311-010_粒坐天照神社

比定社:粒坐天照神社

式内社コード:311-010
神名帳社名 :粒坐天照神社、-アマテラスカミノ
社    格:名神大
所 在 地 :679-4161 兵庫県たつの市龍野町日山463
Plus Code  :VG7R+F4 たつの市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

「いいぼにますあまてらすじんじゃ」と読む、地名の日山は「ひやま」と読む。
たつの市の中心部より西1.4kmほどの揖保川西岸の的場山南端の山裾に鎮座。
西隣りに兵庫県立龍野高等学校があるので目印にするのが良い。
龍野高等学校の正門を東へ入り200メートルほどで到着する。
ありがたいことに駐車場完備。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

的場山との関係。
射楯兵主神社との関係。

写真

粒坐天照神社を正面より望む。社域は南向き、右側の社標には「式内粒坐社」とあり地元では粒坐社(りゅうざしゃ)と呼ばれているようだ
粒坐天照神社を正面より望む。社域は南向き、右側の社標には「式内粒坐社」とあり地元では粒坐社(りゅうざしゃ)と呼ばれているようだ
右側(東)を望む。周囲は住宅と商店で古い町並み。この道が旧山陽道だったのかもしれない
右側(東)を望む。周囲は住宅と商店で古い町並み。この道が旧山陽道だったのかもしれない
左側(西)を望む。この方向は兵庫県立龍野高等学校の方向。左のほうに駐車場への1口がある。
左側(西)を望む。この方向は兵庫県立龍野高等学校の方向。左のほうに駐車場への1口がある。
龍野史談会謹製の説明書き。天正九年(一五八一)、龍野城主となった蜂須賀小六正勝が、日山(当時は樋山村と呼んだ)の現在地へ遷座、続いて城主になった福島正則が社殿を造営したとある、高名な戦国武将が出てくるのはよほど重要な地域だったのかもしれない。
龍野史談会謹製の説明書き。天正九年(一五八一)、龍野城主となった蜂須賀小六正勝が、日山
(当時は樋山村と呼んだ)の現在地へ遷座、続いて城主になった福島正則が社殿を造営したとある、高名な戦国武将が出てくるのはよほど重要な地域だったのかもしれない。
一の鳥居をくぐると石畳が続く。左側は駐車場、右側は住宅となっている。正面の石段の上に山門が見える。
一の鳥居をくぐると石畳が続く。左側は駐車場、右側は住宅となっている。正面の石段の上に山門が見える。
先程の場所より右へ行くとさらに鳥居と石段、石段の上にも鳥居が見える。こちらは菅原神社へ続く石段となっている。いかにも成り立ちが複雑な印象。
先程の場所より右へ行くとさらに鳥居と石段、石段の上にも鳥居が見える。こちらは菅原神社へ続く石段となっている。いかにも成り立ちが複雑な印象。
左側の石段を登ると山門。もう一段高いところに割拝殿が見えている。
左側の石段を登ると山門。もう一段高いところに割拝殿が見えている。
山門をくぐったところより右側を望む。向こう側にも石段と参道があるのが分かる、複雑な成り立ちを感じさせる。
山門をくぐったところより右側を望む。向こう側にも石段と参道があるのが分かる、複雑な成り立ちを感じさせる。
山門をくぐったところより左側を望む。手水舎、向こうの方になにやら台がある、なんだろうか。
山門をくぐったところより左側を望む。手水舎、向こうの方になにやら台がある、なんだろうか。
石段下より割拝殿を望む。石垣はきっちり積まれていて新しいようだ。
石段下より割拝殿を望む。石垣はきっちり積まれていて新しいようだ。
割拝殿越しに拝殿を望む。
割拝殿越しに拝殿を望む。
拝殿を望む。比較的シンプルな印象。
拝殿を望む。比較的シンプルな印象。
拝殿の扁額には粒坐天照神社とある。
拝殿の扁額には粒坐天照神社とある。
拝殿の内部の様子。非常にきれいに保たれている。
拝殿の内部の様子。非常にきれいに保たれている。
拝殿後方の本殿を右側より望む。残念ながら垣がありよく見えない。拝殿は昭和56年(1981年)、本殿は昭和37年(1962年)に造営とある。
拝殿後方の本殿を右側より望む。残念ながら垣がありよく見えない。拝殿は昭和56年(1981年)、本殿は昭和37年(1962年)に造営とある。
拝殿前より右側を望む。右側にあるのは菅原神社、その奥に石段があり瑜伽神社がある。
拝殿前より右側を望む。右側にあるのは菅原神社、その奥に石段があり瑜伽神社がある。
拝殿前より左側を望む。
拝殿前より左側を望む。
本殿を左側より望む。拝殿・本殿ともに立派な建物。
本殿を左側より望む。拝殿・本殿ともに立派な建物。
拝殿の右側にある菅原神社。右側の石段は菅原神社のためにあるようだ。
拝殿の右側にある菅原神社。右側の石段は菅原神社のためにあるようだ。
菅原神社のさらに右側には瑜伽神社へ続く石段がある。
菅原神社のさらに右側には瑜伽神社へ続く石段がある。
山門より一の鳥居をのぞむ。
山門より一の鳥居をのぞむ。

