314-020_天一神社

比定社:天一神社

式内社コード:314-020
神名帳社名 :天一神王神社
社    格:小
所 在 地 :679-5213 兵庫県佐用郡佐用町東徳久1644
Plus Code  :2C58+63 佐用町、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。

アプローチ&ロケーション

「てんいちじんじゃ」と読む、地名の佐用町東徳久は「さようちょうひがしとくさ」と読む。
東徳久集落の北端の山の山頂に鎮座。
兵庫県道53号宍粟下徳久線の横畑公民館あたりに案内看板があるが小さくて見立たない。
ここから東へ入り千種川を渡る道なりに行くと正面に東徳久地区農事組合の建物を北(左)へ入る。
しばらく走り集落の中を北へ入ると間村集会所のあたりに到着する。
このあたりにクルマを駐車させていただき徒歩でアプローチする。
20分ほど山道を歩くので歩きやすい靴が良い。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境4】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩4】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索4】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

近くに製鉄遺跡があること。
山の稜線に鎮座していること。

写真

間村(まむら)集会所の前にある天一神社の案内板。「天一神社(約二千年前弥生時代創立)参道」とある。
間村(まむら)集会所の前にある天一神社の案内板。「天一神社(約二千年前弥生時代創立)参道」とある。
このミラーの先(北)の民家と倉庫の間の山道を徒歩で登っていく。20分ほど山の中を歩くので歩きやすい靴が必要。神社自体は正面に見えている山の頂上あたりに鎮座。山裾の左手に間村製鉄遺跡があると思われる。
このミラーの先(北)の民家と倉庫の間の山道を徒歩で登っていく。20分ほど山の中を歩くので歩きやすい靴が必要。神社自体は正面に見えている山の頂上あたりに鎮座。山裾の左手に間村製鉄遺跡があると思われる。
右側(東)を望む。東側は御殿山がありこのあたりの東徳久(ひがしとくさ)地域は丘陵地となっている。
右側(東)を望む。東側は御殿山がありこのあたりの東徳久(ひがしとくさ)地域は丘陵地となっている。
集落から入ってくるとこの方向(南)。右側の建物が間村(まむら)集会所、ここにクルマを停めさせていただいた。
集落から入ってくるとこの方向(南)。右側の建物が間村(まむら)集会所、ここにクルマを停めさせていただいた。
左側(西)を望む。周囲にはこんもりとした山がいくつかあり、この方向に千種川が流れている。
左側(西)を望む。周囲にはこんもりとした山がいくつかあり、この方向に千種川が流れている。
民家と倉庫の間の獣避けフェンスを開けて山道を上がっていく。獣避けフェンスは開けたら必ず閉めること。
民家と倉庫の間の獣避けフェンスを開けて山道を上がっていく。獣避けフェンスは開けたら必ず閉めること。
しばらく登ると南面した鳥居があるが訪ねた時には残念ながら倒れてしまっていた。東徳久(ひがしとくさ)の地形がよく分かる。
しばらく登ると南面した鳥居があるが訪ねた時には残念ながら倒れてしまっていた。東徳久(ひがしとくさ)の地形がよく分かる。
鳥居を過ぎて登山道のような道を上がっていく。
鳥居を過ぎて登山道のような道を上がっていく。
しばらく登ると祠が見えてくる。
しばらく登ると祠が見えてくる。
この祠は「書道の神」の祠。さらに上る。
この祠は「書道の神」の祠。さらに上る。
祠を過ぎると踏み跡が少なくなりなんとも心細くなるがそのまま登る。
祠を過ぎると踏み跡が少なくなりなんとも心細くなるがそのまま登る。
しばらく登ると崩れかけた石段と拝殿が見えてくる。なかなかワイルドだ。
しばらく登ると崩れかけた石段と拝殿が見えてくる。なかなかワイルドだ。
拝殿のあるところまで20分くらい登る。登り切ると拝殿前、手水鉢がある。
拝殿のあるところまで20分くらい登る。登り切ると拝殿前、手水鉢がある。
拝殿を正面より望む。
拝殿を正面より望む。
社殿の構成は割拝殿兼絵馬殿、拝殿、その後方に覆屋に入った本殿という構成。社殿自体はそれほど古いものではないようだが風雪で傷んでいる。
社殿の構成は割拝殿兼絵馬殿、拝殿、その後方に覆屋に入った本殿という構成。社殿自体はそれほど古いものではないようだが風雪で傷んでいる。
拝殿前に置かれている由緒書。ご祭神は天御中主大神、東大寺戒壇神名帳に「天一天白中頭天王」と記載されているとある。
拝殿前に置かれている由緒書。ご祭神は天御中主大神、東大寺戒壇神名帳に「天一天白中頭天王」と記載されているとある。
拝殿内部越しに本殿を望む。
拝殿内部越しに本殿を望む。
本殿左奥より拝殿を望む。
本殿左奥より拝殿を望む。
左側より社殿を望む。
左側より社殿を望む。
社殿の左側(西)を見ると両部鳥居が建っている。山の稜線にあることが分かる。
社殿の左側(西)を見ると両部鳥居が建っている。山の稜線にあることが分かる。
両部鳥居越しに西側を望む。元々は正面の南側に参道があったのだろう、その後こちらからも参拝できるようにしたのだと思われる。
両部鳥居越しに西側を望む。元々は正面の南側に参道があったのだろう、その後こちらからも参拝できるようにしたのだと思われる。
この両部鳥居も横から見ると傾いていて少々危険。全体的に傷みが来ているのが気にかかる。
この両部鳥居も横から見ると傾いていて少々危険。全体的に傷みが来ているのが気にかかる。
西側の両部鳥居より社殿を望む。
西側の両部鳥居より社殿を望む。
割拝殿より登ってきた方向(南)を望む。
割拝殿より登ってきた方向(南)を望む。
登ってきた山道を下るが踏み跡が少なくて迷わないようにしたい。
登ってきた山道を下るが踏み跡が少なくて迷わないようにしたい。
こんな道が続くのでトレッキングシューズのような靴があったほうが良い。
こんな道が続くのでトレッキングシューズのような靴があったほうが良い。
祠のところまで下ってきた。
祠のところまで下ってきた。
獣避けフェンスを再び通って民家の横に降りてきた。
獣避けフェンスを再び通って民家の横に降りてきた。

