266-030_(論)阿須々伎神社(阿須須岐神社)

比定社:(論)阿須々伎神社(阿須須岐神社)

式内社コード:266-030
神名帳社名 :阿須々伎神社、アススキノ
社    格:小
所 在 地 :623-0342 京都府綾部市金河内町東谷1
Plus Code  :97Q2+WF 綾部市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「あすすぎじんじゃ」と読む、地名の金河内は「かねごち」と読む。
金河内町の集落の北の端の山裾に鎮座。
京都府道490号物部西舞鶴線より北へ集会所のような建物と阿須須岐神社の小さな案内看板が目印。
集落の中を真っ直ぐ進み一番奥、集落内は道路が狭小なので注意。
神社前に駐車スペースがある。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩2】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索3】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

一の鳥居のアプローチが非常に良い雰囲気。
また拝殿前の広場は弓の神事が行われるので他の神社には無い建物があり必見。

写真

金河内町の集落の一番奥にある阿須々伎神社の入り口、この奥にクルマを止めれるスペースがあるが道は非常に狭い。
金河内町の集落の一番奥にある阿須々伎神社の入り口、この奥にクルマを止めれるスペースがあるが道は非常に狭い。
社標には式内郷社とある。
社標には式内郷社とある。
神社謹製の神社の説明書き。
神社謹製の神社の説明書き。
一の鳥居は両部鳥居、緑の中に良い感じで溶け込んでいる。
一の鳥居は両部鳥居、緑の中に良い感じで溶け込んでいる。
非常に立派な一の鳥居。
非常に立派な一の鳥居。
一の鳥居をくぐると左に折れながら二の鳥居が見えてくる。
一の鳥居をくぐると左に折れながら二の鳥居が見えてくる。
二の鳥居より拝殿を望む。非常に渋い感じ。
二の鳥居より拝殿を望む。非常に渋い感じ。
二の鳥居をくぐると拝殿前の広場に出る、右手は舞殿のようだが大弓神事の際の弓を射るところ。
二の鳥居をくぐると拝殿前の広場に出る、右手は舞殿のようだが大弓神事の際の弓を射るところ。
神社謹製の大弓神事の説明書き。
神社謹製の大弓神事の説明書き。
拝殿を挟んで反対側には弓の的を置く建物がある。
拝殿を挟んで反対側には弓の的を置く建物がある。
弓の的を置く建物。
弓の的を置く建物。
拝殿を正面より望む、こじんまりとしているがよく手入れされ大事にされていることがよく分かる。
拝殿を正面より望む、こじんまりとしているがよく手入れされ大事にされていることがよく分かる。
拝殿を左側から、本殿は享禄元年(1528年)に建てられたようだ。
拝殿を左側から、本殿は享禄元年(1528年)に建てられたようだ。
拝殿の後ろの本殿を望む、覆屋に入っておりガラス張りの回廊で繋がっている。
拝殿の後ろの本殿を望む、覆屋に入っておりガラス張りの回廊で繋がっている。
ガラス越しにパチリ。
ガラス越しにパチリ。
本殿は享禄元年(1528年)のもので質素な作り、彫り物は最小限、骨太な印象を受けるもの。
本殿は享禄元年(1528年)のもので質素な作り、彫り物は最小限、骨太な印象を受けるもの。
本殿を覆屋越しに横から望む。
本殿を覆屋越しに横から望む。
神社西側の谷にある御茗荷田、志賀の七不思議のひとつ。
神社西側の谷にある御茗荷田、志賀の七不思議のひとつ。
京都府道490号物部西舞鶴線沿いにある阿須々伎神社の看板と志賀の七不思議の説明書き。志賀郷公民館とある。
京都府道490号物部西舞鶴線沿いにある阿須々伎神社の看板と志賀の七不思議の説明書き。志賀郷公民館とある。

感想

神社謹製の由緒書によると

阿須々伎神社(あすすぎじんじゃ)
祭神 天御中主神(あめのみなかぬし)・髙皇産霊神(たかみむすび)・神皇産霊神(かみむすび)・道主尊命(みちぬしむちのみこと)
 当神社は吾雀宮(あすすぎのみや)又は金宮大明神(かねのみや)といわれ、明治十二年式内社にある阿須々伎神社の社号を認可された。志賀の七不思議の一つで、節分の日「茗荷(みょうが)」占をして、稲作の豊凶を神意に問う神事が伝わっている。昔は、丹後方面からも沢山参拝者があった。又、十月十七日の大祭には氏子中より選ばれた射手による金的を撃つ弓の行事や、太刀振り、風流踊り、狂言などの郷土芸能が奉納される。
 本社の後背の高い山は金ヶ峯と呼び、古代郷土人の信仰した霊山で、阿須々伎神社と共に原始信仰の古い形を伝えている。

