比定社:(論)日出神社(但東町南尾)
式内社コード:274-080
神名帳社名 :日出神社、ヒテノ
社 格:小
所 在 地 :668-0312 兵庫県豊岡市但東町南尾
Plus Code :FW8V+MV 豊岡市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション
「ひのでじんじゃ」と読む、地名の南尾は「みのお」と読む。。
南尾集落の中の出石川の東岸の平地に鎮座。
事業所の入り口のようになっているが国道482号線沿いに石灯籠が立っており曲がるとすぐ。
担当郵便局の西の裏手にあたる。
駐車場は無いので注意。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
素朴な社域。
神明造の本殿。
写真
感想
神社謹製の由緒書によると
私達は氏を異にする地域の住民が同一神社部落(日殿村)(市場村)(南尾村)(出合村)の共同のも元で守護神として日出神社を氏神として祭祀を祀り栃森社といわれ中世から江戸末期まで数百年におよんで伝説として神功皇后が三韓征伐の時勅使を派遣して供物を献じ中世の頃市場の高山城出合の山城の領主が社を納め祭料を毎年献じたともいわれる 江戸時代に入り寛永~正保の間(一六二四)~(一六四七)出石城主小出吉秀が出石川改修にして社殿を新築し幕末安政六年(一八五九)にも本殿が造立されている 明治二年社名を栃森社から日出神社と複称し村社昇格明治四十三年拝殿を建立本殿の造りは丹波元伊勢と同じ神明造りで腸内でも珍しく南方アジア系の建物様式である。祭神は多日多可神由良止三大神神社史創立 不詳とあり時代により土地所属が変わりて神社が移り動いて天災水害に逢い現在地に鎮座されたものです
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、多遅麻日多訶神・由良止美神。
由緒不詳。
寛永~正保の頃(1624~1648)出石城主小出吉秀が出石川改修にして社殿を新築(追加)。
安政6年(1859年)本殿が造立。
明治3年(1870年)日出神社に復称。
明治6年(1873年)村社。
明治43年(1910年)拝殿を建立(追加)。
江戸時代までは「栃森明神」と呼ばれていた。
中世に社家と氏子のとの間で争いがあり、その結果、社家を廃して氏子により運営することになった。
社名も、社家の姓であった「日出」から栃の木が多かったために「栃森大明神」と変更した。
氏を異にする地域の住民が同一神村落(日殿村)(市場村)(南尾村)(出会村)の共同の元で日出神社を氏神として祀り、栃森社といわれ、中世から江戸末期まで数百年におよんだ。伝説として神功皇后が三韓征伐の時、勅使を派遣して供物を献じ、中世の頃市場の高山城出合の山城の城主が社を納め、祭料を毎年献じたともいわれる。江戸時代に入り、寛永~正保の間(1624~1647)出石城主小出吉秀が出石川改修に際して、社殿を新築し、幕末安政6年(1859)にも本殿が造立されている。
とある。
創建については、神功皇后が三韓征伐の時勅使を派遣して供物を献じた、と由緒書にはある。
さらに、なかなか興味深いことが由緒書にある、「氏を異にする」という表現が出てくる。
ここから読み取れるのは、普通の神社?は同じ氏である一族で祭祀するというのが普通だけど、当神社はいくつかの集落により中世から江戸末期まで共同で運営してきた、ということだろうか。
確かに一族の祖神を祀る神社は多い、一方地域の氏神として複数の集落で運営されてきたという神社も多い。
その両方の要素があるようだ。
由緒書には土地所属の変化や水害のため遷座したことが書かれている。
確かに、すぐ横を出石川が流れ、高低差もほぼ無い、それでもここに鎮座する理由があったのだろう。
鳥居手前の左手に猿田彦神が祀られている(詳細不明)。
拝殿は明治43年(1910年)の建築だが、少しだけ彫り物が施されていて豪華に見える。
本殿は安政6年(1859年)の建築と思われるが覆屋ではなく囲いが付いている。
囲いの中を拝見すると確かに神明造りとなっていて棟持柱がある。
社域は広くはないが近隣の人々が気軽に来れる場所となっているようだ。
各所に説明書きや表示類が手作りで掲示されていて神社に対する思い入れを感じることができる素朴な神社。
注意点
駐車場は無いので注意。
訪問ノート
訪問日 :2018/7/15
交通手段:クルマで訪問
カメラ :DMC-TZ60
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。