261-200_与能神社(與能神社)

比定社:与能神社(與能神社)

式内社コード:261-200
神名帳社名 :与能神社、ヨノノ
社    格:小
所 在 地 :621-0023 京都府亀岡市曽我部町寺蛇谷1
Plus Code  :XGMW+2V 亀岡市、京都府
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

よのじんじゃと読む。
京都府道407号東掛小林線沿いの曽我部町の集落の西山裾に鎮座。
北へ550メートルほどのところに御旅所がある。
この神社も曽我谷川の流域にある、曽我谷川の流域は式内社が数多くある、よほど重要な地域だったのだろうと想像できる。
緑が多く雰囲気が良い、拝殿前の中央に石灯籠があり非常に珍しい配置。
社域には多くの社が集まっており周辺からの信仰が厚いのが伺える。
駐車場はないので注意。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

緑が多い社域。
拝殿前の真ん前にある石灯籠。

写真

與能神社を正面から望む。古社らしい渋い雰囲気があり緑が濃い。神社自体は西を向いている。
與能神社を正面から望む。古社らしい渋い雰囲気があり緑が濃い。神社自体は西を向いている。
社標には郷社とある。
社標には郷社とある。
神社謹製の由緒書。奈良時代に四道将軍丹波道主命を祀った与能神宮寺が起源とある。
神社謹製の由緒書。奈良時代に四道将軍丹波道主命を祀った与能神宮寺が起源とある。
野趣あふれる手水鉢もある。
野趣あふれる手水鉢もある。
手水舎。
手水舎。
たぶん拝殿だと思われる社殿。非常にシンプルな形状だ。
たぶん拝殿だと思われる社殿。非常にシンプルな形状だ。
拝殿の後ろには本殿が一直線にならぶレイアウト。
拝殿の後ろには本殿が一直線にならぶレイアウト。
拝殿からは1段上がって本殿がある。左右に休憩所のようなかんたんな建物がある。
拝殿からは1段上がって本殿がある。左右に休憩所のようなかんたんな建物がある。
本殿の真正面に石灯籠があり珍しいレイアウトを取る。
本殿の真正面に石灯籠があり珍しいレイアウトを取る。
本殿は立派で大きいがお寺のような造りをしている。
本殿は立派で大きいがお寺のような造りをしている。
そもそもの成り立ちと関係があるのかもしれない。
そもそもの成り立ちと関係があるのかもしれない。
拝殿より鳥居を望む。鳥居の向こうはすぐ京都府道407号東掛小林線となる。
拝殿より鳥居を望む。鳥居の向こうはすぐ京都府道407号東掛小林線となる。

感想

神社謹製の由緒書によると

与能神社(延喜式内社)曽我部町寺
祭神として事代主命(えびすさん) 建御名刀命(諏訪さん) 天照皇大神(お伊勢さん) 天児屋根命(春日さん)の四神を祀る。
「諸国鎮座神秘抄」によると奈良時代に四道将軍丹波道主命を国家の平和鎮護の為祀った与能神宮寺が起源とされ、現御旅所を中心に、曼荼羅堂、講堂等寺区全域に伽藍を誇り、皇室の崇敬篤く口丹波南部の中心として隆盛をきわめたが鎌倉時代以後兵火にあい焼失した(礎石、古瓦が現存)また「谿端與能宮旧記」によると、空海が嵯峨天皇の命により神宮寺を開き奥院露堂で護摩修行を行い、後嵯峨天皇の代に村山、与能など八庄を神領として寄進を受けたとされる。
立派な彫刻のある本殿は三間社流造で、現存する慶長八年(一六〇三)の棟札によると社殿が文応元年(一二六〇)に建立され、慶長元年(一五九六)に地震により倒壊し、同八年に再建されたことがわかる。現在の本殿は正徳四年(一七一四)に改修されたものと考えられる。境内には応永二十一年(一四一四)の銘のある石灯籠があり、境内の百太夫社は芸能の神としてその方面の崇敬をあつめいる。

とある。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る。
崇神天皇御宇四道将軍丹波道主命創祀。
嵯峨天皇の御世(810年)神宮寺建立。
仁和2年(886年)従五位下。
文応元年(1260年)造営。
慶長8年(1603年)造営(修正)。
正徳4年(1714年)改修。
当初は大和東大寺が別当であったが、嵯峨天皇の御世(810年)に丹波に三つの神宮寺が建てられ、與能神宮寺はその一つで、曼茶羅堂・講堂・五重塔などがあったとされる。

神宮寺との関係が興味深い。
先に与能神宮寺が作られ、後に鎮守社としてだろうか与能神社ができたということのようだ。
神社が先で神宮寺が後というのはよくあるが、その逆のパターンである。

谷の西側を流れる曽我谷川の流域にある式内社のひとつ。
曽我という名前も気になるが、曽我谷川自体がかなり重要な役割を果たしていたとも考えられる。

よく手入れされていて清々しい印象、訪問当日も近所の方による掃除の日だった、気持ちよく参拝できる。

注意点

駐車場はないので注意。

訪問ノート

訪問日:2018/5/3
交通手段:クルマで訪問
カメラ:DMC-TZ60