265-010_生野神社

比定社:生野神社

式内社コード:265-010
神名帳社名:生野神社、イクノノ
社格:小
所在地:620-0821 京都府福知山市三俣
plus code:7635+GV 福知山市、京都府
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

三俣の集落の中の山裾に鎮座。
京都府道522号三俣綾部線に道しるべがあるが小さくて見えない。
閉校した旧上六人部小学校(かみむとべ)のすぐ北側なので比較的分かりやすい。
南に山陰道(国道9号線)、すぐ東に綾部への街道だったと思われる京都府道522号三俣綾部線が通り、かつては交通の要衝だったと思われる。
神社東側に駐車スペースがある。

ハイライト

雰囲気の良い社域。
本殿に施された中井権次一統の中井清次良正用の彫り物。

写真

生野神社を正面より望む。
生野神社を正面より望む。
右側(東)を望む。東側には京都府道522号三俣綾部線があり、茅の木峠を通り綾部へ抜けることができる。神社の東側に駐車スペースがある。
右側(東)を望む。東側には京都府道522号三俣綾部線があり、茅の木峠を通り綾部へ抜けることができる。神社の東側に駐車スペースがある。
前には小高い丘の上に閉校した旧上六人部小学校(かみむとべ)がある。少々位置関係に違和感がある。
前には小高い丘の上に閉校した旧上六人部小学校(かみむとべ)がある。少々位置関係に違和感がある。
左側(西)を望む。いつ現在地に遷座したのか不明だが、この位置も山陰道からは少し離れているので違和感がある。想像するに小学校の位置にあったのかもしれない。つまり山の上→小学校→現在地という感じ。
左側(西)を望む。いつ現在地に遷座したのか不明だが、この位置も山陰道からは少し離れているので違和感がある。想像するに小学校の位置にあったのかもしれない。つまり山の上→小学校→現在地という感じ。
氏子総代一同謹製の由緒書。少々不正確なところもあるが、こうして記録を残していくことは貴重なことだ。
氏子総代一同謹製の由緒書。少々不正確なところもあるが、こうして記録を残していくことは貴重なことだ。
社標には、天田郡五座ノ其一、式内とある。
社標には、天田郡五座ノ其一、式内とある。
鳥居をくぐると広場になっており正面には1段高い位置に拝殿があり。拝殿を取り囲む巨木が歴史を感じさせる。
鳥居をくぐると広場になっており正面には1段高い位置に拝殿があり。拝殿を取り囲む巨木が歴史を感じさせる。
広場の右側を望む。近隣の方の憩いの場になっているようだ。
広場の右側を望む。近隣の方の憩いの場になっているようだ。
広場の左側には多くの建物がある。
広場の左側には多くの建物がある。
手水舎。
手水舎。
拝殿を正面より望む。巨木に囲まれ良い雰囲気。拝殿にも彫り物が施されているのが分かる。
拝殿を正面より望む。巨木に囲まれ良い雰囲気。拝殿にも彫り物が施されているのが分かる。
拝殿、本殿ともそれほど大きくはないが立派な作りで非常に状態が良い。
拝殿、本殿ともそれほど大きくはないが立派な作りで非常に状態が良い。
拝殿と本殿を右側から望む。
拝殿と本殿を右側から望む。
拝殿と本殿を左側から望む。
拝殿と本殿を左側から望む。
本殿を右側から望む。かなり凝った彫り物と組物が施されているのが分かる。中井権次一統の権次橘正貞の弟、中井清次良正用の彫り物ということだ。
本殿を右側から望む。かなり凝った彫り物と組物が施されているのが分かる。中井権次一統の権次橘正貞の弟、中井清次良正用の彫り物ということだ。
本殿は天井部分だけではなく、台座部分にも彫り物があり珍しい。また脇障子が斜めに取り付けられている(普通は正面を向いている)。
本殿は天井部分だけではなく、台座部分にも彫り物があり珍しい。また脇障子が斜めに取り付けられている(普通は正面を向いている)。
本殿の後ろ側にも彫り物がある。
本殿の後ろ側にも彫り物がある。
本殿を右側から望む。彫り物組物ともに凝った作り。
本殿を右側から望む。彫り物組物ともに凝った作り。
本殿右後ろより拝殿を望む。
本殿右後ろより拝殿を望む。
拝殿を右側から望む。掃除道具が整理されているので頻繁に手入れされているようだ。
拝殿を右側から望む。掃除道具が整理されているので頻繁に手入れされているようだ。
拝殿と本殿を左側から望む。屋根の形が美しい。
拝殿と本殿を左側から望む。屋根の形が美しい。
拝殿より鳥居を望む。
拝殿より鳥居を望む。
広場の左側にある社務所を望む。由緒書によると昭和8年の建築とある、左側の窓の造形が美しい。
広場の左側にある社務所を望む。由緒書によると昭和8年の建築とある、左側の窓の造形が美しい。

