277-020_鷹野神社

比定社:鷹野神社

式内社コード:277-020
神名帳社名 :鷹野神社、タカノノ
社   格 :小
所 在 地:669-6201 兵庫県豊岡市竹野町竹野馬場町84-1
Plus Code  :MQ67+37 豊岡市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「たかのじんじゃ」と読む、地名の竹野は「たけの」と読む。
竹野町の中心部に鎮座。
兵庫県道1号日高竹野線と兵庫県道・京都府道11号香美久美浜線(但馬漁火ライン)の交わる竹野交差点を北の町中の方面へ入る。
町中を行くと500メートルほどで到着。
駐車場は無いので注意。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

神社謹製の由緒書。
中井権次一統による彫り物があると思われるが全く見えないし近づけない本殿。

写真

鷹野神社を正面より望む。
鷹野神社の鳥居の右側は月極駐車場となっており参拝者用の駐車場は全く無いので注意。
鷹野神社の鳥居の右側は月極駐車場となっており参拝者用の駐車場は全く無いので注意。
右側(東)を望む。周囲は人家が立て込んでいる。駐車場は無いので参拝は短時間にせざる負えない。
右側(東)を望む。周囲は人家が立て込んでいる。駐車場は無いので参拝は短時間にせざる負えない。
正面(南)を望む。竹野交差点より町中を通ってこの方向から来る。かつてはこの道が参道として続いていたのだろう。
正面(南)を望む。竹野交差点より町中を通ってこの方向から来る。かつてはこの道が参道として続いていたのだろう。
左側(西)を望む。向こうに竹野川が見えている。
左側(西)を望む。向こうに竹野川が見えている。
神社の西側の道路は竹野海岸へと続いている。この道路ができる時に社域が削られたのではないだろうか。
神社の西側の道路は竹野海岸へと続いている。この道路ができる時に社域が削られたのではないだろうか。
鳥居の右側にある手水舎。なかなかワイルドな手水鉢。
鳥居の右側にある手水舎。なかなかワイルドな手水鉢。
神社謹製の由緒書。「武甕槌神(天つ神)を天孫系神族として尊崇し、御神威をあがめて出雲系神族(国つ神)を制御するため鎮祭された」と少々変わった内容。
神社謹製の由緒書。「武甕槌神(天つ神)を天孫系神族として尊崇し、御神威をあがめて出雲系神族(国つ神)を制御するため鎮祭された」と少々変わった内容。
鳥居の扁額には鷹野神社とある。参道の両側に石灯籠が多数ある。
鳥居の扁額には鷹野神社とある。参道の両側に石灯籠が多数ある。
牛さんもいらっしゃる。
牛さんもいらっしゃる。
石灯籠には豊麗燈とあるが詳細は不明。
石灯籠には豊麗燈とあるが詳細は不明。
拝殿を正面より望む。社殿は拝殿と本殿と右にある社務所で構成される。全く中に入れないし見ることもできないようになっている。
拝殿を正面より望む。社殿は拝殿と本殿と右にある社務所で構成される。全く中に入れないし見ることもできないようになっている。
拝殿を左側より望む。
拝殿を左側より望む。
拝殿の後ろには回廊を介して本殿がある。本殿は板壁で囲ってあり全く見ることができない。もちろん中井権次一統による彫り物も見ることができない。
拝殿の後ろには回廊を介して本殿がある。本殿は板壁で囲ってあり全く見ることができない。もちろん中井権次一統による彫り物も見ることができない。
本殿を右後ろより望む。本殿はこうして遠くから屋根しか見ることしかできない。千木鰹木は外削ぎで4本、4本というのは珍しい。
本殿を右後ろより望む。本殿はこうして遠くから屋根しか見ることしかできない。千木鰹木は外削ぎで4本、4本というのは珍しい。
東側にも鳥居がある。
東側にも鳥居がある。
道路の向こう側の西側にある摂社末社。
道路の向こう側の西側にある摂社末社。
道路の向こう側の西側にある摂社末社。
道路の向こう側の西側にある摂社末社。
道路の向こう側の西側にある摂社末社。詳細は不明。
道路の向こう側の西側にある摂社末社。詳細は不明。
拝殿より鳥居を望む。
拝殿より鳥居を望む。

感想

神社謹製の由緒書によると

式内 鷹野神社

御祭神
主祭神 武甕槌神
相殿神 天穂日命
    天満大自在天神(菅原道真公)
神社合併による御祭神
    須佐之男命 建御雷命
    伊波比主命 五男三女神

