274-130_(論)大生部兵主神社(豊岡市奥野)

比定社:(論)大生部兵主神社(豊岡市奥野)

式内社コード:274-130
神名帳社名 :大生部兵主神社、オホフヘ-
社    格:小
所 在 地 :668-0822 兵庫県豊岡市奥野1
Plus Code  :GVRJ+C4 豊岡市、兵庫県
※Google Mapで上記の Plus code を検索すると所在地が表示されます。

アプローチ&ロケーション

おおうべひょうずじんじゃと読む。
京都府道・兵庫県道703号永留豊岡線の奥野集落の南西の端の山裾に鎮座。
京都府道・兵庫県道703号永留豊岡線を走っていると南に鳥居や社殿が見えるので場所は分かりやすい。
アプローチは田畑の中の道を進み、神社前の穴見川にかかる橋の手前に駐車スペースがある。
この橋はクルマで渡るのは危険。

訪問しやすさ指数

管理人の独断による訪問しやすさの点数を付けてみました。
管理人の独断による4つの観点、秘境度・交通の至便さ・徒歩でのアプローチ状況・探索の必要性、を点数化しました。
各点数が低ければ容易、高ければ難易度が高くなります。
式内社訪問の際の参考にしていただければ幸いです。

【秘境3】社域がどのような所なのか
5:秘境度MAX、深山幽谷で野生動物に注意レベル
4:秘境度はかなりのモノ、近くに人間がいないレベル
3:かなり自然の中の神社、時々人を見るレベル
2:近くに集落があり、子供が遊んでいるレベル
1:都会の神社、誰もがフラッと入れるレベル

【交通3】交通機関の状況
5:クルマのみ、4WD車等の特殊なクルマでしか行けない険しい場所
4:クルマのみ、普通のクルマで大丈夫だが林道等の条件の厳しい道路
3:クルマのみ、普通のクルマで普通に行ける
2:電車・バス等の公共交通機関はあるが制約が多くクルマのほうがベター
1:電車・バス等の公共交通機関で容易に行ける

【徒歩1】徒歩区間の長さと難易度
5:片道30分以上歩く、坂がきつい、やぶこき必要レベル
4:歩きは20分以内、がっつりトレッキング、危険箇所あり
3:歩きは15分以内、坂や石段があって軽くトレッキング、所によっては滑りやすいとかあり
2:歩きは10分以内、トレッキング要素ありだが容易
1:歩きは5分以内、容易

【探索2】発見難易度
5:何回も訪問しないと分からないレベル
4:周辺をかなり歩き回らないと分からないレベル
3:少々見つけにくいが見つけることができるレベル
2:目印があって比較的容易に見つけることができるレベル
1:目立つのですぐ見つかるレベル

