261-100_愛宕神社(亀岡市千歳町)

比定社:愛宕神社(亀岡市千歳町)

式内社コード:261-100
神名帳社名 :阿多古神社、アタゴノ
社    格:小
所 在 地 :621-0003 京都府亀岡市千歳町国分南山ノ口1
Plus Code  :2HRP+CQ 亀岡市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

丹波国国分寺近くの国分集落の牛松山西麓に鎮座。
京都府道25号亀岡園部線に小さな案内看板がある、1本東の集落の中を通る旧道にも案内看板がある。
案内看板が非常に小さいので見落とすと少々分かりにくい場所。
集落の東の一番奥となりアプローチ道路は非常に狭いので注意が必要。
周辺は山林で木々が茂り鬱蒼としている。
神社前は小さな公園として整備されていて駐車可能。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索3】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

素朴な雰囲気の社域。
国指定重要文化財の本殿。

国指定重要文化財(建造物)

愛宕神社本殿
時代:鎌倉後期
年代:鎌倉後期
西暦:1275-1332
文化庁解説:
比較的大規模な一間社流造で、木割が太く、手法は簡潔で、力強い。庇廻りは大正年間に一新されているが、当初材がほとんど一式別途保存されている。 鎌倉時代に溯る貴重な遺構。

写真

愛宕神社を正面から望む。牛松山の西側の麓にあり社域は段々になっている。社標には本宮とあり、鳥居には享保年間とある。
愛宕神社を正面から望む。牛松山の西側の麓にあり社域は段々になっている。社標には本宮とあり、鳥居には享保年間とある。
神社前は小さな公園として整備されている。すぐ南は養仙寺という寺院になっている。
神社前は小さな公園として整備されている。すぐ南は養仙寺という寺院になっている。
周辺は山林で見通しや眺望はない。
周辺は山林で見通しや眺望はない。
神社謹製の由緒書。継体天皇即位元年(西暦507年)の創祈、延喜式神名帳に記載とある。元愛宕とは書いてない。
神社謹製の由緒書。継体天皇即位元年(西暦507年)の創祈、延喜式神名帳に記載とある。元愛宕とは書いてない。
京都愛宕研究会謹製の由緒書。こちらは元愛宕とある。
京都愛宕研究会謹製の由緒書。こちらは元愛宕とある。
鳥居をくぐると石垣沿いに進む。ワイルドな雰囲気だ。
鳥居をくぐると石垣沿いに進む。ワイルドな雰囲気だ。
周辺は山林で木々が多く、巨木も多い。
周辺は山林で木々が多く、巨木も多い。
階段をあがると手水舎。
階段をあがると手水舎。
左が覆屋に入った本殿、右が舞殿。
左が覆屋に入った本殿、右が舞殿。
本殿を正面より望む。全国愛宕本宮とある。
本殿を正面より望む。全国愛宕本宮とある。
本殿を左から望む。かなり大きな覆屋に入っているのが分かる。
本殿を左から望む。かなり大きな覆屋に入っているのが分かる。
本殿を望む。鎌倉時代らしくシンプルで質実剛健な印象。
本殿を望む。鎌倉時代らしくシンプルで質実剛健な印象。
本殿を右から望む。装飾がほぼ無い。国指定重要文化財となっている。
本殿を右から望む。装飾がほぼ無い。国指定重要文化財となっている。
本殿より舞殿を望む。方角としては本殿は南を向いている。舞殿の向こうは社務所。
本殿より舞殿を望む。方角としては本殿は南を向いている。舞殿の向こうは社務所。
社務所。社務所の前にも巨木がある。
社務所。社務所の前にも巨木がある。
神社への入口は北と南があり、これは北側の鳥居。
神社への入口は北と南があり、これは北側の鳥居。

