比定社:(論)浦嶋神社(宇良神社)
式内社コード:268-110
神名帳社名 :宇良神社、ウラノ
社 格:小
所 在 地 :626-0403 京都府与謝郡伊根町本庄浜191
Plus Code :P7H5+G4 伊根町、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
「うらしまじんじゃ」と読む、地名の本庄浜は「ほんじょうはま」と読む。
本庄浜集落の西の端の平地に鎮座。
国道178号線の浦嶋交差点に案内看板が出ているので分かりやすい。
国道178号線より東へ入り右に浦嶋公園があり左に駐車場がある。
駐車場からは南へすぐの場所にある。
駐車場完備。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
国の重要文化財指定の社殿。
中井権次正胤の作による彫り物。
重要文化財(美術品)
紙本著色浦島明神縁起
時代:室町
文化庁解説:
本絵巻の主題は浦島子伝説であるが、物語のあとに神社の建立と祭礼の場面があり、宇良神社の縁起として図絵されたことがわかる。詞書を欠いているが、絵の内容から見ると、後世のお伽草子として一般化する以前の姿をとどめており、描法は通途のやまと絵の画風であるが、賦彩に一種独特のふんいきがある。制作時は室町時代前半頃で、以後盛行するお伽草子の先駆的作例であるばかりでなく浦島明神縁起絵として唯一のもので、その意義はきわめて高い。
登録有形文化財(建造物)
宇良神社本殿
時代:明治
年代:明治17
西暦:1884
文化庁解説:
境内奥に北面する建ちの高い茅葺本殿で、棟に千木と堅魚木を戴く。桁行三間梁間二間で周囲に縁を廻らし、正面中央に板唐戸を両折に吊る。主体部は直線的かつ簡素な意匠とし、縁の北東隅に取付く井戸屋形のみ彫刻を施す。丹後地方に分布する神明造系本殿の好例。
登録有形文化財(建造物)
宇良神社拝殿及び中殿
時代:明治
年代:明治17/昭和中期改修
西暦:1884/1946~1965改修
文化庁解説:
本殿正面に建ち、後方に中殿を張出す。広い柱間による桁行三間梁間二間の規模で、周囲を開放して高欄を廻らす。割拝殿形式をとり、側廻りを出組詰組とし、琵琶板の波紋や動植物、正面中央間の雲龍など要所を優秀な彫刻で飾る。明治期における中井権次の力作。
写真
感想
神社謹製の由緒書によると
浦嶋神社(宇良神社)
鎮座地 伊根町字本庄浜一九一番地
祭 神 浦嶋子(浦嶋太郎)
相殿神 月讀命(つくよみのみこと)、祓戸大神(はらえどのおおかみ)
祭 儀 例大祭 宵宮八月六日、本祭七日
延年祭 宵宮三月十六日、本祭十七日
創 建 天長二年(825)七月二十二日
神 徳 縁結、長寿、豊漁、航海安全、農作・養蚕守護、
牛馬守護
旧社格 郷社
宝 物 紙本著色浦島明神縁起[国重要文化財]
紙本著色浦島明神縁起(掛幅)[府指定有形文化財]
白練緯地桐桜土筆肩裾文様繍小袖[国重要文化財]
玉櫛笥(玉手箱・室町期) 他
浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延喜
五年(905)撰上の「延喜式神名帳」所載によると
『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている式内社。創祀年代は淳和
天皇の天長二年(825)、浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀
る。その太祖は月読尊の子孫で当地の領主、日下部首(くさかべのおびと)
等の先祖であると伝わる。
伝承によると、浦嶋子は雄略天皇二十二年(478)七
月七日美婦に誘われ常世国へ行き、その後三百有余
年を経て淳和天皇の天長二年(825)に帰ってきた。常世
国に住んでいた年数は三百四十七年間で、淳和天皇
はこの話を聞き浦嶋子を筒川大明神と名付け、
小野篁(おののたかむら)(802-853、公卿・文人)を勅使として派遣し社
殿が造営された。
遷宮の際には神事能が催され、そのつど領主の格別の
保護が見られた。暦応二年(1339)には征夷大将軍 足
利尊氏が来社し幣帛、神馬、神酒を奉納するなど、古
代より当地域一帯に留まらず広域に渡り崇敬を集め
ている。
なお、社殿が北極星を向いて造営されており、道教
の影響から北極星信仰がある。
みすはまた 悔しからまし 水乃江の
浦嶋かすむ 春の曙
太上天皇
長き夜も 明けて恨めし 水乃江の
浦嶋かけて すめる月かげ
平 高宗
■浦嶋伝承
当地に伝わる浦嶋伝承は、我が国に伝わ
る最古の歴史書「日本書紀」(和銅二年、
