比定社:生野神社
式内社コード:265-010
神名帳社名 :生野神社、イクノノ
社 格:小
所 在 地 :620-0821 京都府福知山市三俣
Plus Code :7635+GV 福知山市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
三俣の集落の中の山裾に鎮座。
京都府道522号三俣綾部線に道しるべがあるが小さくて見えない。
閉校した旧上六人部小学校(かみむとべ)のすぐ北側なので比較的分かりやすい。
神社東側に駐車スペースがある。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
雰囲気の良い社域。
本殿に施された中井権次一統の中井清次良正用の彫り物。
写真
感想
氏子総代一同謹製の社記によると
延喜式式内社 生野神社記(御幣神社、みてぐらはん)
式内社とは延長五年(九二七)藤原忠平によって調査され、延喜式目に選上登録された中央政府にも相当名の知られた神社のことで、当市内に四座ある。
祭神は天鈿女命(あまのうずめのみこと)で平和な舞踊や音楽を愛好されると共に、九州から伊勢まで男神を無事送り届けられたという勇ましい女神様でもある。
徳川時代の参勤交代には、当地方の領主綾部藩の九鬼氏をはじめ、福知山、舞鶴、宮津、峰山、豊岡、和田山等の大名が行列美々しく此の道を通る際は、必ず参拝して長途旅行の安全を祈願し、神前の榊の枝葉を戴いて御守とし、帰途これを返納したので以来、旅行、出張、転勤、外遊等の生活と道中安全の神様として有名である。
社殿は慶長年間(一六〇〇)関ケ原の戦の頃、社殿の改築があり、更に元禄年間(一七〇〇)忠臣蔵討入の頃、神祇管領より正一位を授けられているが社殿は後の山上にあった。
明治六年(一八七三)生野神社と改称、昭和四年(一九二九)拝殿新築、昭和八年(一九三三)社務所を建てた。
御幣神社 鎌倉時代(一一〇〇)から江戸末期(一八〇〇)までは、みてぐらはんと称えていた。これは、綾部藩主九鬼氏が生野に倉庫を建て上納米を取立てていたが、毎年当神社へ御供米を奉納していたので、御幣(みてぐら)と呼ぶようになったという。
祭日は春季大祭四月十一日で、子供相撲や、剣道大会が奉納され、秋季大祭は十月十日で市内随一の、重量一一二五キロで、八〇人の氏子が奉仕する金色燦然たる御神輿と、子供樽御神輿や御幣太鼓三基が綾部藩奉納の武具行列と共に、勇壮な奴毛槍道中が繰り広げられるのも名高い。
氏子は三俣、池田、堀越、正後寺、坂室の約二五〇戸で、全地域を御神輿が巡行し、各区の御旅所で休憩するが、江戸中期には、下六人部学区の多保市の西和田ノ前という所に六メートル四方位の岩塚があり、その附辺が、中六人部学区の一宮神社の御神輿と、上六人部字区の御幣神社の御神輿と、立会祭礼の御旅所てあったともいう。
御加護 いづれにしても、地域社会の発展と商売繁盛、家内安全、学業成就、歌舞音曲の上達や旅行道中交通安全の神様として、御加護はすばらしいものがある。
謹白
昭和五八年(一九八三)十月十日
奉献 氏子総代一同
とある
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、天鈿女命。
由緒不詳。
慶長年間(1596~1615年)社殿の改築。
元禄年間(1688~1704年)神祇管領より正一位。
明治6年(1873年)生野神社と改称。
昭和4年(1929年)拝殿を改築(追加)。
昭和8年(1933年)社務所を新築(追加)。
江戸時代までは「御幣(みてぐら)神社」と呼ばれていた。
とある。
南に山陰道(国道9号線)、すぐ東に綾部への街道だったと思われる京都府道522号三俣綾部線が通り、かつては交通の要衝だったと思われる。
当地は、かつて六部郷(むとべごう)・六人部村・生野庄という場所であった。
『小倉百人一首』・小式部内侍の歌「大江山 いく野の道の 遠ければ まだ文も見ず 天のはし立」に詠まれる「いく野」である。
創建は不明、生野庄の氏神であるということで生野神社という名称であろうと言われている。
さらに、元々は現在地ではなく山の上にあったということだ(旧社地の情報は無い、磐座があるらしい)。
江戸期には九鬼氏の影響で御幣神社となり、明治期に生野神社として改められたということになっている。
九鬼氏が綾部藩として統治したのは江戸時代になってからであるから九鬼氏との関係は比較的新しい。
九鬼氏は江戸時代に鳥羽より配置換えになり、丹波地方で三田と綾部に再配置となった、今でも色濃く影響を与えている。
社殿は江戸期の建築だと思われるが詳細はハッキリしないが状態は非常に良い。
本殿には中井権次一統の権次橘正貞の弟、中井清次良正用の彫り物が施されており見ごたえがある。
祭事も盛んに行われているようで非常に大事にされている様子が伝わってくる。
長く残していきたい神社だ。
注意点
特になし。
訪問ノート
訪問日 :2019/7/6
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。