047-040_保久良神社

比定社:保久良神社

式内社コード:047-040
神名帳社名:保久良神社、ホクラノ
社格:小
所在地:658-0005 兵庫県神戸市東灘区本山町北畑680番地
plus code:P7PH+66 神戸市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

阪急岡本駅北側の金鳥山の中腹に鎮座。
クルマでのアプローチは不可、徒歩のみ。
一番近い有料駐車場からでも距離約1100メートル高低差140メートル30分登る。
阪急岡本駅からなら距離約1500メートル高低差150メートル40分登る。
つづら折れの急勾配の参道を徒歩で登る、歩きやすい靴と服装が必要。
登り始めは住宅街ではあるが、よくこんな場所に社を作ったものだと感服する。
古くから「灘の一ツ火」が有名で海からの目印になっていた。

ハイライト

つづら折れのアプローチ、青木との位置関係。
社域には多くの古木があり素晴らしい景観を作り出している。

写真

保久良神社の登山口のようなポイント。周辺は住宅密集地で道が非常に狭い。コインパーキングに駐車して30分ほど急登する必要がある。
保久良神社の登山口のようなポイント。周辺は住宅密集地で道が非常に狭い。コインパーキングに駐車して30分ほど急登する必要がある。
金鳥山の前山が保久良山と呼ばれている。ここを起点に六甲山系の登山道が数多く伸びている。
金鳥山の前山が保久良山と呼ばれている。ここを起点に六甲山系の登山道が数多く伸びている。
神社関係者以外は車両通行禁止。かなりの勾配がありビックリする。
神社関係者以外は車両通行禁止。かなりの勾配がありビックリする。
神社へのアプローチはこんな感じでつづら折れになっており何度も折り返して標高を稼ぐ。
神社へのアプローチはこんな感じでつづら折れになっており何度も折り返して標高を稼ぐ。
途中の斜面には山崩れ防止のための格子状の補強が施される。かなり大掛かり、昔はしょっちゅう崩れていたのではなかろうか。
途中の斜面には山崩れ防止のための格子状の補強が施される。かなり大掛かり、昔はしょっちゅう崩れていたのではなかろうか。
30分ほど急登してやっと神社が見えてくる。これだけ登っても標高は150メートル足らずだ。
30分ほど急登してやっと神社が見えてくる。これだけ登っても標高は150メートル足らずだ。
保久良神社を正面より望む。こんな山の上に立派、しかも新しい。神社自体は南を向いている。
保久良神社を正面より望む。こんな山の上に立派、しかも新しい。神社自体は南を向いている。
右側(東)を望む。登ってきた方向。
右側(東)を望む。登ってきた方向。
正面(南)は眺望良し。神戸の街と瀬戸内海が一望できる。条件良ければ四国や大阪が見える。石灯籠が一基あるが、これが「灘の一ツ火」といい、海から見ると灯台のような役割を近世まで果たしていた。今でも夜には点灯される。
正面(南)は眺望良し。神戸の街と瀬戸内海が一望できる。条件良ければ四国や大阪が見える。石灯籠が一基あるが、これが「灘の一ツ火」といい、海から見ると灯台のような役割を近世まで果たしていた。今でも夜には点灯される。
左側(西)を望む。神社の左手は梅林や公園がある。
左側(西)を望む。神社の左手は梅林や公園がある。
鳥居脇にある社標には延喜式内とある。
鳥居脇にある社標には延喜式内とある。
御祭神の一柱である椎根津彦命の銅像。青亀(あおき)に乗って上陸した地が青木(おおぎ)になったと言われている。青木は真南の海沿い。
御祭神の一柱である椎根津彦命の銅像。青亀(あおき)に乗って上陸した地が青木(おおぎ)になったと言われている。青木は真南の海沿い。
鳥居をくぐると石畳の参道。右側に干支がズラッと並んでいる、かわいい。これだけ急峻な場所に平坦なスペースがあるのが驚きだ。
鳥居をくぐると石畳の参道。右側に干支がズラッと並んでいる、かわいい。これだけ急峻な場所に平坦なスペースがあるのが驚きだ。
参道より拝殿を望む。気持ちの良い社叢。
参道より拝殿を望む。気持ちの良い社叢。
手水舎。
手水舎。
参道より5段程度階段を登ると拝殿前の広場。
参道より5段程度階段を登ると拝殿前の広場。
広場の右手には摂社と倉庫。倉庫の向う側にある大きな看板に写真入りで解説があり参考になる。
広場の右手には摂社と倉庫。倉庫の向う側にある大きな看板に写真入りで解説があり参考になる。
広場の左手には社務所がある。
広場の左手には社務所がある。
拝殿の前にある立岩と呼ばれる磐座。
拝殿の前にある立岩と呼ばれる磐座。社域には巨石が数多くあり列石ではないかとの説もあるようだ。
拝殿前の広場を右側より望む。社叢が素晴らしい。
拝殿前の広場を右側より望む。社叢が素晴らしい。
拝殿を正面より望む。
拝殿を正面より望む。
拝殿を右側から望む。
拝殿を右側から望む。
拝殿内部を望む。大変きれいに飾り付けてある。
拝殿内部を望む。大変きれいに飾り付けてある。
扁額には「保久良神社」とある。拝殿と本殿ともに新しい。阪神大震災で被害を受け復興されたようだ。
扁額には「保久良神社」とある。拝殿と本殿ともに新しい。阪神大震災で被害を受け復興されたようだ。
本殿は塀で囲まれ見ることができないので残念。
本殿は塀で囲まれ見ることができないので残念。
拝殿前の神社謹製由緒書。ご祭神は須佐之男命、大歳御祖命、大国主命、椎根津彦命。創建不明とある。
拝殿前の神社謹製由緒書。ご祭神は須佐之男命、大歳御祖命、大国主命、椎根津彦命。創建不明とある。
拝殿より鳥居を望む。
拝殿より鳥居を望む。
鳥居の間、「灘の一ツ火」越しに海が見える。
鳥居の間、「灘の一ツ火」越しに海が見える。
神社西側には古木が多数あり、巨大な岩も多数ある。社域全体の巨石が列石ではないかとの説もあるようだ。
神社西側には古木が多数あり、巨大な岩も多数ある。社域全体の巨石が列石ではないかとの説もあるようだ。
アプローチ道路脇にある磐座のひとつ「珍生岩」。
アプローチ道路脇にある磐座のひとつ「珍生岩」。

