比定社:天目一神社
式内社コード:317-060
神名帳社名 :天目一神社、アメマヒトツノノ/アマメノ-
社 格:小
所 在 地 :677-0001 兵庫県西脇市大木町648
Plus Code :2X93+J3 西脇市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。
アプローチ&ロケーション
「あめのまひとつじんじゃ/てんもくいちじんじゃ」と読む、地名の西脇市大木町は「にしわきしおおぎちょう」と読む。
国道427号線を西脇市街より北上し市原東の次の交差点を北へ兵庫県道296号中安田市原線に入れば300メートルほどで左手に鳥居が見えて来る
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
天目一箇命を祀ることとこの地域の鉄との関わり。
写真
感想
奉納有志一同謹製の「日野の歴史と天目一神社」によると
日野地区は、加古川の支流杉原川が作った沖積平野と段丘上に拓け
た地域です。この地に人々が生活し始めたのは古く、縄文時代後期
(約四千年前)の時が発見されています。弥生時代(約二千三百年前)
になって稲作が伝わると、さらに開拓は進み、多くの集落跡が見つかっ
ています。奈良時代(八世紀)には、託賀郡都麻里に含まれましたが、
平安時代の中頃(一〇世紀)には、杉原川東岸地域は資母郷、西岸地域は
那珂郷と呼ばれるようになりました。このころの開拓の様子を示す、
条里という一辺一〇九mの正方形の土地区画の跡が、道路や水路に残さ
れています。平安時代後期から室町時代(一二~一四世紀)にかけては、
東岸地域は這田荘、西岸地域は安田荘という荘園に含まれていたらし
いのですが、戦国時代(一五~一六世紀)には富田荘という一つの荘
園になり、それぞれ富田郷、野中郷と呼ばれ、野間城(八千代町)に本拠
を置く在田氏の支配かにありました。その後、豊臣氏の蔵入地を経て江
戸時代には各村ごとに分割支配が行われましたが、大木、野中、市原、前
島などの村々は姫路藩領、幕府領、古河藩領と移り変わりました、明治時
代になって廃藩置県が行われ、明治九年にはほぼ現在の兵庫県になりま
した。日野という地名は、明治二二年の野村制の施行により一〇カ村が
合併した時に、鎮守の春日神社の日と平野神社の野をとって日野と名
づけたものです。大木町に鎮座する天目一神社の祭神は天目一命で天
久斯比止都命ともいいます。神話によれば、天照大神が弟の素盞男命
の乱暴に怒って天岩戸に隠れた時、岩戸を開くための祭に使用する
刃物や鉄鈴を作ったのが天目一命でした。それ以来、鍛冶の神、ふいごの
神として崇拝されるようになったといわれています。また、天目一命は、
奈良時代の『播磨国風土記』の託賀郡の条にも登場し、多可郡の地が古
代から鍛冶に関する高度な技術をもっていたことも考えられるのです。
して、平安時代の九二七年にできた『延喜式』という書物には「延喜式内
社」と呼ぶ、全国で重要とされた神社が記載されていますが、その中の
多可六座のひとつにこの天目一神社が含まれているのです。明治維新
の神仏分離令により、多可郡内でも延喜式内社への関心が高まり、特に
所在地が不明であった天目一神社については、多可郡内の数カ村の神
社が名のりを上げました。ところが、著名な学者が式内天目一神社の
所在地を大木町に推定し、当時の多可神職会もこの節を支持するにい
たり、地元大木町でも当時惣堂天王社のあったこの地を式内天目一神
社の跡地と定めて、その復興を計画したのです。社殿は地元をはじめ、
播州や泉州の金物業者の援助を得て大正八年に着工、大正一二年に竣
工し、鎮守である平野神社も平野山東山麓から移して合祀しました。
竣工した本殿は、神明造とよばれる特殊な形式を採用し、しかも近在で
は例を見ないほど大きく立派なものです。また、鳥居も本殿に合わせ
て神明鳥居が作られています。竣工以来、天目一神社は復興された式
内社として有名になり、近在の鍛冶職人、金属加工職人たちの信仰を集
めました。(旧暦)一一月八日(現在は(親戚)一二月第一日曜日)に行われ
る「ふいご祭り」には播磨をはじめ遠く丹波、但馬、美作、和泉からも参
詣者があり、強風が吹くほど、ふいごの風が強くなると喜ばれました。
戦後は金属工業などの機械化により、参詣者は減りましたが、現在で
も熱心な信者と地元大木町の努力によって、盛大にふいご祭りが行われ
ています。
平成六年(一九九四年)十月吉日
奉納有志一同
とある。
西脇市観光協会謹製の境内マップによると
大正時代復興の式内社(しきないしゃ)
天目一神社は、延長五年(九二七)に編纂された『延喜式神名帳』(えんぎしきじんみょうちょう)にその名が見られる”式内社”。奈良時代(七一〇~七九四)初期に編まれた『播磨国風土記』(はりまのくにふどき)の託賀郡(たかぐん)の条に御祭神の天目一箇命(あめのまひとつのみこと)が登場することから、極めて古い時期に成立した神社と考えられています。
そのような古社も、天正八年(一五八〇)に三木城主別所氏の兵火(一説に平家の時代とも)によって記録は失われ(『神社誌』)、やがてお社がどこにあったのか知る人はいなくなってしまいました。それでも多可郡内の各所に天目一箇命を祀る神社があり、天目一箇命にまつわる伝承が伝えられています。
明治時代、再び式内社への関心が高まると、飾磨県(しかまけん)による神社調査が行われ、著名な学者や歴史家が「式内天目一神社は今、大木村に在り」と推定します(『神祇志料』(じんぎしりょう)、『播磨國式内神社考』、『大日本地名辞書』等)。様々に論争が交わされましたが、当時の多可神職会も大木説を支持するに至り、復興の機運が一気に高まったのです。