感想


神社謹製の由緒書によると

天一神社由緒 東徳久字西間村鎮座
祭神 天御中主大神
この神社は今より約二千年前(彌生時代)に創立された日本でも
最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に
「安置御宅」記され延喜式神名帳をはじめ多くの古書に登載され
有名である。尚奈良東大寺戒壇神名帳に「天一天白中頭天王」
と天一神のことが登載されている。

・延喜式神名帳に曰く
「播磨国佐用郡二座佐用比賣神社、天一神玉神社」
・播磨鑑に曰く
「天一神社は柏原郷東徳久中馬村と云う所の上山
 祭神天御中主大神」
・神祇全書に曰く
「天一神玉神社今東新宿村有称阿布良権現社叱乎」
・文徳実録に曰く
「天安元年八月庚辰(紀元一五一七年)在播磨国正六位
 上天一神授従五位下、丁亥在播磨国従五位下天一神預官社」
・和名抄の百鬼経に曰く
「天一神和名奈加加美天女化身也」
その他の古書「姓氏録云」「神社覈録」「比保古云」「地名彙」
「神祇志料」「播磨風土記」「播磨国細見記」「式社記」等に
登載されている。

古例舊慣
往古より毎年正月朔日より七日間祭典を行いこの間に参詣すれば
「天一神玉」の霊験により疫病に罹る事なし、との伝により参詣者は
近郷のみならず他郷他郡の遠きより群参せり。
尚、近年は交通安全、入試合格、諸技術上達等の祈願により
目的成就、喜びの人々急増せり

昭和五十四年八月吉日 個人寄贈

とある


「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。

ご祭神は、天之御中主大神・(配祀)天目一箇神。

天安元年(857年)従五位下。
承応8年(1659年)改築(修正)。
文化5年(1808年)社殿改築。

宝剣(銅剣)が御神体であることは、天智記に「安置御宅」と記され、延喜式神名帳をはじめ多くの古書に登記され有名である。尚、奈良東大寺戒壇神名帳に「天一天白中頭天王」と天一神社のことが記されている。正月には疾病を免れると近郷より多数の参拝者がある。
明治20年(1887年)頃、平松の「ゴロウ」と呼ばれる所から銅剣が発掘された。これが当社の御神体・御神宝とされるもので、弥生時代に大陸から渡って来たものだという。県の重要文化財に指定されている。

とある。


兵庫県神社庁によると

主祭神:天御中主大神(アメノミナカヌシノオオカミ)