とある。

神社謹製の大弓神事説明書によると

阿須須伎神社大弓神事
大弓神事は阿須須伎神社大祭で奉納祭礼のうち最も主要なものとして、遠く室町時代の後半から行われたと伝えられる。
毎年の大祭(十月十日)の早朝に氏子の中から選ばれた射手十二人が、神事服を着用して神事舎に着座し、素襖装束の師範とともに射礼を行いその矢通し終れば射手三人づつ交互に四度立射し、十五間へだてた垜(あづち)にかかる尺二的に百射を行う。
続いて四寸の金的に奉射し、的中した第一矢をもって射上げとなり、両的を神前に奉献し、射手全員正殿に正対して礼拝を行う中で師範は大弓神事完了の賀詞を奏上する。
奉射は往時の典礼により、端正優雅な動作をもって終始し、専ら自責内省心・技・体一致の全人格を傾注し、唯々神明の照覧に応えることを心に念じて奉射される。
社頭の清浄の気ただよう中に進められる厳粛な、古来変らぬ伝統のあるこの神事を、参拝者は襟を正して見守り、神威高揚あまねく輝やき渡る思がする。
大弓神事が終れば、始めて大祭儀執行する慣例は、古来から今に伝承されるもので、大弓神事の終るのを待ち構えていた氏子は、供揃いして四百米の練込みをし、神殿の儀、続いて振り物・能・能狂言・花の踊り等の芸能が少年や青年たちによって奉納される。
このように多彩な祭礼、殊に大弓神事が奉納される神社は他にその例がほとんどなく、極めて貴重な伝統のある祭礼として今後一層の振興につとめたい。

とある。

志賀郷謹製の茗荷さん縁起によると

その縁起
 今から、およそ、一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。
 すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによるものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の”藤波” ”金宮” ”若宮” ”諏訪””白田(後の篠田)”の五つの社を厚く信仰されたということです。
 親王の子孫、金里宰相はこの五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して藤波大明神には「藤」金宮大明神には「茗荷」若宮大明神には「萩」諏訪大明神には「柿」白田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ、「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。
-その奇瑞 阿須須伎神社=金宮大明神の「茗荷さん」
 毎年、旧暦の正月三日になると、日の出より八時までの間に、清水の流れる「お宝田」から、茗荷が三本出るのです。これを神前に供え、その茗荷の出る場所、その育ち具合いから、その年の稲作の早稲(ワセ)、中稲(ナカテ)、晩稲(オクテ)の吉・凶を占い、また、その年の作物の出来具合い、風水害、かんばつまでも占います。
 この神事は、今も新暦の二月三日に「茗荷祭 祈願祭」として行われ、地元の人から”ミョウガさん”と親しまれています。
 参拝者には、この占いの写し(お宝付の写し)と、魔除けの矢、甘酒、お餅などがふるまわれます。是非一度 お詣りください。
志賀郷公民館

とある。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る。
ご参陣は、天御中主神・神皇産靈神・高皇産靈神・道主貴神。
 『神名帳考証』阿遲須伎高彦根命。
和銅6年(713年)現在地に遷座(修正)。
元慶3年(879年)当社に慶雲が出現(三代実録)。
享禄元年(1528年)造営(修正)。
明和年間(1764~1772年)一時「金宮大明神」と改名。
明治2年(1869年)阿須須伎神社と改称、式内社に指定。
明治6年(1873年)郷社。
旧鎮座地は、金峰山(344m)の金河内と坊口との境の南面した丘陵地。
江戸時代までは「吾雀(アススキ)宮」「金宮大明神」と呼ばれていた。
とある。

延喜式神名帳・丹波国・何鹿郡の「阿須々伎神社」の論社2つのうちの1つ。

社域は、一の鳥居のアプローチが緑のトンネルのようで非常に雰囲気が良い。
一の鳥居からは左に曲がり二の鳥居がある。
全体的に枯れた雰囲気で華やかさはないが渋い雰囲気。

本殿は享禄元年(1528年)造営とあり、古さを感じさせるがシンプルで力強い作りをしている。
社域には建物が多く大弓神事のための矢を射る建物(舞殿のような感じ)、的を設置する建物があり非常に珍しい。

神社の西側には志賀の七不思議の御茗荷田が柵で囲ってある。
地域を盛り立てようという地元の意志が感じられ、古いがよく手入れされて気持ちよく参拝できる。

このあたりは志賀の七不思議という縁起が伝わり、阿須須岐神社はその中のひとつ茗荷のお話しが伝えられている。
地元に大いに親しまれ尊崇されている様子が分かる。

注意点

集落の一番奥に鎮座しており周辺の道が非常に狭いので注意。

訪問ノート

訪問日 :2018/10/28
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100