感想

神社謹製の由緒書によると

愛宕神社(阿多古神社) Atago-Jinja Shrine
 眼下に保津川を見据える整美な山、牛松山を神奈備として千歳町国分に伊弉冉命(いざなみのみこと)と火産霊神(ほむすびのかみ)(軻遇突智神 かぐつちのかみ)と大国主神(大巳貴命 おおなむちのみこと)の三神を祭神として鎮座する愛宕神社は、社伝等によると、継体天皇即位元年(五〇七)の創祀と伝え、平安時代に編纂された『延喜式』神名帳にも記載された古社です。
 なお、愛宕神社の御分霊が全国各地に祀られていますが、当社の御分霊が、天武天皇の頃に京都の高峯に勧請され、大宝年中(七〇一~七〇四)に、役小角(えんのおずぬ 役行者)と僧泰澄(たいちょう)が拓いた手向山(愛宕山朝日嶽)に遷され、天応元年(七八一)に和気清麻呂(わけのきよまろ)と慶俊僧都(けいしゅんそうず)が社殿を造営遷宮したと伝えます。さらに、愛宕神社の祭神の本地仏(ほんちぶつ)が勝軍地蔵であることから、厄神や厄災を防ぐと共に、その名が示す「勝軍」の縁起を担いで、中世には広く武士にも信仰され、各地の中世城館や城下町にも祀られました。
 火防せの神として、家々の台所など火を使う場所には、「阿多古祀符 火迺要慎」のお札が貼られ、まち角の愛宕燈籠に灯明をあげる「火とぼし」の姿も各所で連綿と受け継がれ、その崇敬の様は、「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕へは月参り」と言われるほどです。今も、四月二四日の鎮火祭には、愛宕講を始め多くの方が参詣に訪れます。
 現本殿は、鎌倉時代に造営された市内最古の木造建造物で、一間社流造、檜皮葺、豕扠首(いのこさす)の妻飾(つまかざり)に、大面を撮って反りを持たせた垂木や太い木割の材を簡素で力強く架構させる古様式を色濃く残していることから、国の重要文化財に指定されています。

とある。

京都愛宕研究会謹製の説明書によると

亀岡・愛宕神社(元愛宕)
かめおか・あたごじんじゃ(もとあたご)
 この社は京都市・愛宕山山頂の愛宕神社がこの場所から遷座していったと伝え、元愛宕とも呼ばれる。しかし背後の山は牛松山と呼ばれ、ここから愛宕山を望むことはできない。
 『日本三代実録』等によると、愛当護神(あたごのかみ)と鎮座地である「愛当護山」は、古代において丹波国に属していたことが記録されている。この事実から、愛宕山は現在のように京都市(山城)側を表とするのではなく、本来は亀岡市(丹波)側から見た風景が本来の姿であったと考えられよう。そうであるならば山麓に元愛宕が鎮座する牛松山までが、古代の愛宕山に含まれた可能性がある。いくつもの山襞が重なった「愛宕山塊」とでも言うべき雄大な姿が、丹波の神のすまう霊山であったかもしれない。平安遷都によって山城側の人口が増加したことにより次第に信仰の中心が移動し、古代における丹波の神としての性格は、忘れ去られていったようである。
 古代の愛宕山が神体山であったとすれば、元愛宕は本来拝殿、あるいは里宮のような役割を果たした存在であったと考えられる。丹波の神であった愛当護神の原初的な形態を、現在に伝える貴重な史跡と言えよう。なお本殿は鎌倉時代の建立と考えられ、重要文化財に指定されている。
京都愛宕研究会

とある。

由緒書によると継体天皇即位元年(西暦507年)の創建とあり、ご祭神は伊弉冉命、火産霊神、大国主神。
元愛宕と呼ばれており全国の愛宕社の総本宮でもある。
愛宕山の愛宕神社は北東約5kmほどの場所になり、元愛宕から遷座したとも言われている。

説明書きにあるように、平安京遷都より前の時代は、京都側よりも亀岡側のほうがあらゆる意味で中心だったと思われる(個人的見解です)。
亀岡には、丹波国分寺や元出雲、それに加えて元愛宕もある。
我々が思っている以上に、古代において亀岡はすごい場所なのかもしれない。

社域は非常に素朴な印象で、古き良き時代の神社という感じ。
本殿は鎌倉時代の国指定重要文化財、質実剛健な印象で状態も良いようだ。

注意点

集落内の道路が非常に狭いので注意。

訪問ノート

訪問日:2019/3/23
交通手段:クルマで訪問
カメラ:RX100M3

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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式内社一覧表はこちらから

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