274-140_(論)大生部兵主神社(豊岡市但東町薬王寺)

比定社:(論)大生部兵主神社(豊岡市但東町薬王寺)

式内社コード:274-140
神名帳社名 :大生部兵主神社、オホフヘ-
社    格:小
所 在 地 :668-0371 兵庫県豊岡市但東町薬王寺848
Plus Code  :C2JR+MW 豊岡市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

おおいくべひょうすじんじゃと読む。
薬王寺集落の東の端の山の中腹に鎮座。
国道426号線より兵庫県道・京都府道63号山東大江線に入り1本道。
県境の神懸峠の手前の道が険しくなる前の集落の一番東にある。
西から進んでいくと左側に高い石垣がありその上。
神社の左手の簡易舗装の坂を上がると鳥居横に駐車可能。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

本殿に施された見事な彫刻は、中井権次正貞の作で一見の価値がある。
ちょっと怖い、釘を打ち込まれた杉のご神木。

写真

大生部兵主神社を正面より望む。鳥居は南を向いている。
大生部兵主神社を正面より望む。鳥居は南を向いている。
右側(東)を望む。前の道は兵庫県道・京都府道63号山東大江線、こちらは大江方向。ここで集落は最後になりこの先に神懸峠があり京都府に入る。
右側(東)を望む。前の道は兵庫県道・京都府道63号山東大江線、こちらは大江方向。ここで集落は最後になりこの先に神懸峠があり京都府に入る。
左側(西)を望む。前の道は兵庫県道・京都府道63号山東大江線、こちらは国道426号線方面。
左側(西)を望む。前の道は兵庫県道・京都府道63号山東大江線、こちらは国道426号線方面。
鳥居脇の社標。県社とある。
鳥居脇の社標。県社とある。
鳥居脇の社標。こちらは式内とある。
鳥居脇の社標。こちらは式内とある。
鳥居をくぐるとちょっとした広場。右に社務所、左に駐車スペースがある。
鳥居をくぐるとちょっとした広場。右に社務所、左に駐車スペースがある。
手水舎。
手水舎。
さらに石段を登ると社殿がある。
さらに石段を登ると社殿がある。
石段を登りきると前に株螺鈿(舞殿)、右手に拝殿と本殿がある。横から入る形となる。
石段を登りきると前に株螺鈿(舞殿)、右手に拝殿と本殿がある。横から入る形となる。
神楽殿(舞殿)の横から社殿を望む。
神楽殿(舞殿)の横から社殿を望む。
拝殿と本殿を左側より望む。
拝殿と本殿を左側より望む。
拝殿を正面より望む。拝殿は非常にシンプル。
拝殿を正面より望む。拝殿は非常にシンプル。
拝殿内部を望む。向こうに本殿が見えている。素晴らしい彫り物が施されているのが分かる。
拝殿内部を望む。向こうに本殿が見えている。素晴らしい彫り物が施されているのが分かる。
本殿を右側より望む。うまく撮れていないが細かいダイナミックな彫り物。中井権次正貞の作で一見の価値がある。
本殿を右側より望む。うまく撮れていないが細かいダイナミックな彫り物。中井権次正貞の作で一見の価値がある。
本殿を右側より望む。寒い地方だが覆屋には入ってない。本殿は天保元年(1830年)の建築。
本殿を右側より望む。寒い地方だが覆屋には入ってない。本殿は天保元年(1830年)の建築。
本殿を右側後ろより望む。屋根の勾配がきつく背が高く感じる。
本殿を右側後ろより望む。屋根の勾配がきつく背が高く感じる。
本殿左後ろから拝殿と神楽殿(舞殿)を望む。
本殿左後ろから拝殿と神楽殿(舞殿)を望む。
拝殿横より神楽殿(舞殿)を望む。横だけではなく奥行きもかなり大きな建物だ。
拝殿横より神楽殿(舞殿)を望む。横だけではなく奥行きもかなり大きな建物だ。
神楽殿(舞殿)の内部を望む。これだけ大きいと太い梁で支えないともたない。奥行きにも注目。
神楽殿(舞殿)の内部を望む。これだけ大きいと太い梁で支えないともたない。奥行きにも注目。
神楽殿(舞殿)脇の石段を望む。
神楽殿(舞殿)脇の石段を望む。
鳥居越しに正面を望む。こちらは南側。
鳥居越しに正面を望む。こちらは南側。

感想

由緒書はないので詳細不明。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、武速素盞嗚命、(配祀)武雷命。
天武天皇12年(683年)社地を移して齋祀。
斎衡元年(854年)現在地に遷座(修正)。
貞観年中(859~877年)には社殿を造管。
康保元年(964年)田地四・六町の寄進。
治安元年(1021年)平光守が勅使として参向。
弘安年中(1278~1288年)神階従三位。
天正18年(1590年)社領没収。
貞享5年(1688年)本殿再建。
宝永6年(1709年)造営。
天保元年(1830年)造営。
明治6年(1873年)村社。
明治16年(1883年)大生部神社を大生部兵主神社と改称。
大正5年(1916年)郷社。
大正15年(1926年)県社。
江戸時代までは「薬王寺天王社」「牛頭天王社」と呼ばれていた。
用明天皇の皇子麻呂子親王が丹後国竹野郡の賊を征伐するため当社の北の江笠嶽鎮座の牛頭天王に参籠祈願したのを創祀とする。
とある。


延喜式神名帳の但馬国・出石郡の「大生部兵主神社」の論社4つのうちの1つ。

麻呂子親王は、生誕が574~586年ではないかと言われている第31代用明天皇の第3皇子。
江笠嶽というのは、薬王寺より赤花へ抜ける兵庫県道251号赤花薬王寺線の薬王寺峠のすぐ東にある江笠山(標高727m)だと思われ、当社とは直線で2.3kmほど北になる。
ハッキリとした年代が分からないが、たぶん600年代の前半だろうと思われる(個人的見解です)。
この時代は大和朝廷に従わない勢力があり、その前線基地として機能していたと思われる。

他の兵主神社とは異なり、兵器庫(兵庫、つわものぐら)を作ったという記録はないようだ。
その代わり牛頭天王に祈願したとハッキリと神様が限定されている。
全体的に牛頭天王の色が濃く、兵主神社の表示は社名のみだ。
他の兵主神社は、兵主神を祀ることが多い。

社域は、街道筋よりもかなり高い場所にある。
社域は2段構成になっていて、鳥居のある場所よりも社殿のある場所のほうがかなり高い。
社域には古木も多く、古くから鎮座しているのがよく分かる。

社殿は、拝殿・本殿・神楽殿(舞殿)の構成。
本殿は、天保元年(1830年)造営とあるので、それなりに風雪で色が褪せている。
本殿に施された見事な彫刻は、中井権次正貞の作で一見の価値がある。

神楽殿(舞殿)は、舞台というよりもっと大規模なもので左右・奥行きともに広い。
お祭りの際には、浦安の舞・練込太鼓などが披露されるらしい。

また、収蔵品として源頼光(948~1021年)の鬼退治祈願の刀が伝わるという、ぜひ見てみたい。

怖いお話、樹齢400年といわれるご神木である杉の大木があり、ここには女性が男性を呪って釘を打ち込んだ跡が残るという、いつの時代でも女性は怖い…。

社域は、大変きれいに保たれていて気持ちよく参拝できる。

注意点

特になし。

訪問ノート

訪問日 :2019/7/27
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3

各種式内社データへのリンク

御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。

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