感想

神社謹製の由緒書によると

御祭神
須佐之男命、大歳御祖命、大国主命、椎根津彦命
創立年歴不詳なれども境内外地は上代祖神の御霊が鎮座せる磐境の遺跡地にして其れらより発見されつつある石器時代の石斧、石剣、石包丁、石鏃類、青銅器時代の銅戈(重美)弥生式土器が前期中期後期に亘り多数出土し西暦紀元前二、三世紀頃より西暦紀元三世紀頃のものにしてそのいずれもが儀礼的なものたることの考證せられてあるを見ればその頃にはもはやこの霊地に祭祀せられたる證拠なり。また当社は始めに椎根津彦命の子孫たる大和連倉人水守(西暦七六九)等が祭祀したるとも神功皇后(西暦西暦一〇一)三韓の役の勝利武器をこの社地に収蔵し奉りしより起因するとも又社名の火倉。火の山。烽火場地より起こりしとも称せられる。
尚祝部土器。玻瑠玉発見せされてあり平安時代の延喜式(西暦九二七)には社格社名を載せ奉りてあり。
鎌倉中期の青銅製懸仏の発見されており摂津志には建長二年(西暦一二五〇)重修の棟札の所持せる事を記載する等上代より祭祀の存続せる事実を実證する資料となれり。
天王宮とも称さられ中古本荘近古本庄の庄の氏神にして工業商業者はもとより多くの崇敬の中心となる。
当社の位置は(海抜一八五米)後に六甲の翠巒を負い前には茅渟の海を一望に見渡す最景勝地にして社頭に燈明台ありて毎夜北畑天皇講の人々交替して御神火を点じ近海を渡る船舶の航路安全を祈る灘の一つ火として崇拝せられ古来より航海者等の一針路となる。
これは祖神の代表的事績たる海路嚮導の行為とを考え合わすとき氏子人の祖神の御遺徳を追慕する行事にして上代より現在に至るまで長年月の間一日として絶やすこと無く奉仕し居れり。

とある

この地域の式内社は意外にも少ない、東は現在の西宮あたり、西は灘区まで式内社はない。
「灘の一ツ火」が古くから受け継がれてきているように近世までこのあたりには目印になるものは無かったのだろう。
なぜ当社が式内社であるかということだが、海を航行する船を見張り、それを烽等で連絡する役割を持っていたのではないだろうか。
当社の南には青木(おおぎ)があり、青亀(あおき)に乗った御祭神の椎根津彦命が上陸したという伝説が残る。

周辺からは多くの弥生時代の遺跡や遺物が出土しており、付近には磐座とも言える巨石がゴロゴロある。
驚くのは、ここまで急斜面を登ってきたにもかかわらず社殿を建てることのできる平地が存在することだ。
鳥居から社殿までは100メートルほどの奥行きがあり、この平坦な場所は周辺では非常に貴重だったと思われる。
それだけに古くから住居や祭祀の場、そして情報収集の場として利用してきたのだろうと思われる。

神社付近は六甲山系への登山口にもなっていたり早朝登山で常に沢山の人で賑わっている。
社域には古木が多く残り手入れもされて素晴らしい環境。
社殿は阪神大震災で被災し復興されたもので非常にきれいで新しい、残念なのは本殿が全く見えないこと。

注意点

アプローチは1km以上の距離を急登するので歩きやすい服装と靴が必要、飲み物もあったほうが良い。
イノシシに注意。

訪問ノート

訪問日:2021/10/26
交通手段:クルマ+徒歩で訪問
カメラ:α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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