266-090_伊也神社

比定社:伊也神社

式内社コード:266-090
神名帳社名 :伊也神社、イヤノ
社    格:小
所 在 地 :629-1256 京都府綾部市広瀬町城山14-3
Plus Code  :8829+7C 綾部市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

いやじんじゃと読む。
広瀬町集落の西の端の上林川の東岸の山の中腹に鎮座。
山家城址公園の中にある。
国道27号線に山家城址公園の案内看板があるので分かりやすい。
クルマは神社横に駐車できるスペースがある。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

時の支配者や統治者との関係。

写真

伊也神社を正面から望む、特徴的な鳥居。背後の山に甲ケ峰城跡がある。
伊也神社を正面から望む、特徴的な鳥居。背後の山に甲ケ峰城跡がある。
右側(南)を望む、右手が山家城址公園。
右側(南)を望む、右手が山家城址公園。
正面には山家城址公園があり、こちらも歴史好きなら楽しめる。
正面には山家城址公園があり、こちらも歴史好きなら楽しめる。
左側(北)を望む、駐車スペースがある。
左側(北)を望む、駐車スペースがある。
一の鳥居を望む、なんだか珍しい形状、近年の改修の結果のようだ。
一の鳥居を望む、なんだか珍しい形状、近年の改修の結果のようだ。
社標には式内とある。
社標には式内とある。
社標の裏には大正9年と読める。
社標の裏には大正9年と読める。
一の鳥居をくぐると整備された階段を登る、すぐ社殿が見える。
一の鳥居をくぐると整備された階段を登る、すぐ社殿が見える。
社殿を正面より望む、二の鳥居は鉄製、本殿はブロック塀の覆屋に入っている。
社殿を正面より望む、二の鳥居は鉄製、本殿はブロック塀の覆屋に入っている。
ブロック塀が少々興ざめだ。背後には巨大な岩がある。
ブロック塀が少々興ざめだ。背後には巨大な岩がある。
覆屋の中の本殿、キチンと手入れされていてきれい。
覆屋の中の本殿、キチンと手入れされていてきれい。
記録には明治4年(1871年)再建とある。彫り物も施されている。
記録には明治4年(1871年)再建とある。彫り物も施されている。
背後には巨大な岩、由緒には盤座の清地とある。
背後には巨大な岩、由緒には盤座の清地とある。
本殿の下より一の鳥居を望む。
本殿の下より一の鳥居を望む。

感想

綾部市観光協会謹製の由緒書によると

延㐂式内 伊也神社(いや)
鎮座 廣瀬町城山一四番地の三
境内 六九四坪
祭神 大日霊貴尊、素盞鳴尊、月読見尊
縁起 崇神天皇の御代丹波道主命この地に先臨し給い甲ヶ峯の麓に宮を築き祀られたのが初で後伊也神社を勧進し何鹿郡延喜式十二座の一に数えられている。
天正年中火災により焼失その跡を御社(ごしゃ)と呼び居りしが文化七年(一八一〇)十月従二位清原宣光公願成就により現在地盤座の清地に御本殿を移転新築された社である。
明治三年類焼翌年再建昭和五十五年修復す。
綾部市観光協会

とある。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る。

御祭神は、大日靈売尊・月夜見尊・素盞嗚尊。
 他に次の説がある。
 『神名帳考証』大屋彦神
崇神天皇10年(BC86年、諸説あり)創立。
天正年間(1573~1592年)兵火で焼失。
文化7年(1810年)現在地に移転新築。
明治3年(1870年)山家陣屋は全焼し類焼焼失。
明治4年(1871年)再建。
明治6年(1873年)式内社認定。
江戸時代までは「稻荷社」と呼ばれていた。
崇神天皇の10年に、道主命が丹波国何鹿郡に来て、甲ケ峰の麓(広瀬町の北側裏山の伊也ケ谷〈伊神〉、標高356mの東端、湧水のある小平な所)に宮殿を建立し三神を祭った。
道主命の薨去後伊也神社を勸請したという。

とある。

時の支配者や統治者と共に歴史を歩んだ神社。
やはり当社も中世以前の記録があまり残っていない。

由緒書に出てくる甲ヶ峯とは、現在地の東北1.2kmににある山のこと、当初はこの山の麓に鎮座した(現在の橋上町のあたりだろうか)。
中世には、豪族和久氏が伊也ケ谷の山頂に城を築き、当社を崇敬したが天正年間(1573~1592年)兵火で焼失。
その後、山家藩谷氏の時代には、八幡神社や谷霊神社が庇護されたため、伊也神社は廃れたようだ。
この時代に、伊也と稻荷とが読み間違えられたと思われる。
文化7年(1810年)従二位清原宣光により現在地に移転新築がなされた。
明治3年(1870年)山家陣屋の火災とともに焼失し、明治4年(1871年)再建された
明治6年(1873年)には、文化7年(1810年)現在地に遷座した際の従二位清原宣光の書状が見つかり式内社と認定された、という数奇な運命をたどる。

ということは、文化7年(1810年)の段階で従二位清原宣光は、伊也神社が式内社であると認識していたということだ。この地域は、江戸時代の谷氏の影響が色濃く、山家藩陣屋跡があるので山家藩の中心地だった。
現在の社域は、山の斜面で狭く、社殿は祠のような存在になっている。
社殿の後ろ側には巨大な岩がある、これが従二位清原宣光が言う磐座なのだろうか、詳細は不明だ。

長い歴史に思いを馳せさせてくれる神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2019/5/18
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3