御由緒
 当社は延喜式神名帳に載っている古社である。
 御祭神については武甕槌神(天つ神)を天孫系神族として尊崇し、御神威をあがめて出雲系神族(国つ神)を制御するため鎮祭されたと伝えられている。
 後世に至り菅原道真公の怨霊を恐れるとともにその卓抜した文徳をあげめ、文道の神として天神信仰が広がった。
 当社も道真公を相殿に奉斉し、ご神紋も梅鉢を用い、浜の天神さんとして親しまれている。

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、武甕槌神
 (配祀)天穗日命・天満大自在天神
 (合祀)須佐之男命・建御雷命・伊波比主命・五男三女神

応永3年(1396年)社領内替地。
万治3年(1660円)社殿焼失。
天明年間(1781~1789年)にも社殿焼失(修正)。
明治6年(1873年)郷社。
大正3年(1914年)神饌幣帛料供進神社指定。

もとは現鎮座地社の西方約400mにあった、その後現在の地に遷座。

江戸時代までは「加島宮天神」「浜坂天神」と呼ばれていた。

この地は但馬国造とされる竹別(竹野別)の居地であった。
もとは現鎮座地社の西方約400mの竹野浜と砂洲によつて連接された小島(賀島山=猫崎)との接合点にあつたものとされている。
江戸時代には、武門の信仰が篤く、豊岡・出石藩の歴代藩主が武運長久を祈願するため参拝した。
竹野は北前船の寄港地であったこともあり、当時の船頭たちが奉納した船絵馬や日和見や入船の連絡に使われた方角石が残る。

とある。


兵庫県神社庁によると

主祭神:武甕槌命(タケミカヅチノミコト)
配祀神:天穂日命(アメノホヒノミコト)・天満大自在天神(テンマンダイジザイテンジン)・須佐之男命(スサノオノミコト)・建御雷命(タケミカツチノミコト)・伊波比主命(イワイヌシノミコト)・五男三女神(ゴナンサンジョシン)

創立年不詳。
 古事記によると第4代懿徳天皇の第二皇子当芸志比古命は多遅麻の竹別の祖と記され、多遅麻之竹別については和名類聚抄には「但馬国美含郡竹野郷がある」と書かれる。和名抄は延長年中に源順が醍醐天皇の第四皇女勤子内親王の命を奉じて撰述した古書であり、竹野別はたかの別とよんだのであり但馬国には竹という地名はその他の文書に見えないから現在の竹野浜部落で、その氏族が居住していたための地名であると考えることができる。
 同じく醍醐天皇の延長5年(927)に「延喜式」神名帳が撰修せられ、その巻10に「但馬国一三一座、美含郡一二座鷹野神社」とあるから、延喜の制に小社に列せられた式内官社である。
 万治3年(1660)、社殿より失火し、社記、古記録を焼失するが、寛延2年(1749)刊行の大枝流芳の「貝尽浦の錦」には竹野浜を紀伊の和歌の浦、河内の住吉浦と共に日本浜三景の一つに数えられ、但馬竹野浦真図をのせて、その図に「加島」「誕生」と共に竹野浜に「天神社」の壮大な社殿をえがいている。
 江戸時代出石藩の崇敬篤く、藩主度々参拝し随神門、鳥居が奉献。

とある。


鷹野神社のある当地は、竹野川の日本海側の河口に当たる場所。
海外からの玄関口として、古くより開けた場所で、以下のような古墳・遺跡・城址等が周囲にビックリするほど多数ある(兵庫県考古博物館資料より)。
・古墳
ヨゴレババ古墳・ミヨズ古墳・才の神古墳・入谷古墳・南アンジャ古墳群・大平井古墳・スワンタニ古墳・大谷古墳・ケゴ谷南古墳・マガリ谷北古墳・門谷口古墳・寺谷北古墳・太田北古墳・太田古墳・太田南古墳・竹ビ古墳・日南谷古墳・山崎山古墳・谷口古墳・阿金谷横穴墓・阿金谷古墳・出持墓・小谷北古墳・小谷古墳・小谷南古墳・門前ノ奥古墳・長法寺北古墳・長法寺南古墳・井山古墳・田尻古墳・ホウキ古墳・森脇古墳・小山古墳・城山古墳・タキノ下古墳・宮の谷古墳・坂の谷北古墳・坂の谷南古墳
・遺跡
江川遺跡・切浜遺跡・クマヤマ遺跡・ドウド遺跡・スワンタニ遺跡・アヲンタニ遺跡・見取遺跡・中村遺跡・御堂谷遺跡・妙見谷遺跡・太田遺跡・見蔵岡遺跡・土生谷遺跡・小森岡遺跡・小谷遺跡・門前窯跡・境内遺跡・須谷城砦群・西谷遺跡・長法寺跡・井山遺跡・茶坊寺跡・鬼神谷窯・森脇A遺跡・森脇B遺跡・長方寺跡・天王山遺跡・三味ヶ岡遺跡・常光寺跡・坊岡遺跡・谷遺跡
・城址
アンジャ城址・切浜城址・向山城址・草飼城址・阿金谷城址・美久仁城址・青葉城址・淀谷城址

