と呼ばれ、新田義貞・赤松氏・江戸期には歴代藩主から産業興隆の神として崇高された。

とある。


兵庫県神社庁によると

主祭神:大己貴神(オオナムチノカミ)
配祀神:少彦名神(スクナヒコナノカミ)・下照姫神(シタテルヒメノカミ)

祭記事:
◆例祭 10月15日(本殿祭)・16日(渡御祭)
 大神様のご加護に感謝すると共に、豊かで平和な世を祈ります。氏子4地区の屋台の宮入や七社神社氏子屋台1台との奉納錬り合わせがあります(10/16)
◆風鎮祭(油万灯) 8月26日
 境内に設けた台に献灯し、豊年満作・壤災招福を祈ります。一般の方もロウソクを持参いただければ献灯できます。
この他、絵灯籠を奉納し天下泰平・無病息災を祈る夏祭(7/15)・宵宮(7/14)。灯籠の絵は、一般崇敬者からも受け付けています。季節や年により色々な祭典があります。

由 緒:
 大己貴神は国土を開発し、産業を勧めて生活の道を開き、あるいは医薬の法を定めて、治病の術を教えるなどして、専ら人々の幸福と世界平和を図り給う神であります。
 大神は播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨国内各地を御巡歴になって国造りの事業をされ、最後に伊和里(現在当神社のある地方)に至りまして、我が事業は終わった「おわ」と仰せられてお鎮まりになりました。ここに於いて、人々がその御神徳を慕い、社殿を営んで奉斎したのが当神社の創祀であります。
 その御神徳により、古来、農業・工業・商業等産業の神、縁結び、福の神、厄除・壤災の神、病気平癒の神、往来安全(交通安全)の神として崇敬されております。
 一説に、伊和の恒郷に「我を祀れ」とご神託があり、一夜のうちに草木生い茂り、空に多くの鶴が舞い、石上に大きな鶴が二羽眠っておりました。そこに社殿を造営したのが、成務天皇甲申歳2月11日丁卯(144)、或いは、欽明天皇25年甲申歳(564)と伝えております。
 御社格は延喜の制では明神大社に列し、播磨国の一の宮で、明治の制では国幣中社でありました。また、御神階は正一位であります。

とある


伊和神社のある当地は、揖保川の上流部に当たる場所、古くから開かれた場所のようでおおいに興味深い地域でもある。
古代におけるこの地域の主要な交通網としては揖保川と因幡街道だろうか、古代山陽道は南へ約25kmも離れている。
伊和神社の鎮座する場所は揖保川沿いの谷筋でも大きく開けた場所で周囲の山々からの物資を集積するには都合が良かったと思われる。
思うに鉱物資源が豊富で、そのために但馬や丹後とならんで古代日本において非常に重要な地域となっていて複数の勢力がしのぎを削っていたのだろう(個人的見解です)。
その主な要因が鉄にかかわることだと思われる。
前述のように山陽と山陰をつなぐ街道筋(因幡街道)としても重要な役割を持っていたと思われ、現在でも国道29号線は非常に交通量の多い道路である。
宍粟市一宮町はかつての宍粟郡一宮町という行政区の名残ではあるが非常に広い地域で、伊和神社のある須行名(すぎょうめ)はほぼ南端にあたる。
宍粟市一宮町には次に上げるたくさんの遺跡等があるようだ。
高取城跡・・森ノ元遺跡・草置城跡・百千家満遺跡・家原遺跡・公文遺跡・森添遺跡・上町遺跡・宇奈手1号墳~14号墳・井田1号墳~4号墳・福野遺跡・河原田東遺跡・河原田千尾遺跡・河原田椿下遺跡・河原田平遺跡・御形城跡・樅木遺跡・溝谷遺跡・手洗淵遺跡・阿舎利遺跡・池垣内遺跡・深河谷遺跡・生栖遺跡・楽里遺跡・明泉山城跡・嵯峨山遺跡・安積1号墳~3号墳・古山城跡・安積山遺跡・三林遺跡・安積金山1号墳~7号墳・宮ノ下遺跡・中安積遺跡・安積館跡・安積条里遺跡・土居ノ元遺跡・閏賀銅鐸出土地・秋姫祠遺跡・閏賀遺跡A地点・閏賀遺跡B地点・岩ヶ口古墳・岩ヶ口遺跡・乗取遺跡・杉田遺跡・西安積遺跡・一つ山古墳・伊和遺跡・伊和中山1号墳~19号墳・安黒御山1号墳~16号墳・嶋田湯ノ郷山1号墳~13号墳・池岩1号墳~3号墳・嶋田湯ノ郷山14号墳~15号墳・瀧ノ内経塚・岡城跡・伊和厳島遺跡・白倉山磐座遺跡・宮山磐座遺跡・高畑山磐座遺跡・花咲磐座遺跡・阿舎利東遺跡・梨ノ木遺跡・富土野銅山遺跡・富土野遺跡・生栖城山城跡・滝ケ谷遺跡・横住銅鏡出土地・一つ山古1基・庭田神社のケヤキの大木1本安積のカヤの古木1本・池王神社のアカガシ林 等(兵庫県考古博物館資料による)。