ハイライト

謎の社標。
新築の社殿。

写真

大生部兵主神社を正面より望む。京都府道・兵庫県道703号永留豊岡線を南に入り農道を真っ直ぐ来ると橋がある。この橋は車で渡るのは危険だ。
大生部兵主神社を正面より望む。京都府道・兵庫県道703号永留豊岡線を南に入り農道を真っ直ぐ来ると橋がある。この橋は車で渡るのは危険だ。
右側(西)を望む。豊岡方面、この先に「菓祖 中嶋神社」がある。
右側(西)を望む。豊岡方面、この先に「菓祖 中嶋神社」がある。
正面(北)を望む。京都府道・兵庫県道703号永留豊岡線を南へ入ってこの農道を進んでくる。
正面(北)を望む。京都府道・兵庫県道703号永留豊岡線を南へ入ってこの農道を進んでくる。
左側(東)を望む。橋の手前左側には駐車スペースがある。クルマはここに停めよう。
左側(東)を望む。橋の手前左側には駐車スペースがある。クルマはここに停めよう。
鳥居を望む。扁額には大生部兵主神社とある。
鳥居を望む。扁額には大生部兵主神社とある。
鳥居をくぐると土の参道が続く。
鳥居をくぐると土の参道が続く。
仰天したのはこの社標。なんと「延喜式内・穴見郷戸主・大生部兵主神社」とある。同じく論社の穴見郷戸主大生部兵主神社から借りてきたのかもしれない。右側の石はなにか分からない。
仰天したのはこの社標。なんと「延喜式内・穴見郷戸主・大生部兵主神社」とある。同じく論社の穴見郷戸主大生部兵主神社から借りてきたのかもしれない。右側の石はなにか分からない。
参道を進むと左に社殿がある。社殿の横から入ってきたということになる。
参道を進むと左に社殿がある。社殿の横から入ってきたということになる。
拝殿と覆屋に入った本殿を左側より望む。
拝殿と覆屋に入った本殿を左側より望む。
拝殿を正面より望む。
拝殿を正面より望む。
拝殿内部を望む。横の格子戸はサッシ、天井も床も新建材で作られているようだ。扁額には大生部兵主神社とある。
拝殿内部を望む。横の格子戸はサッシ、天井も床も新建材で作られているようだ。扁額には大生部兵主神社とある。
拝殿と覆屋に入った本殿を右側より望む。手前の摂社末社も同じ建材で作られているようだ。
拝殿と覆屋に入った本殿を右側より望む。手前の摂社末社も同じ建材で作られているようだ。
覆屋に入った本殿の左奥より拝殿を望む。覆屋の表面が本物の木じゃないみたいだ。
覆屋に入った本殿の左奥より拝殿を望む。覆屋の表面が本物の木じゃないみたいだ。
拝殿前で向きをチェックしてみたら社殿は西を向いている。
拝殿前で向きをチェックしてみたら社殿は西を向いている。
神楽殿の後ろの方から望む。すぐ左が穴見川が流れていて川沿いに細長い社域となっている。
神楽殿の後ろの方から望む。すぐ左が穴見川が流れていて川沿いに細長い社域となっている。
参道より鳥居を望む。
参道より鳥居を望む。
参道より鳥居越しに望む。
参道より鳥居越しに望む。

感想

由緒書はないので詳細不明。

「延喜式神社の調査」によると以下のデータが残る。
ご祭神は、大己貴命。
弘仁元年(810年)兵庫を建て兵主の神を祀る。
延宝2年(1674年)本殿改築。
寛政3年(1791年)火災。
明治初年(1868年)社名を大生部神社と決定。
明治6年(1873年)村社。
明治14年(1881年)有庫神社から現社号に改称。
大正12年(1923年)本殿改築。
江戸時代までは「有庫兵主大明神」「奥野兵主大明神」「有庫神社」と呼ばれていた。
弘仁元年此地に兵庫を建て在庫の里と云い、兵主の神を祀って兵主神社と称した。
とある。


延喜式神名帳の但馬国・出石郡の「大生部兵主神社」の論社4つのうちの1つ。

兵主神社の実態はどのようなものだったのだろうか。
大生部兵主神社の創建は、
“弘仁元年此地に兵庫を建て在庫の里と云い、兵主の神を祀って兵主神社と称した。”
とある。
兵庫とは、「ひょうご」「へいこ」「つわものぐら」と読む。
文字通り、兵器を格納しておく倉や倉庫、つまり兵器庫のこと。
在庫の里とは地名で「ありこ」と読むようだ。
その兵器庫に兵主神を祀ったという内容になっている。

兵器庫が必要だということは、そのあたりが紛争中あるいは紛争が起きるかもしれない地域なのだろう。
有事の際に素早く対応しようと思えば、現場に近い場所に兵士と兵器を用意すると思う。
そこで、延喜式神名帳に出てくる「兵主神社」を抜き出してみると次のような結果になった。