720)に記され、全国各地に伝わる浦嶋伝承
よりも期限が最も古い。雄略天皇二十二年
(478)秋七月の条に「丹波国余社郡(たにわのくによさのこおり)の管川(つつかわ)の
人」として「端江(みずのえ)の浦の嶋子」が常世国へ行
く物語が簡潔な文章で記されており、末尾
に「詳細は別巻(ことつまき)に在り」と書かれている。その
書物がなんであったかは現在では特定できてい
ないが、同時期に編纂された「丹後国風土
記」が有力である。また、他にも「万葉集」巻
九にある高橋虫麻呂が詠んだ旋頭歌「詠水
江浦嶋子一首」で浦嶋物語が歌われている。
これらの物語で登場する「浦嶋子」がいわ
ゆる日本昔話でいう「浦島太郎」であるが、
物語は中国道教の神饌思想の影響を受け
ている。 古代には竜宮城へ行かず
神女(おとひめ)に誘われ蓬山(とこよ、常世の国)へ至るという物
語であった。浦嶋子は当地を治めた地方豪
族の領主であったことから、民間伝承ではな
く貴族、公卿などの支配層を中心に伝わっていっ
た。 室町期より江戸初期に
かけて綴られた御伽草子に初めて「乙姫」
「竜宮城」「玉手箱」の名称とともに亀の恩返
しの要素が加わり、また、領主であった嶋子
が「両親を養う漁師の青年」という民衆の身
近な存在として描かれたことにより、大衆
に広く受け入れられ全国に伝わっていった。
このことが、「浦島太郎」伝承が全国各地に
数多く伝わる要因であると思われる。江戸
中期の正徳二年(1712)に、大阪竹田からく
り出し物で、初めて亀に乗った浦嶋子が登場
し、海中にある竜宮城へ行くようになる。
明治二十九年(1896)に巌谷小波(いわやさざなみ)が子ども
向けに書いた日本昔話に、現在の浦島太郎
のお話しに書き替えられ、明治四十三年
(1910)には尋常小学校二年国語教科書にそ
の省略版が掲載、翌四十四年(1911)には唱
歌「浦島太郎」が作られた。このことにより、
当時の日本全国の子ども達が読み学び、ま
た、唱歌は現在までも子ども達にお馴染み
の歌として歌われ続け、日本人なら誰もが
知っている代表的な昔話として大いに親しま
れている。
郷土の歴史と文化を守る会
とある。
文化庁謹製の本殿、拝殿・中殿説明書によると
本殿、拝殿・中殿
国登録有形文化財
現社殿は、元治元年(1864)四月十三日の火災による類焼、焼失し、明治十
七年(1884)五月再建された。丹後地方を拠点に活躍した冨田一族である加悦
町 冨田吉助の手による建築であり、また、「西の左甚五郎」と云われた中井権
次(八代目正胤)一統による見事な彫刻が施される。
■本殿:神明造、桁行3間、梁間2間の切妻造、茅葺、平入
四週に縁と高欄を廻すが、床が高く、縁束を2段の貫で固める。常時は不在の神を招来
するため背面中央1間は高欄が切れている。基壇の上に亀腹を築き、礎石建とする。柱は
床下を八角、床上を円柱とし、切目長押、低い位置の腰長押と内法長押を内、壁は横羽目
板とする。棟は銅板で覆い、置千木と細身の堅魚木を配し、妻飾は豕扠首鳥居掛け。正面
構えに特徴があり、中央間は両開きの板戸、両脇間は一枚板の鏡戸とする。鏡戸は祭事に
取り外せるようになっている。丹後地方に見られる神明造系社殿の系譜に本殿も連なるもの
と考えられる。
本殿西南隅の縁束には、井戸屋形が取り付く。切妻の銅板屋根を本殿の縁束と柱2本で
支える。下に石組みの井戸があり、目の神様「御井(みい)さま」として信仰されている。
本殿は丹後地方特有の神明造系社殿に連なるものとみられるが、在地化した神明造系
社殿として注目される。棟札により年代・棟梁が明らかであり、丹後地方の近代神社建築に
一つの基準を提供する遺構である。
■拝殿:割拝殿(吹放し)、桁行3間、梁間2間、入母屋造、銅板葺、平入
石造の布基礎に角柱を立て、内外に内方長押を廻す。組物は詰
組の出組で、さらに組物間に蟇股には内部彫刻が施され、題材は
亀、兎、鯛、鳥、波、雲、松、蓮であり、配置は左右対称である。
拝殿は中殿とともに本殿と対照的な装飾性に中井大工の作風が
よく表れる。
■中殿:桁行2間、梁間1間の切妻造
梁間を拝殿中央間と合わせる。梁は反転曲線の虹梁と
し、棟木の支持形式を梁筋ごとに変える。拝殿側から、二重
虹梁大瓶束、虹梁大瓶束、虹梁上に皿斗と徐々に積上げ
高を低める。虹梁袖はそれぞれ根肘木で受け、なかでも拝殿
則柱筋の根肘木は籠彫りの持送り状をなす。
■現存する棟札類
【室町時代】 嘉吉二年(1442)九月二十六日御造営
文明六年(1474)九月二十一日修造
永正三年(1606)九月八日御造営
【江戸期以降】 明暦元年(1655)、元禄六年(1693)
