比定社:賣布神社(売布神社)(豊岡市日高町)
式内社コード:275-050
神名帳社名 :売布神社(賣布神社)、ヒメフノ
社 格:小
所 在 地 :669-5341 兵庫県豊岡市日高町国分寺691
Plus Code :FQFF+F5 豊岡市、兵庫県
※賣布神社は令和元年(2019年)に荒神神社に遷座合祀された。
【旧地】
所 在 地 :669-5341 兵庫県豊岡市日高町国分寺山ノ脇797
Plus Code :FQCC+V6 豊岡市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。
アプローチ&ロケーション【旧地】
「めふじんじゃ」と読む。
賣布神社は令和元年(2019年)に荒神神社に遷座合祀されている。
賣布神社の跡地は日高町国分寺の北の山裾にある。
豊岡市役所日高庁舎の北側200メートルほどの集落の中にある。
周辺道路はクルマでは入れないので徒歩でのアプローチが必要。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通2】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩2】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索3】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト【旧地】
但馬国府や但馬国分寺に近く但馬の中心地に位置するところ。
写真【旧地】
感想【旧地】
神社合祀実行委員会謹製の説明書によると
式内社 賣布(めふ)神社跡
豊岡市日高町国分寺字山ノ脇七九七
旧石立村
由緒
祭神 大賣布命
創社 朱雀三年
当社往古は祢布ケ森にあったが字天神山中腹に遷宮する。
万延元年(一八六〇年)本殿再建する。
後に、大雨の為、境内が破損し文久二年(一八六二年)現在地に遷宮する。
明治六年(一八六七年)格式制度廃止により村社となる。
明治九年(一八七九年)石立村と国分寺村が合併し国保村となる。
大正十年(一九二一年)屋根替えする。
昭和二十七年(一九五二年)近隣の国府村と聞き間違い多く再び国分寺村に
改名し現在は国分寺区となる。
令和元年(二〇一九年)荒神神社に遷座合祀する。
神社合祀実行委員会
[追記]
式内社 平安時代前期、延喜式の巻九、
十の神名帳に記載された神社で
(官幣社、国幣社)三千百三十二座の
記載がある由緒ある神社。
令和二年三月吉日
※補足:朱雀三年は1年だけ(686年)なので688年だと思われる。
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、大売布命、(配祀)毘沙門天・稻荷大明神。
朱鳥3年(688年)創祀。
万延元年(1860年)本殿再建。
文久2年(1862年)現鎮座地に遷座(現在の跡地のこと)。
明治6年(1873年)村社。
令和元年(2019年)荒神神社に遷座合祀(追加)。
江戸時代までは「禰布ケ森明神」と呼ばれていた。
往古は禰布ケ森と呼ばれるところに鎮座していたが、洪水で社殿が流され、中世に天神と呼ばれる山腹に遷座したと伝えられる。
さらに文久2年(1862年)現鎮座地に遷座した。
とある。
兵庫県神社庁によると
主祭神:大売布命(オオメフノミコト)
配祀神:毘沙門天(ビシャモンテン)・稲荷大明神(イナリダイミョウジン)
創立年月不詳。
往古は石立村の西南字祢布ヶ森に鎮座ありしを中古字天神という同村東の山腹に遷す。
然るに同所は大雨の為、境内大いに損ぜしかば文久2年(1862)現境内に移転せり。
王朝時代延喜式の制小社に列し万延元年本殿を再建し、明治6年(1873)10月村社に列せらる。
大正10年(1921)本殿の屋根替えあり
とある。
当地は、古代において非常に重要な地域で国府と国分寺が設置された地域だ。
但馬国府は何度か移転をしているようで、明確な場所の特定はできていない。
その中の有力候補である、平安時代の但馬国府跡(祢布ヶ森遺跡)は、南へ賣布神社より250メートルほどの場所にある。
また、但馬国分寺は天平13年(741年)聖武天皇により創建されたと伝わる。
但馬国分寺跡は、賣布神社より東へ僅か200メートルほどの距離のところにあり、国指定史跡名勝天然記念物となっている。
賣布神社の由緒は、朱鳥3年(688年)創建から万延元年(1860年)本殿再建まで飛んでいるので少し補足してみる。
賣布神社は何度か遷座しているようだ、少し整理してみると次のようになる。
・朱鳥3年(688年)創祀の時は祢布ヶ森(現在の祢布ヶ森遺跡のあたり)に鎮座
・その後、年代は不明だが洪水のため天神山中腹に遷座(荒神神社のあたり)
・文久2年(1862年)現在の跡地に遷座
・令和元年(2019年)荒神神社に遷座合祀(再び荒神神社のある場所)
なんだか行ったり来たりしているようだ。
ご祭神の大売布命は、物部大売布命とも言われ伊香色雄命の子とされる。
日本武尊の東征に随行、その後にも景行天皇の東国巡行にも随行した。
景行天皇32年(102年)大売布命は、日本武尊東征への貢献により、摂津川奈辺(川辺郡)・多遅麻気多・同じく多遅麻黄沼前(城崎)の三県を与えられ、多遅麻に入り気多の射楯宮に在した。
大売布命は多遅麻物部氏の祖とされている、経緯を簡単にまとめると次のようになる。
・大売布命
味饒田命の弟 彦湯支命の五世孫伊香色雄命の子
景行天皇32年(102年)摂津川奈辺(川辺郡)・多遅麻気多・多遅麻黄沼前(城崎)の三県を与えられる
多遅麻物部氏の祖
神功皇后2年(202年)物部連大売布命亡くなる
・物部多遅麻連公武(大売布命の子)
神功皇后2年(202年)、多遅麻国造
父を射楯丘(豊岡市日高町)に葬る
国府を気立県高田邑に置く
・物部多遅麻毘古(物部多遅麻連公武の子)
仁徳天皇元年(313年)、多遅麻国造
国府を日置郷に遷す
賣布神社の始まりは、大売布命の子である物部多遅麻連公武が父を射楯丘(豊岡市日高町)に葬ったことのようだ。
多遅麻物部氏の支配地域である摂津には、同じ売布(めふ)の名前を持つ神社があり大売布命が祀られているのではないかと言われている。
・「045-02_高売布神社」:兵庫県三田市
・「045-08_売布神社」:兵庫県宝塚市
賣布神社の跡地は日高町国分寺の北の山裾にあり徒歩で住宅の中に入っていく。
集落の中の一番山側(北側)に位置し、周囲の道はクルマが通れない徒歩のみの道となる。
道路から数段の石段を上がれば社域なのだが、訪問した際にはすでに遷座の後で社殿は無くなっていた。
令和に入ってから3回目の遷座をした多遅麻物部氏を祀る神社。
注意点【旧地】
最後のアプローチは狭いので徒歩のみ。
訪問ノート【旧地】
訪問日 :2021/5/22
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。