311-080_魚吹八幡神社

比定社:魚吹八幡神社

式内社コード:311-080
神名帳社名 :中臣印達神社、ナカトミイタテノ
社    格:名神大
所 在 地 :671-1222 兵庫県姫路市網干区宮内193
Plus Code  :QHWR+J5 姫路市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「うすきはちまんじんじゃ」と読む、地名の網干区宮内は「あぼしくみやうち」と読む。
山陽網干駅の北側約1kmの平地に鎮座。
兵庫県道27号太子御津線の宮内交差点を東へ入ると西の鳥居があり石畳が続きのですぐに分かる。
300メートルほど行くと山門の前に到着する。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

全体的に寺のような作り。

写真

魚吹八幡神社を正面より望む。非常に立派で大きな山門がどっしり構える。
魚吹八幡神社を正面より望む。非常に立派で大きな山門がどっしり構える。
右側(東)を望む。周囲は住宅で東側は昔のままの町並み。
右側(東)を望む。周囲は住宅で東側は昔のままの町並み。
正面(南)を望む。かつての参道はこちらがわだったのだろうか。それとも海がすぐそばまで迫っていたのだろうか。
正面(南)を望む。かつての参道はこちらがわだったのだろうか。それとも海がすぐそばまで迫っていたのだろうか。
左側(西)を望む。西側は立派な石畳でこの先300メートルほどに鳥居がある。
左側(西)を望む。西側は立派な石畳でこの先300メートルほどに鳥居がある。
山門の左側にある姫路西ライオンズクラブ 網干地方史談会謹製の魚吹八幡(うすきはちまん)神社由来。神功皇后摂政3年(202年)玉依姫命を奉祀して敷島宮と号せられましたとある。その後に仁徳天皇御霊夢を畏み給いて紀角宿禰を遣わされ、319年頃、上の御三神を崇め祀られましたとある。
山門の左側にある姫路西ライオンズクラブ 網干地方史談会謹製の魚吹八幡(うすきはちまん)神社由来。神功皇后摂政3年(202年)玉依姫命を奉祀して敷島宮と号せられましたとある。その後に仁徳天皇御霊夢を畏み給いて紀角宿禰を遣わされ、319年頃、上の御三神を崇め祀られましたとある。
山門をくぐると拝殿前の広場。右奥にコンクリート造りの社務所がある。
山門をくぐると拝殿前の広場。右奥にコンクリート造りの社務所がある。
広場の右手には手水舎と並んで鐘つき堂がある。全体的に寺院のような作り。
広場の右手には手水舎と並んで鐘つき堂がある。全体的に寺院のような作り。
さらに右手には厳島神社。
さらに右手には厳島神社。
山門を入ってすぐ右側にある姫路市教育委員会の説明書き。荘園時代に石清水八幡宮の別宮となり、魚吹八幡神社と呼ばれるようになった、とある。
山門を入ってすぐ右側にある姫路市教育委員会の説明書き。荘園時代に石清水八幡宮の別宮となり、魚吹八幡神社と呼ばれるようになった、とある。
広場の左手を望む。ぐるっと土塀で囲まれた神域。
広場の左手を望む。ぐるっと土塀で囲まれた神域。
広場右手より拝殿を望む。
広場右手より拝殿を望む。
拝殿の手前に舞殿がありその奥に拝殿。非常に豪華な彫り物が施されているのが分かる。
拝殿の手前に舞殿がありその奥に拝殿。非常に豪華な彫り物が施されているのが分かる。
舞殿の内部を望む。土足で上がるようになっている。
舞殿の内部を望む。土足で上がるようになっている。
舞殿と拝殿の繋がっている部分。横からも入れるようになっている。元は別々の建物だったのだろう。
舞殿と拝殿の繋がっている部分。横からも入れるようになっている。元は別々の建物だったのだろう。
舞殿と拝殿を左側より望む。元々は別の建物だったのを繋げたようだ。
舞殿と拝殿を左側より望む。元々は別の建物だったのを繋げたようだ。
拝殿の内部を望む。非常にきれいに保たれていて気持ちが良い。
拝殿の内部を望む。非常にきれいに保たれていて気持ちが良い。
拝殿の右側にある社務所はコンクリート作り。
拝殿の右側にある社務所はコンクリート作り。
本殿を右側より望む。立派で大きな本殿、正保2年(1645年)造営と伝わる。残念ながら垣で囲まれ近づくことはできない。
本殿を右側より望む。立派で大きな本殿、正保2年(1645年)造営と伝わる。残念ながら垣で囲まれ近づくことはできない。
拝殿と本殿を左側より望む。
拝殿と本殿を左側より望む。
拝殿前の広場より山門越しに正面を望む。かつてはすぐ前が海だったのだろうか。
拝殿前の広場より山門越しに正面を望む。かつてはすぐ前が海だったのだろうか。

