261-240_薭田野神社(稗田野神社)

比定社:薭田野神社(稗田野神社)

式内社コード:261-240
神名帳社名 :薭田野神社、ヒエタノノ
社    格:小
所 在 地 :621-0033 京都府亀岡市稗田野町佐伯垣内亦1
Plus Code  :2G9M+2X 亀岡市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

国道372号線の稗田野町交差点に案内看板が出ており迷うことはない。
かつては篠山との街道筋に当たり交通の要衝だったと思われる。
大きな鳥居が南側にあるが、神社自体は東向きで東側にも鳥居がある。
周辺は造り酒屋が多い。
駐車場完備。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索1】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

できれば8月14日に行われる国指定重要無形民俗文化財の佐伯燈籠を見てみたい。

国指定重要無形民俗文化財

佐伯灯籠(さえきとうろう)
文化庁解説:
佐伯灯籠は、祭礼行列に加わる台灯籠【だいとうろう】と呼ばれる移動式の舞台で、三味線音楽の一つである義太夫節【ぎだゆうぶし】にあわせて演じる人形浄瑠璃【にんぎょうじょうるり】である。人形は全体が約35センチメートルの大きさで、一体の人形を一人で操る。人形の背後から差し込んだ竹板などによる操作方法や舞台に特色がある。
 佐伯灯籠は、この地の?田野【ひえだの】、御霊【ごりょう】、河阿【かわくま】、若宮【わかみや】の4神社合同の祭礼にともなう。この祭礼には、台燈籠のほかに切り子【きりこ】灯籠、また農作業を示す人形をのせた役【やく】灯籠や神【かみ】灯籠と呼ばれる灯籠が出るので、かつて「灯籠まつり」とも呼ばれ、今でも祭礼全体を佐伯灯籠と呼ぶことがある。     
台灯籠は、正面の幅約170センチメートル、奥行約150センチメートル、高さ約80センチメートルの大きさで、その上部に「御殿【ごてん】」と呼ばれる家屋の模型がのっている。
人形浄瑠璃は、操作者が台燈籠の中にはいり、「御殿」を後方にずらし、手前側にできた空間に人形を差し上げて演じる。一体の人形を一人が操作するもので、人形背面に竹板を差し込み、操作者は左手で竹板を持って人形の頭部と左手を、右手で人形の右手につながる竹棒を持って操る。
佐伯灯籠は、移動式の舞台で、特有の操作方法によって人形浄瑠璃を演じるもので、その操作法や上演舞台の構造など、芸能の変遷過程や地域的特色を示し重要である。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)

