311-060_中臣印達神社、311-050_阿波遅神社(合祀)

比定社:中臣印達神社

式内社コード:311-060
神名帳社名 :中臣印達神社、ナカトミイタテノ
社    格:名神大
所 在 地 :679-4152 兵庫県たつの市揖保町中臣1360
Plus Code  :RGRR+97 たつの市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

合祀:阿波遅神社

式内社コード:311-050
神名帳社名 :阿波遅神社、アハチノ
社    格:小

アプローチ&ロケーション

「なかとみいだてじんじゃ」と読む、地名の揖保町中臣は「いぼちょうなかじん」と読む。
揖保川の東岸の中臣山(ちゅうじんやま)の山腹に鎮座。
南600メートルほどの場所に鳥居があり参道が北へ続いている。
周囲は住宅地で道が狭いため十分に注意する必要がある。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

「粒丘」に比定される背後の中臣山。
地名の中臣は「なかじん」と読むこと。

写真

南側の鳥居をくぐって500メートルほど集落の一番奥のにある中臣印達神社の入り口に到着する。
南側の鳥居をくぐって500メートルほど集落の一番奥のにある中臣印達神社の入り口に到着する。
同じ場所から南側の鳥居方向を望む。かつてはこれが参道だったのだろう。周囲は住宅となっている。
同じ場所から南側の鳥居方向を望む。かつてはこれが参道だったのだろう。周囲は住宅となっている。
スロープを登ると広場がある。
スロープを登ると広場がある。
広場の右手を望む。
広場の右手を望む。
広場右手の奥には式内中臣印達神社・阿波遅神社の石碑と式内縣社中臣印達神社饌米田の石碑が並んで建っている。
広場右手の奥には式内中臣印達神社・阿波遅神社の石碑と式内縣社中臣印達神社饌米田の石碑が並んで建っている。
さらに右手には舞台と思われる建物。
さらに右手には舞台と思われる建物。
左手には「粒丘」の石碑がある。背後の山で天日槍と葦原志挙乎のやり取りがあったのだと思うと感慨深い。
左手には「粒丘」の石碑がある。背後の山で天日槍と葦原志挙乎のやり取りがあったのだと思うと感慨深い。
神社謹製の説明書き。ご祭神は五十猛命とある。射楯兵主神社の射楯大神(いたてのおおかみ)と同じだ。
神社謹製の説明書き。ご祭神は五十猛命とある。射楯兵主神社の射楯大神(いたてのおおかみ)と同じだ。
手水舎。
手水舎。
広場よりもう1段上に拝殿がある。
広場よりもう1段上に拝殿がある。
拝殿には見事な彫り物が施されていて一見の価値がある。
拝殿には見事な彫り物が施されていて一見の価値がある。
拝殿の内部の様子、非常にきれいに保たれている。中臣印達神社の扁額がある。
拝殿の内部の様子、非常にきれいに保たれている。中臣印達神社の扁額がある。
拝殿を左側より望む。社域はかなり濃い社叢となっていて気持ちの良い空間だ。
拝殿を左側より望む。社域はかなり濃い社叢となっていて気持ちの良い空間だ。
拝殿後方の本殿を右側より望む。残念ながら垣で囲まれ近づくことはできないが非常に立派で状態は良い。記録には万延元年(1860年)造営とある。
拝殿後方の本殿を右側より望む。残念ながら垣で囲まれ近づくことはできないが非常に立派で状態は良い。記録には万延元年(1860年)造営とある。
拝殿を左側より望む。立派で大きい。
拝殿を左側より望む。立派で大きい。
本殿を左側より望む。
本殿を左側より望む。
本殿の左側には粒坐天照神社の石碑が立っている(論社の一つになっている)。
本殿の左側には粒坐天照神社の石碑が立っている(論社の一つになっている)。
拝殿前より賛同を望む。
拝殿前より賛同を望む。
広場より入口を望む。
広場より入口を望む。
少し離れた場所にある北側の鳥居。石碑には式内中臣印達神社 名神大とある。
少し離れた場所にある北側の鳥居。石碑には式内中臣印達神社 名神大とある。

感想


神社謹製の説明書きには

中臣印達神社(なかとみいだて)

御祭神 五十猛命(いそたけるのかみ)(素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子)
創 建 宝亀元年(世紀七七〇年)(ほうき)
例 祭 四月十日 十月十日
社 格 『延喜式』に名神大神とあり、
    古社であり、大神でもある。
    (『延喜式』第十巻五十七枚所蔵)
五十猛神は父神である素戔
嗚尊とともに、天照大神(あまてらすおおみかみ)が驚きに
なられるくらいの、又、国内が
混乱するぐらいの新しい文化文明・
文明を大陸より移入。それ以降、
国内の農耕・文化・文明は大変
な発展をとげたとされる。
これらより、ご霊験灼(あらたか)な神と信
仰が篤い(あつい)。そして、大陸・朝鮮
半島より樹木の種(たね)を持ち帰った
ことにより、植林の神とも伝え
られている。
近年では困った時の神頼みの神
社として、一言(ひとこと)心願成就(じょうじゅ)が密か
(ひそ)に人気である。