由 緒:
 創立年代不詳なれど延喜式神名帳に佐用郡二社佐用比売神社・天一神社とあり延喜年代の宮席あり、正しくは天一神社と云う。
 鍛冶の神、職業神、銅剣(県指定重要文化財)は明治20年(1887)頃平松の「ゴロウ」と呼ばれる所から発掘され、弥生時代に大陸から渡って来たもので圃場整備の時に数々の土器が発見された。

とある。


天一神社のある当地は、千種川の東岸、東徳久(ひがしとくさ)の北端の間村(まむら)の標高200メートルほどの山のほぼ頂上に鎮座している。
東徳久(ひがしとくさ)は西の千種川と東の御殿山に挟まれた丘陵地となっている。
個人的にはこのあたりはたたら製鉄が盛んな地域だったのではないかと想像している、周辺には鎌屋とか鋳物師屋とかという地名が残る。
宍粟や佐用は古代製鉄がおおいに盛んな地域だったとされ、東徳久(ひがしとくさ)間村(まむら)にも間村製鉄遺跡が残っている(天一神社の登り口のあたり)。
周辺には、殿崎首塚・徳久城跡・矢能砦跡・間村製鉄遺跡・東徳久遺跡・スポーツ公園遺跡・東徳久製鉄A~B遺跡(兵庫県考古博物館資料による)が確認されている。
また、古代美作道がすぐ南を通っていたと思われ、さらに直線で5kmほど西には「因幡道」分岐があったと推定されている。
街道筋や水運にも恵まれた地域であったことは間違いない。

天一神社のご祭神は、天之御中主大神・(配祀)天目一箇神。
製鉄と大いに関係があったとすれば、本来は天目一箇神を祀っていたのかもしれない(個人的見解です)。

天一神社へのアプローチは分かりやすいとは言えない。
兵庫県道53号宍粟下徳久線の横畑公民館あたりに案内看板があるが小さくて見立たない。
ここから東へ入り千種川を渡り(東)、道なりに行くと正面に東徳久地区農事組合の建物がある、これを北(左)へ入る。
しばらく走り集落の中を左(北)へ入ると間村(まむら)集会所のあたりに到着する。
このあたりにクルマを駐車させていただき徒歩でアプローチする。
カーブミラーに、「天一神社(約二千年前弥生時代創立)参道」と書かれた小さな案内がある。
20分ほど山道をトレッキングのように歩くので歩きやすい靴が良い。

間村(まむら)集会所の前のカーブミラーの案内から北へまっすぐ行くと民家と倉庫の間で行き止まりのような感じだが獣避けフェンスがあり開けて入らせていただく。
獣避けフェンスは開けたら必ず閉めること。
獣避けフェンスから山の斜面を登ると南面した鳥居がある、訪ねた際には鳥居は倒れてしまっていた。
さらにしばらく登ると中腹に祠が見えてくるが、この祠は書道の神とされている。
ここからは踏み跡が薄れていて少々心細いがさらに登っていくと崩れた石段と拝殿が見えてくる。

社殿は割拝殿・拝殿・覆屋に入った本殿で構成されており、東西に細長い山の稜線に南面して建っている。
手前の割拝殿は舞殿と絵馬殿を兼用したような形式で奉納物が掲げられている、日付を見ると明治・大正期は盛んだったようだ。
割拝殿と拝殿の間に個人寄贈の由緒書が置かれている。
山の稜線に鎮座しているところが興味深い、古くからこの山で鉄を採り麓で製鉄を行っていたのだろうと想像できる。
社殿はそれほど古くはなさそうだが少々朽ち果て気味で、人里からは20分程度かけて徒歩で登る必要があるため手入れが追いついていない。

さらに興味深いのは東西稜線の西側には両部鳥居が西面して建てられている。
本来は南へまっすぐ参道があったと思われるが、近世では南側ではなく西側よりの参拝が多かったのではなかろうか。
この西側の両部鳥居も朽ちていていつ崩れてもおかしくない状態だった。
個人的には周辺の製鉄遺跡とともに保存されるべき式内社だと思う。

製鉄遺跡と共にある製鉄の神様を祀った山の稜線に鎮座する神社。

注意点

周囲に邪魔にならないように駐車すること。
獣避けフェンスは開けたら必ず閉めること。
20分ほどかなりの山道を登るので歩きやすい靴が必要(雨天時は避けたほうが良い)。

訪問ノート

訪問日 :2021/11/26
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM、RX100M3

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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