比定社:保久良神社
式内社コード:047-040
神名帳社名:保久良神社、ホクラノ
社格:小
所在地:658-0005 兵庫県神戸市東灘区本山町北畑680番地
plus code:P7PH+66 神戸市、兵庫県
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アプローチ&ロケーション
阪急岡本駅北側の金鳥山の中腹に鎮座。
クルマでのアプローチは不可、徒歩のみ。
一番近い有料駐車場からでも距離約1100メートル高低差140メートル30分登る。
阪急岡本駅からなら距離約1500メートル高低差150メートル40分登る。
つづら折れの急勾配の参道を徒歩で登る、歩きやすい靴と服装が必要。
登り始めは住宅街ではあるが、よくこんな場所に社を作ったものだと感服する。
古くから「灘の一ツ火」が有名で海からの目印になっていた。
ハイライト
つづら折れのアプローチ、青木との位置関係。
社域には多くの古木があり素晴らしい景観を作り出している。
写真
感想
神社謹製の由緒書によると
御祭神
須佐之男命、大歳御祖命、大国主命、椎根津彦命
創立年歴不詳なれども境内外地は上代祖神の御霊が鎮座せる磐境の遺跡地にして其れらより発見されつつある石器時代の石斧、石剣、石包丁、石鏃類、青銅器時代の銅戈(重美)弥生式土器が前期中期後期に亘り多数出土し西暦紀元前二、三世紀頃より西暦紀元三世紀頃のものにしてそのいずれもが儀礼的なものたることの考證せられてあるを見ればその頃にはもはやこの霊地に祭祀せられたる證拠なり。また当社は始めに椎根津彦命の子孫たる大和連倉人水守(西暦七六九)等が祭祀したるとも神功皇后(西暦西暦一〇一)三韓の役の勝利武器をこの社地に収蔵し奉りしより起因するとも又社名の火倉。火の山。烽火場地より起こりしとも称せられる。
尚祝部土器。玻瑠玉発見せされてあり平安時代の延喜式(西暦九二七)には社格社名を載せ奉りてあり。
鎌倉中期の青銅製懸仏の発見されており摂津志には建長二年(西暦一二五〇)重修の棟札の所持せる事を記載する等上代より祭祀の存続せる事実を実證する資料となれり。
天王宮とも称さられ中古本荘近古本庄の庄の氏神にして工業商業者はもとより多くの崇敬の中心となる。
当社の位置は(海抜一八五米)後に六甲の翠巒を負い前には茅渟の海を一望に見渡す最景勝地にして社頭に燈明台ありて毎夜北畑天皇講の人々交替して御神火を点じ近海を渡る船舶の航路安全を祈る灘の一つ火として崇拝せられ古来より航海者等の一針路となる。
これは祖神の代表的事績たる海路嚮導の行為とを考え合わすとき氏子人の祖神の御遺徳を追慕する行事にして上代より現在に至るまで長年月の間一日として絶やすこと無く奉仕し居れり。
とある
この地域の式内社は意外にも少ない、東は現在の西宮あたり、西は灘区まで式内社はない。
「灘の一ツ火」が古くから受け継がれてきているように近世までこのあたりには目印になるものは無かったのだろう。
なぜ当社が式内社であるかということだが、海を航行する船を見張り、それを烽等で連絡する役割を持っていたのではないだろうか。
当社の南には青木(おおぎ)があり、青亀(あおき)に乗った御祭神の椎根津彦命が上陸したという伝説が残る。
周辺からは多くの弥生時代の遺跡や遺物が出土しており、付近には磐座とも言える巨石がゴロゴロある。
驚くのは、ここまで急斜面を登ってきたにもかかわらず社殿を建てることのできる平地が存在することだ。
鳥居から社殿までは100メートルほどの奥行きがあり、この平坦な場所は周辺では非常に貴重だったと思われる。
それだけに古くから住居や祭祀の場、そして情報収集の場として利用してきたのだろうと思われる。
神社付近は六甲山系への登山口にもなっていたり早朝登山で常に沢山の人で賑わっている。
社域には古木が多く残り手入れもされて素晴らしい環境。
社殿は阪神大震災で被災し復興されたもので非常にきれいで新しい、残念なのは本殿が全く見えないこと。
注意点
アプローチは1km以上の距離を急登するので歩きやすい服装と靴が必要、飲み物もあったほうが良い。
イノシシに注意。
訪問ノート
訪問日:2021/10/26
交通手段:クルマ+徒歩で訪問
カメラ:α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。