感想


龍野史談会謹製の説明書きによると

式内名神大社 粒坐天照神社(イイボニイマスアマテラス)
 (たつの市龍野町日山)

 延喜式に揖保郡七座の一つと記載され、宍栗郡一宮町の伊和神社、
垂水の海神社とともに播磨三大社の一つです。
 神社縁起によると推古天皇二年(五九四)当地の有力者が神託
を受け、的場山(通称・台山)の頂に祠を建て、農業の守護神天照国
照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)を祀ったのが
始まりです。
 その時、一粒の稲の種と水田を授かり、これを耕作したところ大
豊作となり、一粒万倍したという。以後この土地はイイボ(粒、揖保、
飯穂)の郡と呼ばれる穀倉地帯となりました。
 室町時代の嘉吉の乱(一四四一)の兵火で社殿が焼失、揖西町小神
に遷座しました。
 天正九年(一五八一)、龍野城主となった蜂須賀小六正勝が、日山
(当時は樋山村と呼んだ)の現在地へ遷座、続いて城主になった福島
正則が社殿を造営しました。
 寛文十二年(一六七二)に信州から城主として着任した脇坂家の藩
主も尊崇厚く、神域が拡大され、数多くの境内末社を勧請合祀しま
した。
 平成六年には神社創立千四百年祭を執行しています。
 神社は再三の火災に遭い、現在の神殿、幣殿、祝詞殿は昭和三十
七年(一九六二)に、拝殿、社務所は同五十六年に建立されました。
 二月二十四日、五日は菅原道真公を祀る菅原神社の祭礼(天神祭)、七月
十四、五日は一年の健康を祈念する輪抜け祭、十月には秋祭があっ
てにぎわいます。
 氏子は龍野、揖西、揖保川三町の三千三百世帯です。

 龍野史談会

とある


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、天照国照彦火明命。

推古天皇2年(594年)正月1日、的場山の山頂附近に降臨。
嘉祥4年(851年)従五位下。
貞観元年(859年)正月従四位下。
応永の乱(1467~1477年)で羅災。
嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱で兵火に羅災。
文明3年(1471年)現在の日山の里に赤松則重が神域を拓いて遷座。
文明5年(1473年)焼失。
 後約100年の間、日山山下の一山寺に仮偶。
天正9年(1581年)蜂須賀正勝、今の地に再建。
天正13年(1585年)福島正則、社殿造営。
慶長9年(1604年)4月17日炎上。
慶長17年(1612年)社殿社記等悉く焼失(修正)。
寛永3年(1626年)造営。
寛文12年(1672年)城主脇坂家の藩主により神域が拡大境内末社を勧請合祀(追加)。
明治7年(1874年)2月郷社。
明治7年(1874年)日山神社と改称。
明治12年(1879年)粒坐天照神社に復称。
明治15年(1882年)2月県社。
昭和20年(1945年)本社殿焼失。
昭和37年(1962年)神殿、幣殿、祝詞殿を建立(追加)。
昭和56年(1981年)拝殿、社務所を建立(追加)。
平成6年(1994年)神社創立千四百年祭を執行(追加)。

江戸時代までは「三社権現」と呼ばれていた。

社伝に依れば、推古天皇2年(594年)正月1日関村(現、龍野市小神)の伊福部連駁田彦(本姓、五百木連火明命之裔)という正直な長者の邸裏のよく茂った杉社の上(的場山の山頂附近)に、異様に輝くものが出現したが、それは容貌端麗な童子姿の天照国照彦火明命の使であったと云う。この神使が駁田彦に神勅し種稻を授けた。駁田彦は神勅を尊び畏み社を建立奉齋し、その授けられた種稻を、自己の持田及び近隣の水田に蒔いた処、一粒万倍し以後播磨の穀倉地帯になった。
養和元年(1181年)に射楯兵主神社に播磨国16郡174座の大小明神社を合祀し、播磨国総社・府中社とした際に粒坐天照神社はこれに合祀されておらず、この時点で社殿消失、祭祀が中断されていたものとされる。
天津津祀神社は粒坐天照神社創建の地で、的場山の中腹にある。応永の乱(1467~1477年)による兵火にかかって全焼したたため、この神社を山麓の小神に遷したのが古宮神社である。ところが、文明3年(1471年)になってこの古宮神社の社殿が炎上したため、広い社地を求めて日山に遷座した。これが現社地である。しかし、当社の火難はさらにつつき、その2年後にまたもや火災に遭ったため、再び古宮神社の地に還ったという。やがて天正9年(1581年)、龍野城主だった蜂須賀小六によって再び日山に戻された当社は、それ以降、ずっと現社地に留まっている。

