赤國神社(赤国神社)
式内社コード:266-100
神名帳社名 :赤国神社、アカクニノ
社 格:小
所 在 地 :623-0232 京都府綾部市舘町宮ノ前
Plus Code :86H8+C9 綾部市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
「あかくにじんじゃ」と読む、地名の舘は「たて」と読む。
舘町集落の中心部の中心部の平地に鎮座。
京都府道9号綾部大江宮津線より東へ集落の中に入る。
集落の中の道は狭小なので注意。
駐車場は無いので注意。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
鳥居より楼門へのよく手入れされたきれいな参道。
写真
感想
神社謹製の由緒書によると
赤國神社由緒
一.鎮座地
稲葉野山続にあり神代より鎮座の地平地也 往古より宮の段と云来たり其の後現在地宮の前に遷座され現在に至る
一.郷社式内赤國神社由来
古老の云傳に神代に瓊瓊杵尊御巡幸の節宮を造り給ひ暫く御滞在され村を館と名付と云へり 往古は丹波國一社の神故に丹の國の社と云う
古き物にも丹國と書たるもあり又瓊瓊杵尊御諱(尊の御本名のこと)丹仁の尊と申奉るつき恐多に付赤國社と書換るとも云説あり
赤國社は境内東西二十八間(56m)南北三十四間(68m)の廊郭の舊跡あり是により推測せば上古は實に尊大なる神社にて歴々の神官ありて奉祀する
一.祭神
右殿 猿田彦大神
中殿 天津彦彦火瓊瓊杵尊
左殿 天鈿女命
右三神を祭社也 日本三所に祭在社とも云説あり
又近衛龍山公欣公丹後の國天の橋立参詣の路次𦾔社の故実旧記を御尋に有御一宿され帰京の後朝廷より直に正一位の位号を被下正一位赤國大明神の額を寄附被下置候と申傳現在拝殿正面に掲示(一面は蔵に保存するも被下額でないと思われる)
外に摂社二座 境内二神社
稲葉神社大明神 祭神 素戔嗚尊 旧鎮座地 稲葉野山に祭在
稲荷神社大明神 祭神 倉稲魂命 旧鎮座地字永泉山に祭在(館の森下)
琴平神社 祭神 大物主命
於保加牟豆美神社 祭神 於保加牟豆美命
一.文化財
𦾔器物一種今に残り有 御神輿の頂に在る鸕鷀の鳥也俗に文の鳥とも云銅器也
銘に正和三甲寅九月八日(一三一五年鎌倉時代)下司源光高作(今から一三五一年前に奉納)
又、天保七年四月(一八三七年)文政時代京都の弘川大隅守栄嗣と云者吉田家の命にて来り社殿改築被此の三殿に造有祭神如前相違無く弘川氏曰く当赤國社は神代より鎮座の地なり故に上古やかたの号あり後に字訓により舘村と云成其節一首詠
神代より幾萬か神の在館をたちの久敷もかな
一.例祭日
旧暦九月九日御神輿にて御旅所に御神幸長砂村馬場迄御出御
猿田彦大神天鈿女命前駆の形にて同日同區栗村よりも二神社御神輿并に御神栞出御同所にて御會休也 則流鏑馬あり(馬場は豊中校庭より公民館先まで)
旧暦八月十日定日にて前々は能を修行奉納元禄年間より毎年操座
後三番雙操奉納仕候事今に至り毎年無関事
一.𦾔社領
従前𦾔社領朱墨印𦾔藩寄附等無之候事也
上古は当社に付て繁栄の地欣鳥居の前面町屋敷と云字戸ありしも天正の頃(一五七三年)兵火にて焼失と云傳
慶長五年(一六〇一年)福知山城主小野木縫殿介丹後國田辺の城主細川幽斎を攻めんとして舘村に来り城主石川備後守を攻傳せし時赤國神社及村落を焼失故に神殿を始め建物宝物縁起古記録等悉皆此時焼失灰燼にきすも余りあり追悼するに尚餘りあり
社殿建坪 本社 南面板榑葺 前通壷丈三尺
三殿造り 裏行七尺五寸
上屋 萱草葺 前通三間四寸
裏行三間一尺三寸
境内反別 六反四畝拾弐歩 東西四十六間 雑木林也
南北四十二間
今の社地庭平地の分 東西九間
南北十九間