伊和神社のご祭神は、大己貴神、(配祀)少彦名神・下照姫神。
大己貴神は、播磨国では伊和大神とも称されており310-010_射楯兵主神社(姫路市総社本町)・311-030_祝田神社(たつの市揖西町)にも登場する。
大己貴神(伊和大神)は、当地を本拠地として播磨地域を開拓し治めた強大な勢力だったことが伺える。

伊和神社へのアプローチは、比較的簡単だが現代的な感覚だと主要な都市からは遠い(姫路から約50kmクルマで小1時間)。
国道29号線沿いに位置しているのですぐに分かる、国道29号線の反対側には「道の駅 播磨いちのみや」がある。
ありがたいことにクルマは道の駅に駐車するか伊和神社西側にも駐車場がある。

伊和神社の社域は広大で社殿のあるエリアは一部、ほとんどが森林となっており古木巨木が多く素晴らしい環境だ。
社殿自体は北向きとなっており珍しいが、これには伝説が残っていて託宣の際に鶴が北向きで居たことにちなむ、本殿の後方に鶴石という形で祀られている。
案内図によると参道は東西南北に4つある。
表参道は国道29号線に向いて両部鳥居と随神門が建つ、西参道は1段低い位置に随神門がある、北参道と南参道は実質的に使われてない。
北向きの社殿であればどうして北に神社への入り口を作らなかったのだろうか、これは街道筋からの流れを反映した作りになっているのだろうと思われる。

「道の駅 播磨いちのみや」の側(東)から両部鳥居をくぐると随神門、参道は左に曲がって南を向くと社殿の正面に出る。
この場所に由緒書や手水舎(力士が手水鉢を支えている)、それに皇族下乗という石碑もある(詳細不明)。
社殿は北向きで拝殿・幣殿・本殿で構成されていて本殿は小ぶりだが拝殿・幣殿はかなり大きな建物だ。
現在の社殿は安政5年(1858年)造営にされたと記録がある、状態は非常に良くでピカピカに磨き上げられている。
また拝殿や本殿には見事な彫り物が施されている。
播磨国一宮らしいのは、摂社に播磨十六郡神社があって播磨国の各郡の神社を祀っていることだ。
ただし播磨十六郡は近世の行政割りだと思われる。

美しい社叢があり、凛とした独特の雰囲気を持つ、大己貴神(伊和大神)の本拠地としてふさわしい雰囲気を持っていると思う。
一度は訪れてみたい神社だ。

播磨国を開拓し治めた大己貴神(伊和大神)の本拠地である神社。

注意点

国道29号線は交通量が多いので横断する時は気をつけたい。

訪問ノート

訪問日 :2018/9/23、2021/10/27
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100、α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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