感想


魚吹八幡神社のWebサイトには

ご祭神
品陀和氣命(ほんだわけのみこと)
 (応神天皇(おうじんてんのう)
息長足比賣命(おきながたらしひめのみこと)
 (神功皇后(じんぐうこうごう)
玉依比賣命(たまよりひめのみこと)

由緒
神功功后(じんぐうこうごう)摂政(せっしょう)三年(二〇二年)大陸交渉の際、御鑑を当宇須伎津(うすきつ)に御滞泊あらせられた際、皇后信託(神様のお告げ)をお受けになりこの宇須伎津の浄地を開き、一小社を建立し、玉依比賣命(神武天皇の御母、海の神様)をお祀りし、敷嶋宮(しきしまぐう)と号した。
これが当社創建の起源であります。

後に十六代仁徳天皇七年(三一九年)八月、天皇霊夢を御覧になり、御父応神天皇御祖母神功皇后を当宇須伎津に祀るべし、と仰せになり、紀角宿禰を遣い三神を合せ祀られ、この地にお鎮まりになりました。
ここに当地方開闢(かいびゃく)の産土神として、祭祀信仰が今日まで、脈々と受け継ぎ生き続けていることは御神威の千古にわたる輝きを知ることができる。

とある


姫路市教育委員会の説明書きには

魚吹八幡神社(うすき)

御 祭 神
 息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)(じんぐうこうごう) 左殿(向かって右)
 品陀和気命(ほんだわけのみこと)     (応神天皇)(応神天皇)     中殿
 玉依比売命(たまよりひめのみこと)                     右殿(向かって左)

年中恒例祭
 歳  旦  祭         一月一日
 祈年祭・紀元祭         二月十一日
 厄 除 大 祭         二月十九日
 武  神  祭         三月最終土曜日
 招  魂  祭(境内招魂社例祭)四月二十二日
 千  燈  祭         七月十四日
 秋 季 例 大 祭         十月二十一日・二十二日
 新  嘗  祭         十一月二十三日
 除  夜  祭         十二月三十一日

由   緒
 創祀は詳らかでないが、社伝によれば仁徳天皇七年と言われている。
荘園時代に石清水八幡宮の別宮となり、魚吹八幡神社と呼ばれるようになった。
旧福井荘二十八ヵ村が氏子であったが、十八世紀中頃には二十二ヵ村になり、
現在は、二十五ヵ村(町)となっている。

魚吹八幡神社所有指定文化財

○敷島神社本殿(魚吹八幡神社摂社)
 ・昭和五十三年三月十七日県指定
 三間社流造で、三方廻縁・高欄付。中規模ながら細部手法にも優れている。
社殿に正保二年(一六四五)網干郷民協力して正殿を再建し摂社等を整備したと
伝えられている。
 江戸時代初期の神社建築の技法を今によく伝える貴重な文化財である。

○魚吹八幡神社楼門
 ・昭和五十四年三月二十日県指定
 建築年代は不詳だが、鬼瓦及び丸瓦に「貞享三年(一六八六)の刻銘がある。
三間一戸八脚入母屋造楼門で、規模も雄大で、どっしりとした重量感があり、
細部手法も優れており、播磨地方における江戸時代前期の代表的な楼門である。

