268-040_須代神社

比定社:須代神社

式内社コード:268-040
神名帳社名 :須代神社、スシロノ
社    格:小
所 在 地 :629-2411 京都府与謝郡与謝野町明石599
Plus Code  :G487+CF 与謝野町、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「すしろじんじゃ」と読む、地名の明石は「あけし」と読む。
明石集落の中央部の東の山裾に鎮座。
国道176号線より2本東側へ入った場所に一の鳥居と石灯籠があるので比較的見つけやすい。
一の鳥居からは東へ300メートルほどの突き当りにある。
神社前に駐車可能。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境3】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

一の鳥居からの長い参道。
古代遺跡との関係。

写真

須代神社から西へ300メートルほどに一の鳥居と石灯籠がある。まっすぐ行けば神社に至る。後ろの山が銅鐸が発見された山。
須代神社から西へ300メートルほどに一の鳥居と石灯籠がある。まっすぐ行けば神社に至る。後ろの山が銅鐸が発見された山。
一の鳥居の横にある与謝野町教育委員会謹製の銅鐸の説明書き。周辺は西向け斜面全体が弥生時代中期中頃(紀元前一世紀頃)の環濠集落跡とされている。
一の鳥居の横にある与謝野町教育委員会謹製の銅鐸の説明書き。周辺は西向け斜面全体が弥生時代中期中頃(紀元前一世紀頃)の環濠集落跡とされている。
参道を行くと拝殿が見えてくる。
参道を行くと拝殿が見えてくる。
拝殿と本殿は広場より1段高いところにある。左側は倉庫のような建物。
拝殿と本殿は広場より1段高いところにある。左側は倉庫のような建物。
神社謹製の木造神像の説明書。由緒については詳細不明だ。
神社謹製の木造神像の説明書。由緒については詳細不明だ。
加悦町教育委員会謹製の銅鐸に関しての説明書き。どうしても銅鐸のお話しが多くなっていて神社自体の説明が無い。
加悦町教育委員会謹製の銅鐸に関しての説明書き。どうしても銅鐸のお話しが多くなっていて神社自体の説明が無い。
拝殿を右側から望む。立派で大きい拝殿だ。
拝殿を右側から望む。立派で大きい拝殿だ。
拝殿の後ろには回廊で本殿と繋がっている。本殿は覆屋に入っている。
拝殿の後ろには回廊で本殿と繋がっている。本殿は覆屋に入っている。
拝殿を左側から望む。
拝殿を左側から望む。
覆屋に入った本殿を望む。寛保3年(1743年)に現在地に遷座したと言われている。状態は良い。
覆屋に入った本殿を望む。寛保3年(1743年)に現在地に遷座したと言われている。状態は良い。

感想

神社謹製の木造神像説明書によると

須代神社
彫刻 木造神像(もくぞうしんぞう) 男神像三躯・女神像一躯
 三〇~四五cm 鎌倉時代
 須代神社は、平安時代中頃10世紀に成立した延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)に社名が記載されている歴史の古い神社である。
 本神社の男・女神像はともに虫害が著しく面相も定かではない。
男神像のうち二躯は衣冠束帯(※いかんそくたい)姿のもので、一躯は手に笏(しゃく)をもつ姿に彫られている。四躯とも桧を用いた一木造りの小像で、同じ頃に制作されたものであろう。
 彫刻 木造狛犬(もくぞうこまいぬ) 一躯
  像高 四三cm 鎌倉時代
 狛犬は大きく虫に食われ、面相を知ることはできない。
制作は桧を用いた一木造りで、神像と同じ材、よく似た作風を示していることから同じ時代に造られたものと思われる。
 ※衣冠束帯 宮中の行事に着る正服

