比定社:(論)礒崎神社
式内社コード:318-020
神名帳社名 :崇健神社、タカタケノ
社 格:小
所 在 地 :675-2454 兵庫県加西市下道山町559-1
Plus Code :XR9W+F7 加西市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus codeを検索すると表示されます。
アプローチ&ロケーション
「いそざきじんじゃ」と読む、地名の加西市下道山町は「かさいししもみちやまちょう」と読む。
兵庫県道145号下滝野市川線を西へ向かって進むと、県道から分岐し万願寺町への案内看板がある。
県道の分岐から350メートルほどで右手に鳥居が見えてくる。
参道の途中に獣除けの門扉があるので開けたら必ず閉めること。
訪問しやすさ指数
管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。
【秘境2】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル
【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける
【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易
【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル
ハイライト
社務所前の崩れた築地塀が神宮寺の痕跡を残しているところ。
写真
感想
赤穂義士ゆかりの地 説明書きによると
「忠臣蔵」で有名な浅野赤穂藩は、正保2年(1645年)6月、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の祖父である浅野長直が常陸国(茨
城県)笠間藩より国替えにより赤穂藩主となったことに始まります。赤穂藩が誕生した当時、所領は53500石でしたが、そのうち赤穂郡
一円にあったのは35200石。加えて飛地として、佐用郡に1200石、加東郡に8200石、加西郡に8900石が所領としてありました。つまり、
赤穂藩のうち約1/3にあたる所領が加東郡・加西郡にあったことから、加西市には、赤穂義士ゆかりの地が今でも数多く残ります。
奥野将監(おくのしょうげん)屋敷跡(礒崎神社脇)
赤穂藩士の一人で浅野家の重臣である奥野将監が隠れ住んだという屋敷跡が礒崎神社の脇にあります。
奥の将監は、赤穂城明け渡し後、大石内蔵助に次ぐ重臣として大石内蔵助を支え、藩内の取りまとめにあ
たりました。しかし、浅野家再興が不可能になると、吉良上野介への仇討ちが決定した京都での円山会議
の直後に脱藩し、討ち入りには参加しませんでした。
この脱藩については、大石内蔵助が吉良上野介を打ちもらした際に備える2番手だったとも、また、浅野
内匠頭の隠し子を育てるためだったとも云われていますが、真相は不明です。
脱盟後は、将監の娘が礒崎神社の宮寺快智院に嫁いでいるのを頼り、右衛門(ウエ門)と名を改め、礒崎
神社脇の山裾に居を構え、晩年を過ごしました。禄高1000石の高禄であった将監ですが、討ち入りに参加
した藩士が義士として持ち上げられる一方、討ち入りに参加しなかった藩士たちは身を隠すように暮らし
ていたことを物語る小さな住居跡です。
礒崎神社
礒崎神社は、719年に現在の上道山町岩崎神社の地に創建され、その後50年ほど後に現在の地へ遷座され
たと伝えられる由緒ある神社です。
創建当時から、朝廷からの勅使が遣わされた数少ない神社の一つで、平安時代には雨乞いの神様として
広く知られていました。江戸時代に、神宮寺が建ち、僧侶が礒崎神社に奉仕していました。奥野将監は、こ
の神宮寺を頼ってやってきました。
平成29年度「第29回忠臣蔵サミット in 加西」開催記念事業
とある。
「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る(追加修正あり)。
ご祭神は、市杵島姫命・湍津姫命・田心姫命・(配祀)応神天皇・比売大神。