○武神祭
 津の宮鬼追い
 ・平成十八年三月二十四日市指定
 魚吹八幡神社武神祭として知られ、毎年三月最終土曜日に五穀豊穣と家内安全を
祈願して営まれている行事。
 鬼大鏡餅や桜と橘の造花を檀尻(献納船)にのせて氏子地区より神社まで
流しという大行列をつくり、奉納した後、厄をはらうために社殿で鬼が舞う。
鬼舞は、青鬼・赤鬼の舞及び氏子五人による五鬼惣舞が行われる。

○秋季例祭風流(ふりゅう)
 ・平成十九年三月九日県指定
「網干祭」・「ちょうちんまつり」とも呼ばれている。十月二十一日の宵宮では、
平松・吉美・大江島・興浜・新在家・余子浜・垣内の七町ごとに楼門前で
提灯を激しく練り合い、二十二日の本宮では豪華絢爛な屋台や檀尻が華々しく
練られ、姫路を代表する祭りである。

○魚吹八幡神社本殿
 ・平成二十二年三月二十九日市指定
 源三愛の本殿は正保二年(一六四五)の再建と伝えられる。桁行三間、梁間三間
入母屋造り、正面千鳥破風付き平入本殿で、屋根銅板葺きで、播磨地方において
江戸時代前期という遺構の少ない時代の建築である。

  平成二十三年三月 姫路市教育委員会

とある。


姫路西ライオンズクラブ 網干地方史談会謹製の魚吹八幡(うすきはちまん)神社由来によると

神功皇后(応神天皇の御皇母)   東御前
応神天皇(第15代天皇)     中央御前
玉依姫命(神武天皇御皇母、海神) 西御前

 魚吹八幡神社の紀元は神功皇后摂政3年(202年)、西海より御環幸のと
き、お艦(ふね)を宇須伎津の湊に泊められた際、皇后御神託を受け此処に
浄地を開き一小社を造り、玉依姫命を奉祀して敷島宮と号せられました。第
16代仁徳天皇御霊夢を畏み給いて紀角宿禰を遣わされ、319年頃、上の
御三神を崇め祀られました。第25代武烈天皇7年(505年)に至り、魚
の砂吹き寄せの故事に依り魚吹大神宮と号せられました。
 神亀2年(725年)播磨大掾吉備朝臣魚養公、神域を営繕しましたが、
保元の頃(1165年~1158年)、石清水八幡宮の別宮となり源平の
乱世も公武の厚く保護せられるも、天正4年(1576年)兵火に罹り社
殿すべて灰燼となり祭祀の中絶のやむなきに至りました。後、正保2年(1
645縁)網干3ヶ村、氏子協力して正殿を再建し、1650年以上に
亘り、当地方の産土神として信仰と伝統が受け継がれてきました。今日では
氏子25ヶ村、戸数15000戸を擁し特に秋の例祭には見事な屋台練り
と、宵宮の華麗な提灯練りが繰り広げられます。

○文化財指定/敷島宮社殿、楼門(兵庫県指定重要有形文化財)
 御本殿(姫路市指定重要有形文化財)
 秋季例祭(兵庫県指定重要無形民俗文化財)
 武神祭(姫路市指定重要無形民俗文化財)

○年中の主な祭事/1月1日・・・歳旦祭
         2月11日・・・祈年祭・紀元祭
         2月19日・・・厄除祭
         3月最終土曜日・・・武神祭
         4月22日・・・招魂祭(境内招魂社例祭)
         7月14日・・・千燈祭
         10月21・22日・・・秋季例祭
         11月23日・・・新嘗祭
         12月31日・・・除夜祭・千本突き

 姫路西ライオンズクラブ 網干地方史談会

とある。


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、品陀別命・息長足比売命・玉依比売命。

仁徳天皇7年(319年)創祀(追記)。
武烈天皇7年(505年)魚吹大神宮と号する(追加)。
神亀2年(725年)播磨大掾吉備朝距魚養公、神域を営繕。
保元の頃(1156~1159年)、石清水八幡宮の別宮となる(修正)。
天正4年(1576年)兵火で焼失(修正)。
正保2年(1645年)造営。