とある。


兵庫県神社庁によると。

主祭神:天照国照彦火明神(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)

由緒:
 人皇第32代崇峻天皇、第33代推古天皇の御代、今のたつの市に伊福部連駁田彦という長者あり。邸の裏に杜がありて、推古天皇2年(594)、輝くもの現われる。曰く、「我は天照国照彦火明命の使である。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土地と人々を守り給うて既に千年を越ゆ。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまして神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ。すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えてゆくであろう。」と。昇天して去り、あとに種稲が残されていた。
 この神勅を尊み奉戴することを誓うと、一夜にして千頂もの水田ができた。
 駁田彦が中心となり神社を建立奉斎し、またこの水田に授かった種稲を耕作すれば大豊作となり一粒万倍したという。
 以後この土地は米粒を意味するイイボ(揖保)の郡と呼ばれた。人々は嬉び感謝し、この神社を粒坐天照神社と称して氏神と崇めた。

とある。


粒坐天照神社のある当地は、揖保川の西岸の的場山(標高394m)の南側山麓に当たる場所。
すぐ東に揖保川の水運、現在地の前を旧山陽道が通っていたと思われ、交通の要衝だったと想像できる。

ただし、粒坐天照神社は何度か遷座しており、その経緯は整理すると以下のようだ。
・現在の天津津祀神社(的場山の頂上付近)が粒坐天照神社創建の地、応永の乱(1467~1477年)による兵火にかかって全焼
・山麓の小神に遷したのが現在の古宮神社(西へ約850m)、文明3年(1471年)になってこの古宮神社の社殿が炎上
・その後、日山に遷座、その2年後にまたもや火災に遭ったため、再び古宮神社の地に還った
・天正9年(1581年)、龍野城主だった蜂須賀小六によって再び日山に戻された
鎮座していた3箇所は的場山を中心とした場所で的場山との関係が深いと思われる。

興味深いのは、「養和元年(1181年)に射楯兵主神社に播磨国16郡174座の大小明神社を合祀し、播磨国総社・府中社とした際に粒坐天照神社はこれに合祀されておらず、この時点で社殿消失、祭祀が中断されていたものとされる。」とあることだ。
本当にこういった事情だったのだろうか、それとも別の事情があったのだろうか、現在のところ不明だが本当のところを知りたいものだ。

的場山の周囲は交通の要衝だけに古くより開けていたと思われ次の遺跡がある。
的場山古墳・白鷺山1号墳・白鷺山2号墳・西宮山古墳・狐塚古墳・日山遺跡(兵庫県考古博物館資料による)。

粒坐天照神社のご祭神は、天照国照彦火明命。
当社の成り立ちは大変複雑だと思われ、江戸時代までは「三社権現」と呼ばれていたとある。
思うに天正13年(1585年)に福島正則が社殿造営した際に熊野権現・八幡宮・春日社を祀ったことが「三社権現」の理由だと思われる。
時の権力者により様々な変化があったようだ。
その痕跡が社域にあるお社の数だったり鳥居や石段の配置に現れている。

粒坐天照神社へのアプローチは、兵庫県立龍野高等学校を目指していくのが良いだろう。
兵庫県立龍野高等学校の正門前を東へ入り200メートルほどで粒坐天照神社に到着する。
ありがたいことに駐車場完備、正面の鳥居の左側(西)に入口がある。

社域は南を向いており鳥居の正面は住宅となっている。
一の鳥居脇には味のある社標があり式内粒坐社とあり地元では粒坐社(りゅうざしゃ)と呼ばれているようだ。
一の鳥居をくぐり石畳の参道を進むとすぐに石段その上には山門がある。

参道の右側には二の鳥居?があり、別の石段で登れるようになっている。
こちらの石段の上には菅原神社が鎮座している。

山門をくぐりさらに登ると割拝殿のような建物がありその奥が拝殿となっている。
拝殿の後ろの本殿は垣で囲まれており残念ながら近づくことはできない。
拝殿・本殿ともに昭和37年(1962年)とあり、比較的新しく状態は非常に良い。
拝殿右手には摂社である瑜伽神社への登り口がある。
社域には摂社・末社が非常に多く建物がたくさんある。
本殿の裏はすぐ山の斜面となっており斜面を切り開いて作られたことが分かる。
社域はかなり広いがよく手入れされており気持ちよく参拝できる。

龍野の交通の要衝を押さえる的場山に鎮座する神社。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2019/3/2
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

式内社データベースのダウンロードはこちらから

式内社一覧表はこちらから

式内社地図データのダウンロードはこちらから