とある。

加悦町教育委員会謹製の須代銅鐸出土地説明書によると

須代(すしろ)銅鐸出土地
 須代銅鐸は明治二六年(一八九三)十月十三日、大雨の後、須代神社の裏山の丘陵南斜面が崩れた場所より露出した状態で発見された。
出土した銅鐸は表面に流水文様がある「扁平鈕式」と呼ばれるもので、高さ四五センチをはかる。
 一般的に銅鐸は収穫の豊作をいのり、暮らしの繁栄を願うまつりに使ったものと考えられている。須代銅鐸出土地の前面には弥生時代中期から始まる須代遺跡があり、この遺跡はこれまでの調査からムラのまわりに幅五mの溝をめぐらす巨大な環濠集落とみられる。
 おそらく、この銅鐸も須代ムラが所有していたものを考えられる。
 また、出土地には銅鐸出土地を示す標柱が立てられている。なお、銅鐸は京都国立博物館で保管されている。
  平成六年三月 加悦町教育委員会

とある。

与謝野町教育委員会謹製の須代銅鐸の説明書によると

国重要美術品
 銅鐸(どうたく)[須代(すしろ)銅鐸]
  昭和八年指定
 銅鐸は、日本に稲作が広がった弥生(やよい)時代の特徴で、豊作などを祈る祭祀の道具と考えられています。
 須代銅鐸は、明治二六年(一八九三)に須代神社裏山の斜面から発見されました。高さ四五.七センチ、鐸身には流水文様を描き、吊(つ)り手(鈕ちゅう)には渦巻と魚の文様が鋳出されています。弥生時代中期中頃(紀元前一世紀頃)に釣鐘として作られた「聞く銅鐸」と考えられています。
 当時の拠点集落の典型は、周囲に大溝を巡らせた「環濠(かんごう)集落」と言われるものです。須代銅鐸では、眼前に広がる須代遺跡で環濠跡が発見されています。
 須代銅鐸と須代遺跡は、銅鐸と拠点集落の関係がわかる事例として、高い歴史的価値を持っています。
 平成二十四年三月 与謝野町教育委員会

とある。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、須勢理姫命・天明玉命・天太玉命・倉稻魂命。
元慶4年(880年)従五位下「三代実録」。
寛保3年(1743年)今の地に幸遷再建。
明治6年(1873年)村社(追加)。
明治26年(1893年)銅鐸出土(追加)。

元鹿之谷に鎮座、寛保3年(1743年)8月今の地に幸遷再建。
この地より2町ほど北の鹿之谷に鎮座していた。
明治26年10月13日須代神社の背後の丘陵中腹から須代銅鐸が発見された。
銅鐸は弥生時代中期につくられ、高さ50cm、表面には流文水が飾られて美しい緑色をしている。
昭和9年9月1日に国の重要美術品に指定された。

とある。

由緒、遷座の詳細等々の情報は全く無い神社。

当地は、弥生時代中期から始まる須代遺跡、さらに多数の古墳が周囲に存在する古くより開けた地域。
ちなみに、銅鐸の説明書に出てくる「重要美術品」とは戦前の旧「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」により指定された物件のことを言う。
須代神社は、もとは鹿之谷の呼ばれる場所に鎮座していたとのことだが詳細は不明だ。
比較的新しい時代、寛保3年(1743年)に現在地に遷座している。

由緒等は全く分からないのだが、個人的にはご祭神の須勢理姫命(すせりびめのみこと)と須代(すしろ)の読みに共通点を感じてしまう。

須代神社へのアプローチは比較的容易、国道176号線より2本東側へ入った場所に一の鳥居と石灯籠がある。
一の鳥居からは東へ300メートルほどの突き当りにあり、周辺に駐車可能。

社域に入ると広場があり、2段高くなった場所に社殿がある。
社殿は拝殿と覆屋に入った本殿で構成され回廊で繋がっている。
本殿は寛保3年(1743年)の遷座時に建築と思われ装飾の少ない質実剛健なイメージのもの。
拝殿・本殿共に風雪により色褪せてはいるが比較的状態は良いようだ。

与謝野町春の例祭として加悦谷祭が開催されている。
加悦谷全体を巻き込んでの祭りの行事で、多数の神社が参加している、素晴らしいことだ。
明石区では、日吉神社・須代神社により次のような祭礼を行うようだ。
神楽舞・太鼓屋台巡行(日吉山)・太鼓屋台巡行・太鼓屋台巡行(須代山)。

弥生遺跡や古墳がたくさんある場所に鎮座する神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2018/4/21
交通手段:クルマで訪問
カメラ :DMC-TZ60