享保二年(1717)、天保十一年(1840)
嘉永七年(1854)[2枚]、明治十七年(1884)
※以上10点、京都府指定有形文化財(古文書)
とある。
神社謹製の蓬莱の庭説明書によると
蓬莱(とこよ)の庭
嶋子(くしき)が神女(おとめ)に誘(いざな)われて水乃江里(みずのえのさと)より海の彼方の蓬莱(とこよ)に
渡る物語を、丹後国風土記逸文(いつぶん)は次のように記している。
「その地(ところ)は玉(たま)を敷(し)けるが如(ごと)く 闕壹奄映(みかどきらきら)しく樓壹玲瓏(たかどのかがや)けり
目にも見(み)ざりし所(ところ) 耳(みみ)にも聞(き)かざりし所(ところ)なり」云々
これは「とこよ」の有様を記したものだが、その他に
「蓬山」「神仙」「仙都」と書いて「とこよ」と読ませ、
日本書紀、浦嶋口伝記では「蓬莱山」を「とこよ」、
万葉集では「常世」を「とこよ」としている。
これは、古代中国の神仙(しんせん)思想の影響を強く受けた
ものであり、この庭はこれらの文献及び浦嶋明神絵巻(重文)に
もとづいてつくられた。
浦嶋神社 社務所
とある。
神社謹製の北前船の謂れによると
戦国時代以降、貨物及び旅人の
輸送には大型の甲帆船が利用される
様になり、其の中で北前船は一定の
航路を航海された船の呼び名です
文献に依ると北陸、奥羽地方から
来た船、すなはち西廻り航路を経由して
丹後、但馬、出雲、石見の山陰地方
から瀬戸内海に入って行ったと言われて
います
この北前船は松本荘六船工匠に
よって造られたもので
十九世紀頃迄常世の浜の沖合を
良く航行した大型の甲帆船で
この地方の産物等を積み込み
経済に貢献したと言われます
奉納に就いては海上安全
豊漁祈願、家運隆祥家内安全を
いのり奉納されました
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
宇良神社
ご祭神は、浦島子、(配祀)月読命・祓戸大神。
天長2年(825年)はじめて浦島子を祀る。
弘安3年(1280年)遷宮。
永正3年(1506年)造営。
明治6年(1873年)郷社。
明治40年(1907年)神饌幣帛料供進神社指定。
浦嶋神社と称されている。
淳和天皇の天長2年(825年)「浦島太郎」として知られる浦嶋子を筒川大明神として祀る。
付近は古くから水江の里と呼ばれ、浦島ゆかりの地として常世、鞨皷、曾布谷、今田などの多くの史蹟を殘しているといわれる。
とある。
浦島太郎伝説で有名、神社名は浦嶋神社 または 宇良神社という。
創建時の筒川大明神という名前は裏手を流れる筒川より名付けられたのだろうか。
社殿が北向きなのが珍しいが、これは北極星信仰とある。
延喜式神名帳の宇良神社に否定される論社のひとつで見所一杯の神社だ。
創建の日まで特定されているのが素晴らしい、日付まで表示されているのはほとんど見たことがない。
なんと言っても浦島太郎伝説が有名だが、当社は海からは1km以上離れていて海が見えるわけでもないのが興味深い。
創建時に筒川大明神と名乗ったように裏手を流れる筒川や浦嶋子の居住地との関係が深いのだろう。
浦嶋神社へのアプローチは非常に分かりやすい。
国道178号線を伊根町から北へ走ると浦嶋交差点に案内看板が出ているので分かりやすい。
国道178号線より東へ入り右に浦嶋公園があり左に駐車場がある。
社殿は拝殿本殿ともに端正で比較的シンプル。
現社殿は元治元年(1864)に火災で消失、明治17年(1884)に再建されたとある。
社殿には中井権次正胤の彫り物が施されている。
本殿は神明造系の建物で棟持柱が省略された形式となっており素朴な印象を受ける。
ともに国の重要文化財指定となっていて必見だ。
また社殿が北向きとなっており珍しい。
社伝によると「社殿が北極星を向いて造営されており、道教の影響から北極星信仰がある」とある。
ここからは管理人の勝手な妄想だが、多田源氏と関係があるのかもしれない。
清和源氏の始祖である源(多田)満仲は妙見信仰を持っており歴代はこれを継承した。
その清和源氏の祖廟である多田神社とご神紋が同じ五三の桐となっている。
この流れかどうか不明だが足利尊氏も妙見信仰を持っていたと思われ、当社の社殿が北向きであることと関係があるのではないかと思っている。
これはあくまで管理人の想像だが、なぜこうなっているのか知りたいものだ。
浦島太郎伝説の神社。
注意点
特になし。
訪問ノート
訪問日 :2018/8/29
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。