人皇15代神功皇后摂政3年、西海より御還幸のとき、お艦(ふね)を字須伎津の湊に泊められ、御宣託に依り此処に浄地を開き一小社を造り、玉依姫命を奉祀して敷島宮と号せられた。
当社鎮座地は、今は海岸から遠く離れているが、風土記新考がいうように、奈良・平安の頃には海(あるいは海浜)だったようである。

とある。


兵庫県神社庁によると。

主祭神:応神天皇(オウジンテンノウ)
配祀神:神功皇后(ジングウコウゴウ)・玉依比売命(タマヨリヒメノミコト)

由 緒:
 神功皇后摂政3年、大陸交渉の際、御鑑が当宇須伎津に御滞泊あらせられた際、皇后信託をお受けになり、この宇須伎津に浄地を開き、小社を建立して玉依比売命をお祀りし、敷嶋宮と号した。これが当社の起源であり、後に16代仁徳天皇7年8月、天皇霊夢を御覧になり、御父応神天皇御祖母神功皇后を当宇須伎津に祀るべしと仰せになり紀角宿禰を遣わし三神を合せ祀られ、この地にお鎮まりになられた。
 魚吹の由来について、『播磨国風土記』には「宇須伎津」と見え、本来当地方は海べりの砂堆積地であった。神功皇后伝説と相交わり、魚が群れをなして砂を吹き寄せて、土地が出来たと言い伝えられている。これは洋の東西を問わず語られる神話的方法で、魚は人とおきかえ、すなわち多くの人々が海を埋めて開いていったと解するのが自然で、後世永く伝えるため魚吹伝説として今日まで言い伝えられた。
 また網干の地名も、当社祭礼時漁民が一斉に休漁して網を干して参詣したので網干と言うようになったと伝えられる。

とある。


魚吹八幡神社のある当地は、揖保川東岸のかつては海に面した地域となる。
ちなみに現在の標高は2mほどですぐ前に海が広がっていたのではないかと思われる。
さしずめ「宇須伎津」はこの地域の海の玄関口といったところだろうか(個人的見解です)。
早くより開かれた地域のようで周囲には下記の遺跡がある。
関ノ口遺跡・中筋遺跡・地蔵寺遺跡・前田遺跡・和久遺跡・坂出遺跡・魚吹津構跡・古網干遺跡(兵庫県考古博物館資料による)。

魚吹八幡神社のご祭神は、品陀別命・息長足比売命・玉依比売命。
創建当初は玉依比売命をお祀りしていたが、保元の頃(1156~1159年)に石清水八幡宮の別宮となったとあるので、それからはご祭神についても石清水八幡宮に準じた形となっているようだ。

魚吹八幡神社へのアプローチは難しくない。
兵庫県道27号太子御津線の宮内交差点を東へ入ると石畳が続き西の鳥居があるのですぐに分かる。
300メートルほど行くと山門の前に到着する。
駐車場はあるのかないのかよく分からないが、Webサイトによるとイベント以外は山門をくぐり中に駐車しても良いようだ。
いつも思うのだがクルマで社域に乗り込むのは少し気が引ける、訪問時にも門前に停めさせていただいた。

魚吹八幡神社の周囲は住宅が多い、西側はよく整備されていて石畳の広い参道が続いている。
東側は昔のままの町並みのようで道は狭い。
ちなみに鳥居は西側のみ波側にはない。

立派で大きな山門をくぐると塀でぐるっと囲まれた社域の広場がある。
広場の右手には手水舎と並んで鐘つき堂があり寺院のような作りとなっている。
正面にはかなり舞殿と合体したような立派な拝殿があり豪華な彫り物が施されている。
正保2年(1645年)造営と伝わる本殿も大きく立派な作りで非常に状態は良いようだ。
残念ながら板塀がめぐらされており本殿には近づけない。
拝殿右奥にはコンクリート造りの社務所がある。
社域は非常にきれいに保たれていて気持ちが良い、かつてはかなりの規模だったのではないだろうか。

今も昔も地域の中心となっていることが感じられる神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2019/3/2
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3