旧社地の分欣森の中に如並垪牆古際有 東西二十八間
南北三十四間
一.氏子戸数
村数八ケ村 合計戸数 弐百四十九戸 当時総人口一二二六人
舘村七三戸 今田村二七戸 大畠村二五戸 長砂村三〇戸 福垣村八戸 三宅村九戸
小貝村五二戸 石原村十三戸
明治八乙亥年七月
赤國神社御取調に付差上書 丹波國何鹿郡第五邑
明治八年八月教部省提出資料による
平成十六年
とある。
綾部の文化財を守る会謹製の由緒書によると
赤国神社
祭神 瓊々杵尊、猿田彦命、天宇須女命。
何鹿郡式内社十二座の一社。丹国社、後に赤国社と記し、稲葉山の宮の段に奉祀されていたという。慶長五年の兵火により類焼、什宝記録を焼失した。
江戸時代の初期まで、旧暦八月の十日祭に梅若太夫の能楽が奉納されたという。宝物(文の鳥)は神輿に附する銅製の鳳凰で『正和三甲刀九八日下司源光高』の銘を有し、当社の由緒を物語る市指定文化財。境内発見の八稜鏡は藤原期の作である。
大正年間、当社近隣で石斧、鉄滓、土器の発見は、当地方考古学研究の先駆となった。
指定文化財
綾部市指定文化財 文の鳥
昭和六十年八月
綾部の文化財を守る会
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、瓊瓊杵尊・天宇受売命・猿田彦命。
由緒不詳
正和3年(1314年)9月8日銘の銅製の鳳凰あり。
天正年間(1573~1592年)近衛前久天の橋立見物の途中当社に一泊。
慶長5年(1600年)兵火により類焼。
古くは稻葉山の屋根続きにある宮の段に祭られていた、古代のある時期に現在地に遷座した。
「赤国神社々記」(明治23年1月)によると、同社は丹波国に未だ神社が建立されていない神代(大和朝廷時代か)から既に祭祀されており、丹波国なので丹国神社と称された。
祭神が瓊瓊杵(ニニギ)命(別名日丹仁命)であつたから「丹」の字を用いるのはおそれ多いので改名した。
とある。
当地は、京都府道9号綾部大江宮津線は綾部と宮津を結ぶ街道で往来が多かったと思われる。
さらに当地周辺は弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が多い地域でもある。
鉄滓が発見されているところから見ると製鉄が盛んに行われていたことが分かる。
赤國神社という名称も鉄が関係しているのかもしれない(個人的見解です)。
だが、元の鎮座地である稲葉山の宮の段とはどこなのか不明、遷座時期も不明だ。
鳥居より楼門までの参道は100メートルほど続いており緑がきれい、よく手入れされていて気持ちが良い。
楼門前にも鳥居があったようだが切断されていて根っこの部分だけ残っている。
楼門は社務所と地域の集会所が合体したような感じで楽しげな様子を見せる。
社域は狭いが端正できれいに保たれている、拝殿横に大きな蔵がある。
ご祭神は、天津彦彦火瓊瓊杵尊、猿田彦命、天細女命の3柱となっており、拝殿の鈴が3つある。
拝殿後方の本殿は、ガラス張りの覆屋に入っていてよく見えないのが残念。
神社謹製の由緒書が非常に詳しい、内容は明治8年(1875年)に教部省に提出された資料のようだ。
少々読みにくいが、こういう形でも記録が残っていることは素晴らしい。
逆に言うと、教部省にはこうした各地の神社の資料が蓄積されているのではないだろうか。
明治以降の記録が少ないのが気になる。
遺跡の上に鎮座する神社。
注意点
駐車場がないので注意。
訪問ノート
訪問日 :2018/4/28
交通手段:クルマで訪問
カメラ :DMC-TZ60
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。