再建地となったのは、古代建築の礎石が残り古くから神聖視されていた惣堂天王社の杜(そうどうてんのうしゃのもり)。ここには天目一社の小さな祠があったようで、明治末期から大正の初めにかけて村内の明神社、大年神社、若宮神社、さらに平野神社が合祀されます(『神社誌』)。そして大正十二年(一九二三)、新たな社殿が完成し復興されたのが現在の天目一神社です。
地名になった鎮守さん(ちんじゅさん)
平野神社は、大木、前島、市原、野中の鎮守です。これら四町を含む十二町からなる地区を「日野(ひの)」といいますが、この地名は明治時代に地域の鎮守「春日神社」と「平野神社」から一字ずつとって命名されたものです。また、平野神社は旧鎮座地である平野山の由来にもなっています。
創祀は不詳ですが、現存する「平野大明神」の神額に「明暦」(明暦年間一六五五~五八)の裏書きがあるほか、さらに古い鎌倉時代の大般若経を所蔵していたことも判っています。また、当地を含む、かつて「下郷(資母郷)しもごう」と呼ばれた一帯は、長禄二年(一四五八)の文書によると京都平野神社の荘園でした(『平野社領諸國所々目録案』)。これらのことから、京都平野神社と荘園時代(鎌倉もしくはそれ以前)に成立した可能性が考えられています。
境内マップ制作 平成三十一年(2019)
西脇市観光協会
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、天目一箇命・(合祀)大雀命・日本武命・天穗日命・大年神。
源平の争乱で社殿焼失。
天正8年(1580年)豊臣秀吉中国攻めで焼失。
明治30年(1897年)4月村社。
明治末期から大正の初め、村内の明神社、大年神社、若宮神社、平野神社が合祀される(追加)。
大正12年(1923年)新たな社殿が完成(追加)。
当地方に居住する鍛冶工集団が奉齋したと考えられる。天目一命は作金者であり、雑(くさ)ぐさの刀斧や鉄鐸を作つた。
天目一箇尊命は鍛冶の元祖、鞴(ふいご)の祖神として知られ、当社付近から熔鉄・熔銅を出土し、古代祭器の破片を出土したと伝えられている。
明治維新になり、式内比定が盛んになって、所在不明となった「天目一神社」の位置が大木町に推定された。そこで当時は惣堂天王社があった当地が式内旧地とされ、復興が図られた。明治30年(1897年)4月、村社に列した。
とある。
兵庫県神社庁によると
主祭神:天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)
配祀神:大雀命(オホサザキノミコト)・日本武命(ヤマトタケルノミコト)・天穂日命(アメノホヒノミコト)・大年神(オホトシノカミ)・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)
由 緒:
創立年不詳。延喜式の制小社に列し、天正8年(1580)、別所氏の兵火にあい、記録類失う。
明治30年(1897)、村社に列せられる。
とある。
天目一神社のある当地は、杉原川の西岸の平地の南端に位置し舟運と街道筋が通る交通の要衝にあたる。
この場所も古くより開けたようで近くには以下の遺跡がある。
大木城跡、大木・平野山1~4号墳、大木・郡新田遺跡、大木・東山石棺墓、大木・奥ノ谷遺跡、ヂバ山遺跡第7地点~第10地点(兵庫県考古博物館資料による)。
天目一神社のご祭神は、天目一箇命。
配祀神として大雀命・日本武命・天穂日命・大年神・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)となっている。
天目一箇命といえば製鉄神である、当地はよほど鉄と関係の深い地域だということが伝わってくる。
317-010_荒田神社(多可郡多可町)では、「『播磨国風土記』にみえる天目一箇命、道主日女命を祀った社が当社であるともいわれている。」とある。
この地域に夫である天目一箇命、妻である道主日女命を祀る神社があるというのは偶然ではないだろうと思う。
ただし現在の天目一神社は明治期になるまでは比定ができておらず、明治期になってからこの場所に比定されたという事情がある。
さらに明治期より大正期にかけて近隣の明神社・大年神社・若宮神社・平野神社が合祀されたということもある。
いずれにしても鉄の匂いが強い地域とご祭神であることは変わりない。
天目一神社へのアプローチは比較的分かりやすい。
国道427号線を西脇市街より北上し市原東の次の交差点を北へ兵庫県道296号中安田市原線に入れば300メートルほどで左手に鳥居が見えて来る。
駐車場は無いので周囲に邪魔にならないように駐車することが必要だ。
兵庫県道296号中安田市原線沿いには式内 天目一神社 平野神社の社標と石灯籠が建っている。
鳥居をくぐると砂利の参道が100メートルほど続いている。
参道の正面には拝殿が建っており手前には車止めと下馬の札が立っている。
拝殿は端正な造りで壁のないタイプ、床が高くなっている。
拝殿の後方には立派で大きな幣殿があり、その奥に本殿がある。
本殿は神明造りとなっており珍しい。
社殿は全体的に大きく状態も良い大正12年(1923年)の建築の記録がある。
社域は大変綺麗に保たれており気持ちよく参拝することができる。
鉄の匂いが強い地域にふさわしいご祭神を祀る神社。
注意点
駐車場は無いので周囲の邪魔にならないように駐車。
訪問ノート
訪問日 :2018/6/30、2023/8/6
交通手段:クルマで訪問
カメラ :DMC-TZ60、α7M3 + 35-150mm F2-2.8 Di III VXD、α7S3 + FE16-35mm F2.8 GM
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。