為政者にとって、竹野の地は天然の良港であり非常に重要だったろう。
さらに竹野川に沿った谷筋での水運もあって発展したのだろうと思われる。
大陸との玄関口として非常に重要な地域だったと容易に想像できる。
江戸時代以降は北前船の寄港地や風待のための良港として盛んだったらしい。

鷹野神社の元の鎮座地は、竹野浜と猫崎(賀島山)との接合点にあったとあるが、この場所こそが重要な港や海を見渡せるふさわしい場所なのかもしれない。
大枝流芳の「貝尽浦の錦」に登場する但馬竹野浦真図の「加島」や「誕生」は猫崎にある山のこと、先端部のほうが「加島」、中程のが「誕生」、根っこの部分の山には弁天社の記述がある。
寛延2年(1749年)の当時、鷹野神社は天神社とのみ記入されている。
かつて「加島宮天神」と呼ばれていたところから推測すると、猫崎の先端部の賀島山が元の鎮座地のようだが遷座時期はやその理由等は不明だ。

鷹野神社の現在のご祭神は、武甕槌神、相殿として天穂日命・天満大自在天神(菅原道真公)となっている。
また合祀の結果、須佐之男命・建御雷命・伊波比主命・五男三女神を祀る。
個人的には唐突に武甕槌神が出てきたような印象がある(丹後や但馬では全く無い訳では無いが非常に珍しい)。
当地に居住した但馬国造である多遅麻の竹別(たけのわけ)は「たかのわけ」とも発音したとあり、竹別の居住する場所に竹別やその祖神が当初祀られたと考えるのが自然だろうと思う(個人的見解です)。

鷹野神社へのアプローチは比較的分かリやすい。
兵庫県道1号日高竹野線と兵庫県道・京都府道11号香美久美浜線(但馬漁火ライン)の交わる竹野交差点を北の町中の方面へ入る。
町中を行くと500メートルほどで到着。
駐車場は無いので注意。
正確に言うと神社前と横が駐車場になってはいるが月極駐車場となっており参拝者用の駐車場は全く無い。
また夏の海水浴シーズンには非常に混雑すると思われるので注意が必要だ。

竹野交差点から鷹野神社への道はかつての参道だと思われ町中を続いている。
突き当りに鳥居があり、その左側には竹野海岸へ向かう道がある、この道に社域を削られたような形だ(左右対称ではない)。
鳥居の前の社標には式内とあり、神社謹製の由緒書があり「武甕槌神(天つ神)を天孫系神族として尊崇し、御神威をあがめて出雲系神族(国つ神)を制御するため鎮祭された」と少々変わった内容となっている。
また「境内に契約者以外の駐車を禁止します」との立て看板もあり、参拝者用の駐車場は全く用意されていないのが残念。
鳥居をくぐると短い参道の左右に多数の奉納された石灯籠があり、中には豊麗燈と彫られているものもある(初めて見た、意味は不明)。
拝殿含め社殿は非常に閉鎖的で内部を一切見ることができないし入れない。
本殿は覆屋には入ってないが雪よけだろうか板壁があり本殿を見ることすらできない、見えているのは本殿の屋根の部分だけ。
本殿には中井権次一統の彫り物が施されているのだが全く見れないのが大いに残念だ。
イロイロ事情もあるとは思うのだが、遠くから訪問させていただいたがガッカリした。
これだけ何も見れない神社は初めてだ、まるで一見さんお断りのお店に行ってしまったような疎外感を感じた。
もう少し開放的になっていただけるのを期待したいと思う。

古代の重要拠点だった竹野の港を見つめ続けた神社。

注意点

駐車場は無いので注意(神社前と横は月極駐車場)。
海水浴シーズンには非常に混雑すると思われるので注意。

訪問ノート

訪問日 :2021/8/12
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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