養老4年(720年)2月宇佐八幡宮より勧請。
文政2年(1819年)11月造営。
中世神宮寺別当があまりにも権力を持ち威張るので、氏子達は負担、その他困る事が多く、今更に式内社名なるものを持ち出されては非常に迷惑であるとのことで、亦氏子達と裁判ざたまで起した事もあるらしい。と云う様な理由にて式内社名のある品は取り除き式内社名やその由緒などは捨ててしまつた。
とある。
兵庫県神社庁によると
主祭神:応神天皇(オウジンテンノウ)
配祀神:市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)・湍津姫命(タギツヒメノミコト)・比売大神(ヒメオオカミ)・田心姫命(タゴリヒメノミコト)
由 緒:
養老3年(719)、創立。
養老4年(720)、宇佐八幡宮より応神天皇を勧請。
延喜式の賀茂郡崇健神社は当社である。
江戸時代、領主浅野又市郎より黒印料20石を寄付。
明治7年(1874)、村社に列せられる。
とある。
崇健神社の論社のひとつ。
(論)礒崎神社のある当地は、加西市から北西へ市川町へ抜ける釜坂峠の街道筋に当たる場所。
さらに北から流れる満願寺川が街道筋(若井川)に合流する場所にもあたり西向けの山裾に鎮座する。
赤穂義士ゆかりの地 説明書きによると、「719年に現在の上道山町岩崎神社の地に創建され、その後50年ほど後に現在の地へ遷座」とある、だが上道山町岩崎神社の詳細は不明だ。
また神宮寺のことも出てくるのだが、こちらも詳細は不明で記録が少ない神社。
古くより拓けた地であることには間違いないようで周辺には次の遺跡等がある。
東山1~4号墳、東山6~7号墳、伏田遺跡、下道山1~4号窯、崇礒古墳(磯崎神社古墳)、下道山狭間遺跡、下道山第1~4散布地、奥野将監居宅跡(兵庫県考古博物館資料による)。
(論)礒崎神社のご祭神は、市杵島姫命・湍津姫命・田心姫命・(配祀)応神天皇・比売大神。
崇健神社の論社のひとつで記録が少ない神社、場所的な由来やご祭神との関係についても不明だ。
(論)礒崎神社へのアプローチは、比較的分かりやすい。
兵庫県道145号下滝野市川線を西へ向かって進むと、県道から分岐し万願寺町への案内看板がある。
県道の分岐から350メートルほどで右手に鳥居が見えてくる。
鳥居の辺りにクルマを駐車できるスペースがあるが、鳥居の左手の道路を進むと社務所のあたりまでクルマで入ることも可能。
赤穂義士ゆかりの地の説明書きがある入口を入るとすぐに鳥居、周辺は田畑と住宅があるのどかな田園風景が広がる。
鳥居の前には礒崎八幡宮の社標がある、礒崎八幡宮の詳細は不明だ。
鳥居をくぐるとコンクリート貼りの並木道となっている参道を進む、すぐ脇には工場がある。
石段を登ると小高い開けた場所となり右手に社務所、その右奥が奥野将監居宅跡となっている。
左手には築地塀があり、神宮寺があったのだろうか、こちらも詳細は不明だ。
さらに進むと立派な鉄製の門扉があるので入らせていただく、開けたら必ず閉めること。
門扉を越えるとゆるい傾斜の参道が続いており、その先に社殿が見えている。
周囲は適度な社叢となっていてなかなか良い雰囲気、石段を登ると社殿のある広場に出る。
正面の拝殿は非常に立派で大きいもの、腰板付きのオープンな形式となっている。
中井権次正貞による彫り物が施してあり見応えがある。
拝殿の後方には幣殿、そして本殿と続いており状態も良いように見える。
ちなみに社殿は文政2年(1819年)11月造営と伝わる、中井権次正貞は1780~1855年の人だから年代も合う。
社域には摂社末社が多くあり、かつては規模が大きかったのではないかと想像できる。
記録が残っておらず詳細は不明だが、このあたり一帯の山を含む場所が大きな信仰の地だったのかもしれない。
神と仏の両方を大切にしたのではなかろうか。
かつての神宮寺の匂いが残る神社。
注意点
獣除け門扉を開けたら必ず閉めること。
訪問ノート
訪問日 :2019/6/29
交通手段:クルマで訪問
カメラ :RX100M3
各種式内社データへのリンク
御祭神等の詳細データは以下をご参照ください。