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、五十猛神。

宝亀元年(770年)6月15日創立。
大同元年(806年)中臣神に神封五戸(修正)。
正徳3年(1713年)3月造営。
万延元年(1860年)造営。
明治10年(1877年)10月10日、「中臣印達神社」に復称。
明治12年(1879年)5月15日、県社。
大正5年(1916年)4月11日、神饌幣帛料供進社指定。

江戸時代までは「十二所権現」「蔵王権現」と呼ばれていた。

播磨国風土記にある天日槍と葦原志挙乎の国占伝承で名高い「粒丘」に比定されている。
境内には式内阿波遅神社が合祀されている。
境内社に式内粒坐天照神社がある。
近世に至るまで社名を蔵王権現と称し、明治10年10月10日願済の上創立当時の社名である中臣印達神社に復称する。

とある。


兵庫県神社庁によると。

主祭神:五十猛神(イタケルノカミ)

由 緒:
 創建は宝亀元年(770)。『延喜式』に名神大神とあり、古社であり、大神でもある。
 五十猛神は父神であられる素戔鳴尊とともに天照大神が驚きになられるぐらいの、又、国内が混乱するぐらいの新しい文化・文明を大陸より移入。それ以降、国内の農耕・文化・文明は大変な発展をとげたとされる。
 これより、ご霊験あらたかな神と信仰が篤い。そして、大陸・朝鮮半島より樹木の種を持ち帰ったことにより、植林の神とも伝えられている。
 近年では困った時の神頼みの神社として、一言心願成就が密かに人気である。

とある。


中臣印達神社のある当地は、揖保川東岸にある中臣山を中心とした地域となる。
中臣山は『播磨国風土記』の「粒丘」に比定されている。
ここで天日槍と葦原志挙乎の間でなにやらやり取りがあったと想像すると楽しい。
すぐ西側を揖保川が流れており水運に恵まれた土地だったと思われる。
周辺には、桜ヶ坪遺跡・中臣山1~3号墳・中臣山遺跡・中臣寺垣内遺跡・宝林寺北遺跡等がある(兵庫県考古博物館資料による)。

中臣印達神社(なかとみいだてじんじゃ)の名前で気になるのは、地名の中臣は「なかじん」と読むことだ。
中臣氏とは関係があるようには思えない(個人的見解です)。
印達(いだて)のほうは、本来は射楯(いたて)ではないだろうか、310-010_射楯兵主神社と関係がありそうである(個人的見解です)。

中臣印達神社のご祭神は、五十猛神。
310-010_射楯兵主神社では、射楯大神(いたてのおおかみ)すなわち五十猛命(いたけるのみこと)で同様で共通している。
きっと中臣に鎮座する射楯大神ということなのではないだろうか(個人的見解です)。
ただ気になるのは310-010_射楯兵主神社は小社、中臣印達神社は名神大社であること、謎は深い。
また合祀されているとされる阿波遅神社については、その経緯や年代は全く不明。

中臣印達神社へのアプローチは2号線の西構(にしがまえ)の交差点から北へ入るのが分かりやすい。
西構(にしがまえ)の交差点から北へ700メートルほど進み左(西)へ入り250メートルほどで南側の鳥居前に到着。
南側鳥居からは集落の中を500メートルほどで到着となる。
ちなみに北側にも鳥居があるのだがアプローチの道はかなり狭い。

集落の突き当たりから参道を行くとゆるい坂を登って拝殿前の広場に出る。
この広場の右手には社殿に向かって舞台、左手には手水舎がある。
右手には式内中臣印達神社・阿波遅神社の石碑と式内縣社中臣印達神社饌米田の石碑が並んで建っている。
左手の手水舎のところには「粒丘」の石碑があり背後の山で天日槍と葦原志挙乎のやり取りがあったのだと思うと感慨深い。

さらに石段を登ると拝殿がある。
社殿は非常に立派で万延元年(1860年)造営の記録が残る、式内中臣印達神社の扁額が掛かり彫り物が素晴らしい。
拝殿内部も大変きれいに保たれており素晴らしい状態だ。
拝殿の後ろの本殿は垣に囲まれ残念ながら近づくことはできないが立派で大きく状態も良い。
本殿左横には粒坐天照神社(論社のひとつになっている)の石碑が建っている。

思うにやはり「粒丘」の存在が大きいように思う。
このことから中臣印達神社は名神大社なのではないだろうか(個人的見解です)。
さらに射楯兵主神社との関係もかつては中臣印達神社が主だったのではなかろうか(個人的見解です)。
想像は膨らむがハッキリとは分からない。

播磨国風土記の「粒丘」に鎮座する神社。

注意点

駐車場は見当たらないので注意。
周辺の道路は狭いので注意。

訪問ノート

訪問日 :2019/3/2
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3