国指定記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財

佐伯灯篭(さえきどうろう)
文化庁解説:
これは京都府亀岡市稗田野町佐伯に鎮座する稗田野神社の八月十四日の祭礼(もとは旧暦七月十四日・十五日)に渡御【とぎよ】巡行する神輿に供奉する灯籠の行事であり、役灯籠【やくとうろう】(神灯籠とも)と台灯籠【だいとうろう】の二種の灯籠が出る。役灯籠の製作や世話は、佐伯ほか稗田野町一帯の旧六か村の氏子が輪番で担当してきており、台灯籠の世話やそこでの人形浄瑠璃の上演は今は佐伯灯籠保存会が執り行っている(以前は台灯籠は財力のある願主がいっさいを世話していた)。
 役灯籠は、紅白の紙を巻いた竹の棒により組み立てられたもので(間口六六・五センチ、奥行き五五・五センチ、柱の高さ一八七センチ)五基あり、それぞれの中央部の台の上には年間の農作業の過程を表したものなどの人形が飾られている(一番灯籠には御能【おんのう】、二番灯籠には種蒔、三番灯籠は田植、四番灯籠には臼摺【うすすり】、五番灯籠には地搗【じつき】の各場面)。五基の灯籠には一本ずつ指子竹【さしこだけ】と称される高さ六・三二メートルの十字型の竿が付随しており、それがキリコ灯籠を吊るす竿と形状が酷似していることから役灯籠を吊るすための竿でなかったかと推定されている。
 台灯籠は役灯籠を大型にしたようなもので(間口一三八センチ、奥行一一六センチで、地面から七九・五センチの高さの所が人形浄瑠璃の舞台の床面となっている)、舞台床面には紙で精巧に作られた御殿の作り物が飾られている。人形浄瑠璃を上演する時には、この御殿を前面から二十三センチ後方へずらし、その狭い空間に人形の遣い手が入って人形を操作する。人形浄瑠璃は、義太夫節によって「太功記【たいこうき】十段目[尼ヶ崎の段]」「先代萩【せんだいはぎ】[政岡忠義【まさおかちゆうぎ】の段]」「御所桜【ごしよざくら】三段目[弁慶上使【べんけいじようし】の段]」「日吉丸[五郎助住家の段]」などの演目を上演するが、人形は差し(串)人形という特殊な繰法で遣われる。人形は小振りで(全長三四・五センチ、面長五センチ)、人形の背に直角に長さ三〇センチ余りの竹串が取り付けてあり、その串で人形を支え、串に組み合わせた二本の糸で人形の首を操作する。人形の両手に長い竹ヒゴがそれぞれ一本ずつ取り付けてあり、それを操作して人形の手の動きを表す。人形の遣い手は基本的には一人であり、人形の首と左手は左手で操作し、人形の右手は右手で操作する。登場人物の多い時は、無理な姿勢で一人で何体もの人形を遣う。
 神輿は稗田野神社から御霊【ごりよう】神社に渡御した後、氏子区域内を巡行して、また稗田野神社に還御するが、この間役灯籠は神輿に供奉し続け、台灯籠は、御霊神社に到着した後は別行動をとり、かつては各所で人形浄瑠璃を演じた(今日では数か所になっている)。神輿還御の後、稗田野神社の馬場で大太鼓と役灯籠が追いつ追われつする「灯籠追い」の次第があり、五基の役灯籠を本殿前の軒下に吊るして輪番組一同石搗【いしづき】唄を歌う「灯籠吊り」の次第があって祭事いっさいを終了する。今日では祭事は十四日夜半に終了するが以前は十五日未明まで行事が続いた。
 当灯籠祭は、役灯籠・台灯籠ともに熨斗【のし】が飾られていることなどから、灯籠に様々な趣向を凝らして(なかには人形や人形繰りをも灯籠にしくむものもある)御所その他へ献上する風が広まったという室町時代の京の風俗をしのばせるものであり、また台灯籠の中での差し(串)人形は、文楽などの三人遣いとはまた別種の例の少ない繰法であるなど人形芝居の変遷を知る上で貴重な伝承である。近年行事次第が簡略化されるなど伝承に困難を生じているので早急に記録作成等の措置を講ずる必要がある。

写真

薭田野神社の東側の鳥居より望む。周辺は人家と造り酒屋。
薭田野神社の東側の鳥居より望む。周辺は人家と造り酒屋。
東側の鳥居の横には佐伯灯籠保存会資料館がある。ちょっとレトロな建物、ドラマにもよく出てくる。
東側の鳥居の横には佐伯灯籠保存会資料館がある。ちょっとレトロな建物、ドラマにもよく出てくる。
南側鳥居の脇に立つ社標には延喜式内とある。
南側鳥居の脇に立つ社標には延喜式内とある。
神社謹製の由緒書。和銅元年(西暦708年)丹波国主大神朝臣狛麻呂により佐伯郷の産土神として創建されたとある。
神社謹製の由緒書。和銅元年(西暦708年)丹波国主大神朝臣狛麻呂により佐伯郷の産土神として創建されたとある。
鳥居をくぐると道路をはさんで入口がある。
鳥居をくぐると道路をはさんで入口がある。
正面の舞殿。脇に清めの真砂の桶がおいてある。
正面の舞殿。脇に清めの真砂の桶がおいてある。
拝殿の脇にある石の環。尋ねる人々を楽しませてくれる仕掛けがたくさん。
拝殿の脇にある石の環。尋ねる人々を楽しませてくれる仕掛けがたくさん。
舞殿と拝殿を右側から望む。舞殿の後ろに拝殿、そして本殿が連なる。
舞殿と拝殿を右側から望む。舞殿の後ろに拝殿、そして本殿が連なる。
訪ねた当日は台風21号で木々が倒れたり折れたりして酷いことになっていた。早期の復旧を願います。
訪ねた当日は台風21号で木々が倒れたり折れたりして酷いことになっていた。早期の復旧を願います。
拝殿より本殿を望む。
拝殿より本殿を望む。
本殿の脇にある鎌倉時代の石灯籠。
本殿の脇にある鎌倉時代の石灯籠。
舞殿の脇にある社務所兼授与所。
舞殿の脇にある社務所兼授与所。
社域は台風21号で木々が倒れたり折れたりしてエライことになっていた。
社域は台風21号で木々が倒れたり折れたりしてエライことになっていた。
社域は台風21号で木々が倒れたり折れたりしてエライことになっていた。
尋ねる人々を楽しませてくれる仕掛けがたくさん。これはなんだろうか?
尋ねる人々を楽しませてくれる仕掛けがたくさん。これはなんだろうか?