感想

氏子総代一同謹製の社記によると

延喜式 式内社
生野神社記(御幣神社、みてぐらはん)
式内社とは延長五年(九二七)藤原忠平によって調査され、延喜式目に選上登録された中央政府にも相当名の知られた神社のことで、当市内に四座ある。

祭神は天鈿女命で平和な舞踊や音楽を愛好されると共に、九州から伊勢まで男神を無事送り届けられたという勇ましい女神様でもある。
徳川時代の参勤交代には、当地方の領主綾部藩の九鬼氏をはじめ、福知山、舞鶴、宮津、峰山、豊岡、和田山等の大名が行列美々しく此の道を通る際は、必ず参拝して長途旅行の安全を祈願し、神前の榊の枝葉を戴いて御守とし、帰途これを返納したので以来、旅行、出張、転勤、外遊等の生活と道中安全の神様として有名である。

社殿は慶長年間(一六〇〇)関ケ原の戦の頃、社殿の改築があり、更に元禄年間(一七〇〇)忠臣蔵討入の頃、神祇管領より正一位を授けられているが社殿は後の山上にあった。
明治六年(一八七三)生野神社と改称、昭和四年(一九二九)拝殿新築、昭和八年(一九三三)社務所を建てた。

御幣神社 鎌倉時代(一一〇〇)から江戸末期(一八〇〇)までは、みてぐらはんと称えていた。これは、綾部藩主九鬼氏が生野に倉庫を建て上納米を取立てていたが、毎年当神社へ御供米を奉納していたので、御幣(みてぐら)と呼ぶようになったという。

祭日は春季大祭四月十一日で、子供相撲や、剣道大会が奉納され、秋季大祭は十月十日で市内随一の、重量一一二五キロで、八〇人の氏子が奉仕する金色燦然たる御神輿と、子供樽御神輿や御幣太鼓三基が綾部藩奉納の武具行列と共に、勇壮な奴毛槍道中が繰り広げられるのも名高い。

氏子は三俣、池田、堀越、正後寺、坂室の約二五〇戸で、全地域を御神輿が巡行し、各区の御旅所で休憩するが、江戸中期には、下六人部学区の多保市の西和田ノ前という所に六メートル四方位の岩塚があり、その附辺が、中六人部学区の一宮神社の御神輿と、上六人部字区の御幣神社の御神輿と、立会祭礼の御旅所てあったともいう。

御加護 いづれにしても、地域社会の発展と商売繁盛、家内安全、学業成就、歌舞音曲の上達や旅行道中交通安全の神様として、御加護はすばらしいものがある。
謹白
昭和五八年(一九八三)十月十日
奉献 氏子総代一同

とある

創建は不明、生野庄の氏神であるということで生野神社という名称であろうと想像できる。
さらに元々は現在地ではなく山の上にあったということだ(旧社地の情報は無い、磐座があるらしい)。
江戸期には九鬼氏の影響で御幣神社となり、明治期に生野神社として改められたということになっている。

九鬼氏が綾部藩として統治したのは江戸時代になってからであるから九鬼氏との関係は比較的新しい。
九鬼氏は江戸時代に鳥羽より配置換えになり、丹波地方で三田と綾部に再配置となった、今でも色濃く影響を与えている。

社殿は江戸期の建築だと思われるが詳細はハッキリしないが状態は非常に良い。
本殿には中井権次一統の権次橘正貞の弟、中井清次良正用の彫り物が施されており見ごたえがある。

祭事も盛んに行われているようで非常に大事にされている様子が伝わってくる。
長く残していきたい神社だ。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日:2019/7/6
交通手段:クルマで訪問
カメラ:RX100M3

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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