大和国・城上郡・018-030・穴師坐兵主神社 ・名神大月次新嘗_相嘗
大和国・城上郡・018-230・穴師大兵主神社 ・小
和泉国・和泉郡・037-050・兵主神社    ・小
三河国・賀茂郡・076-030・兵主神社    ・小
近江国・野洲郡・152-040・兵主神社    ・名神大
近江国・伊香郡・159-170・兵主神社    ・小
丹波国・氷上郡・264-110・兵主神社    ・小
但馬国・朝来郡・272-040・兵主神社    ・小
但馬国・養父郡・273-090・兵主神社    ・小
但馬国・養父郡・273-230・更杵村大兵主神社・小
但馬国・出石郡・274-130・大生部兵主神社 ・小
但馬国・気多郡・275-070・久刀寸兵主神社 ・小
但馬国・城崎郡・276-110・兵主神社    ・小
但馬国・城崎郡・276-130・兵主神社二座  ・小
因幡国・巨濃郡・280-050・佐弥乃兵主神社 ・小
因幡国・巨濃郡・280-070・許野乃兵主神社 ・小
播磨国・飾磨郡・310-010・射楯兵主神社二座・小
播磨国・多可郡・317-020・兵主神社    ・小
壱岐島・壱伎郡・422-050・兵主神社    ・名神大

これを見ると但馬国は他の国に対して突出して多いことが分かる。
他の国は多くても2つ、但馬国は7つある、これはもう異常事態だと言えるだろう。
弘仁元年(810年)の前後は、但馬国が緊張状態にあったのだと推測できる(個人的見解です)。

ちなみに現在の兵庫県という名前はこの「兵庫(つわものぐら)」を由来としているそうだ。

式内社の兵主神社の分布をプロットしたもの。三河国・近江国の各1ヶ所づつは場所が特定できずプロット無し。壱岐島も除外した。紛争地域!?は兵庫県北部に集中している。
式内社の兵主神社の分布をプロットしたもの。三河国・近江国の各1ヶ所づつは場所が特定できずプロット無し。壱岐島も除外した。紛争地域!?は兵庫県北部に集中している。
同じく式内社の兵主神社の分布をプロットしたものの但馬国のアップ。ほぼ円山川沿いの朝来から豊岡あたりに集中している。大和朝廷へ最後まで従わない氏族や地域があったのだろうか。
同じく式内社の兵主神社の分布をプロットしたものの但馬国のアップ。ほぼ円山川沿いの朝来から豊岡あたりに集中している。大和朝廷へ最後まで従わない氏族や地域があったのだろうか。

お話を元に戻して
大生部兵主神社には、ありがたいことに橋の手前に駐車スペースがある。
神社前の橋はクルマで渡らないほうが良い、狭いしどれくらいの重さに耐えれるか分からない。
徒歩で橋を渡る鳥居、扁額には大生部兵主神社とある。

鳥居をくぐると左手に社標がある、これを見て仰天した。
なんと、「延喜式内・穴見郷戸主・大生部兵主神社」とある、おかしい…。
想像するに、明治14年(1881年)有庫神社から大生部兵主神社に改称した際に社標が無いので借りてきた、のではないだろうか(個人的見解です)。

気を取り直して進むと左手に社殿がある、社殿の左側から入ってきたような形になる。
拜殿と覆屋に入った本殿は新築されて真新しい、しかも木製ではないようだ(これは記録にない)。
本殿は拜殿からも外部からも全く見ることができない、残念。

拜殿の向かいには神楽殿のような舞台のような建物がある、かなり大きく立派だ。
こちらはちゃんと木製で色褪せている。

社域は古木も多く、明るく落ち着いた感じの社叢だ、鬱蒼とした感じではない。
石畳も舗装も全く無い土の社域、良い感じだ。
きれいに保たれていて気持ちよく参拝できる。

兵主神社自体の謎も多いが、こちらの大生部兵主神社も社標の謎が気にかかる。

注意点

神社前の橋はクルマで渡らないように。

訪問ノート

訪問日 :2021/7/3
交通手段:クルマで訪問
カメラ :α7M3 + FE16-35mm F2.8 GM