感想

神社謹製の由緒書によると

延喜式内 薭田野神社(ひえたのかむやしろ)(京都府亀岡市薭田野町佐伯)
 このお社は和銅二年(七〇九)丹波国主大神朝臣狛麻呂により佐伯郷の産土神として創建された。平安時代には延喜式(九二七)にも登載され全国の神社の中でも由緒正しい古い社に属する。御祭神は保食命(うけもちのみこと)大山祇命(おおやまづみのみこと)野椎命(のづちのみこと)の三柱で五穀豊穣の守護神。鎮守の森中央の土盛は弥生時代以来の祭祀跡と伝わる。御本殿南側塀内の京式八角石灯籠は鎌倉時代の作で国の重要美術品に指定されている。八月十四日に行う夏祭りは「丹波佐伯の燈籠祭」と呼ばれ五穀豊穣と男女和合を祈願する祭。平安朝以来の大祭・奇祭として今に伝わっている。貞観元年(八五九)に御所より当神社に奉納された「五基の神燈籠」は当時の一年間の稲作の様子が五場面に表されており、毎年地元で再現し祭りの中心となる。
「燈籠祭」と呼ばれる所以でもある。日本書紀に記されたとおり保食命の体内から発生した五穀の実生苗を毎年発芽させて神輿にのせるなど全国に例の無い貴重な五穀豊穣祈願の祭で、平成二十一年には国の「重要無形民俗文化財」に指定されている。勇壮な燈籠追いや太鼓掛け、燈籠吊りなどの神事と共に、奉納される人形浄瑠璃は日本一小さい串人形を台の上で操る台語りの形式を持っている。尚、当神社は平安時代中期より真言宗の寺院を併設した神宮寺として栄え、鎌倉時代以降は稗田八幡宮と称し疫病退散・健康長寿の霊験あらたかな社として信仰を集めた。明治の神仏分離令(一八六八)により寺院を廃し元の「薭田野神社」とした。古来女性の守り神としても知られ、最近では悪病退散・癌封治の社としても全国的に信仰を集めている。(保食神は別名が豊受大神で当神社は伊勢の外宮と同じ御祭神となる)

とある。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る。
和銅2年(709年)創建。
嘉祥4年(851年)正六位上。
貞観元年(859年)勅使参拝。
貞観5年(863年)京都御所清涼殿から灯ろうが下賜。
寛喜元年(1229年)五基の御所燈籠が下賜。
寛喜2年(1230年)藤原貞家勅使として派遣。
正元2年(1260年)神宮寺が建立。
永徳元年(1381年)従三位下。
寛永2年(1625年)後水尾天皇によつて灯籠の下賜が復活。
元禄7年(1694年)造営。
明治6年(1873年)郷社。
明治10年(1877年)延喜式内社に公定。
平成2年(1990年)本殿全焼。
江戸時代までは「稗田野八幡宮」「神宮寺稗八幡宮」と呼ばれていた。

由緒がハッキリと残っているというか分かっている神社。
社域に古代の祭祀跡があるので古くからこの地は栄えていた地域だと想像できる。
また、前を篠山街道が通り交通の要衝であったことも見逃せない。

「稗田八幡宮」と「薭田野神社」の文字を使い分けていて、延喜式神名帳では「薭田野神社」となっているので、こちらに寄せたということだと理解する。

社域はよく手入れされ気持ちよく参拝できる。
また、展示物も多く、参拝者を大いに楽しませてくれる。

また神社前にある佐伯灯籠保存会資料館もレトロな感じ(ドラマでよく見かける)。
周辺の造り酒屋さんと合わせて集落全体が非常に良い雰囲気だ。

訪ねた際には台風21号で木々が倒れて大きな被害が出ていた、早期の復旧を願う。
改めて訪ねてみたい。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日:2018/9/17
交通手段:クルマで訪問
カメラ:RX100

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

式内社データベースのダウンロードはこちらから

式内社一覧表はこちらから

式内社地図データのダウンロードはこちらから